閑話 ロッチャ国――先遣部隊
ノネッテ国を目指し、国境の山を登っていた俺たち――ロッチャ国軍の先遣部隊は、突然の水に襲われた。
雪崩ならまだしも、水のない場所でだ。
敵の魔法攻撃だとすぐにわかった。
密集隊形で水の勢いをやり過ごしてから、周囲を見回し、見つけたのは、毛皮で毛むくじゃらな背の小さい存在。
つい先日滅んだメンダシウム国がノネッテ国民のことを『豆喰い猿』と呼んでいたと聞くが、確かにあの見た目は猿に似ていた。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」」
雄叫びを上げ、武器を振り上げて突撃する振りをすると、ノネッテの敵兵は泡を食ったように山の上へと逃げていく。
その逃げっぷりたるや、追い払われる獣のごとき速さだった。
ますます猿っぽいと、変な感慨を受けてしまう。
敵を追い払ったので、進軍を再開するが、濡れた服に山風が直撃し、寒気が全身を包んだ。
「た、隊長。服を乾かしましょうぜ。これじゃあ、凍え死んじまうよ」
「わかってる。しかしこの場所は足場が悪くて、天幕は張れない。もう少し行ったら、休めそうな場所がある。そこまでは、体を動かすことで体温を維持しろ」
俺の言葉に、部下たちが不平が籠った声を上げる。
俺だって濡れているから、わかる。寒いから、濡れた鎧と服を脱いで、火で温まりたいっていう気持ちはな。
しかしだ。持ち運んできた燃料の炭にも限りがある。効率的に使わなければ、あっという間に枯渇してしまう。
まったく。だから冬の進軍は止めようって、言ったってのによぉ。死にかけの経済をどうにかすることしか頭にない上層部のやつらめ、寒い思いをするこっちのことも考えろってんだ。
内心で面白くない思いを抱えながら、どうにか休憩できそうな場所に到着する。
「天幕を張れ! 張り終わったら、濡れた連中は装備と服を脱いで中に入れ! 焼けた炭が入る前でも、大人数が天幕の中にぎゅうぎゅう詰めになれば、それだけでも温かい!」
「野郎と押し合いへし合いしろってんですかい!?」
「嫌なら凍えてろ! 幸いにも濡れてなかった連中は、周辺警戒と濡れた衣服を乾かす作業に入ってくれ。服の乾燥をぞんざいにするなよ。明日はお前たちが濡れる番になるかもしれないんだからな!」
「「へーい」」
濡れてない面々が仕方がないとばかりの返事を返す。
俺も濡れているので、さっさと鎧と服を脱ぎ、張られた天幕の中に入る。
足の踏み場もないほどに、野郎どもが詰め込まれているため、その体温で温まった空気で、すでに温かさを感じられる。
だが、その温かさと引き換えに、息苦しいし、汗臭い。
「むさ苦しいったらないな」
「命令を出した隊長が、言わんでくださいよ」
「天幕をサウナだと思えば、耐えられんことはねえですぜ」
兵士たちの軽口に、俺は安心した。
重装歩兵はその装備の重さから起伏のある場所苦手――それこそ山登りなど論外なのだが、兵士たちの意気は保たれている。
山の頂上はまだまだの位置なので、ここで既に消沈しているようだと、部隊指揮に困難が上乗せされるため、これは嬉しい情報だ。
さて、俺も天幕の中に座って温まるかなと思った瞬間、外が慌ただしくなった。
「また水だ! さっきの奴、近くに隠れてやがったんだ!」
「いや、遠くから魔法を使ったんだ! 山肌に水が広がって、濡れるのは足元ぐらいだ!」
その声を聞いて、俺は同じ天幕の中にいる連中へ大声を出す。
「全員で天幕の底を押さえろ! 水で押し流されて坂道を転がる羽目になったら、全員で天幕の中を転がり絡まる羽目になるぞ!」
「山の頂上方面の側面に集合しろ! 押さえろ!」
「山を転がって野郎と足を絡ませるなんて、やりたくねえ!」
大慌てで野郎どもが天幕を押さえる。
それから少しして、ノネッテの敵兵が放った水が来た。
全員で協力したことと、天幕をキッチリ張っていたこともあり、少し底の位置がずれるだけで被害は済んだ。
水の圧力が消えたことを確認してから、俺は外に顔を出す。
吹き付けてきた山風が、折角温まった肌の体温を奪っていくが、そんなことよりも状況確認が先だ。
「被害はどうなった!?」
天幕から顔を出して問いかけると、歩哨に立っていた兵士の一人が返答してくれた。
「天幕は重しが入っていたため全部無事です。山を滑ってきた水に足を取られた転んだ者がいて、少し下まで滑り落ちた者も若干出てます。休憩で物資を地面に置いていた関係で、多くが水を被ってしまいました。炭も湿気ってしまってます」
「敵の位置は!」
「被害は十分に与えたと判断したのか、山の頂上へ走っていってます」
「ぐぬぬっ。忌々しさも猿っぽい!」
歯噛みしてしまうが、そんなことをしても状況は変わらないと自制する。
「新たに濡れた者も温まらせて、服と鎧を乾かせさせろ!」
「了解です――しかし隊長。やはり山越えは無謀では?」
常識的な判断に基づく質問に、俺は思わず同意したくなってしまう。
「そんなことは、わかり切ったことだっただろう。俺たちの目的は、ノネッテの連中の目を、こちらに引き付けておくことだからな」
「この山越えとは別のルートで、本隊が侵攻するんですよね。でも、そんなことできるんですか?」
ノネッテ国は、周囲を山々に囲まれた山間の国。
俺たちがいま進んでいる山越えの道が、一番楽に移動できる道程のはずだった。
「知らん。もし捕虜になったとき、敵に情報を渡さないための措置として、俺はその本命の作戦の内容を聞かされていない」
「さいですか。なんとも不安ですね、隊長」
「ああ。俺たちが、こうして寒い思いをしていることが、報われると信じよう。もし報われなかったら、戦後に責任者に怒鳴り込むことにするぞ」
「それは勝っても負けても、楽しみがあっていいことですね」
お互いに大笑いしたところで、俺は身を震わせる。
「俺は天幕の中に戻る。貴様も、濡れた足元を放置するなよ」
「わかってますよ。ちゃんと靴下を新しくして、靴も炭を使って乾かしておきますよ」
俺は天幕の中に入り、そして考える。
兵士たちだけでなく、物資も濡れてしまっている。
それらを乾かすためにも、この場で野営するしかないだろう。
進軍が遅くなるが、仕方がない。どうせ俺たちは囮の先遣部隊だ。行程が遅くなるぐらい、どうってことはない。
気楽に構え、部下たちの消耗を最小限に考えて、少しずつ進軍していくことにしよう。
最初の水の攻撃を食らってから、三日はなにもなかった。
山の上に、あの猿のような敵がいるのではないかと、攻撃を受けた次の日は多くの兵士が警戒していた。
しかし二日、三日と攻撃を受けなかったこともあり、警戒も緩んできていた。
そして四日目。その気のゆるみをつけ狙うかのように、再び魔法による水の攻撃がきた。
だが以前の鉄砲水のような攻撃ではなかった。
霧吹きから放たれる水のように、細かな水の粒が突風に乗って襲い掛かってきたのだ。
「ぷわっ! なんて嫌な攻撃を!」
俺は魔法の攻撃を受けながら、斜面の上に目を向ける。
そこには、杖を持つ小さい人物の他に、数人の同じような毛深い毛皮を被った格好をした敵が立っていた。
そいつらの手や杖から発生した水と風が、こちらに向かってきているのだ。
「攻撃っていうより、嫌がらせですぜ! こっちの気持ちを砕いて、山を下りさせようとしてるんでしょうや!」
「たたた、隊長! ささ寒い寒い寒い寒い!」
霧雨のような水の粒が、突風吹きつけられて、瞬く間に全身が濡れていく。水の粒が小さいからか、鎧の隙間から中に入ってきて、襦袢や服を濡らしていく。
水の粒を運ぶ役目である突風自体も困りものだ。冷たい外気を取り込みながら吹き抜けてくるものだから、あっという間に鉄の鎧が冷える。濡れた襦袢が鎧の冷たさを体に通し、体が急速的に冷えていく。
体温の急激な低下に、部下たちの歯がガチガチと鳴り始めた。
俺は歯を震わせないように食いしばりながらも、命令を出す。
「盾持ちを前面に出せ! 盾の面を斜面の上に向けるようにして風を防げ! そして密集隊形で移動するぞ! 体を動かさなければ、冷えて死ぬ!」
「「りょりょりょ、了解ででです!」」
口元を震わせながら返答した部下たちが、行動を開始する。
盾を持ってきた兵士たちが水の粒の矢面に立って防ぎ、その他の面々は密集した隊形となって、少しでも風と水の脅威から逃れようと試みる。
「連中は魔法を使って、水と風を作っている。そう長くはもたない! 耐えろ!」
「しかし隊長。こうして密集してなきゃいけねえってんなら、あいつらを追いかけることはできませんぜ」
「分かっている。しかし耐えるしかないんだ!」
ノネッテの敵兵は馬鹿じゃない。
先の三日間、なにもしてこなかったのは、俺たちが進軍する距離を把握するためだったのだろう。
その距離がわかれば、それ以上の距離を空けるように心掛ければ、捕まらないまま嫌がらせができるのだから。
そしてこちらは、三日間で把握された距離以上を進むことは絶対にできない。
なにせその距離は、健全な状態で俺たちが進むことができる距離だ。
もしいまの濡れた体のまま、同じ距離を移動しようとしたら、体調を崩すどころか死にかねない。それ以上に距離を稼ぐことなど、夢物語にも考えられない。
「ちっ。防衛戦ってものを、熟知してやがるな。密集隊形の外側と内側を入れ替える! 外にいたやつは内側で温まれ! 内側にいて温まっていた奴ら、頑張ってくれた連中に報いる番だぞ!」
俺も外側に移動して、率先して盾を持つ。
霧の水と突風とで冷えた鉄の盾は、まるで氷の盾かのような冷たさを放っている。近くにいるだけで、みるみる体温が吸われていく。
「耐えろ! もうすぐ終わる! 終われば天幕で温まることができるぞ!」
俺の発破に、兵士たちは寒さに震える手足で盾を支え、身を縮めて風から逃れようとする。
凍える寒さに身を震わせ続け、外と内側の交代をもう一巡させたところで、ようやく敵の嫌がらせが止んだ。
魔法が止まったと知った瞬間、俺は敵の位置を確認するべく、顔を上げる。
すると、予想以上に敵の位置が斜面の上にあった。
最初魔法の攻撃を受けたときは、もっと近づいていた。もしや俺たちが下がったのかと後ろの景色を見るが、位置は下がっていなかった。
「もしかして敵は、魔法を放ちながら徐々に後ろに移動していたのか……」
敵は、霧の水と突風の魔法の組み合わせを、今回初めて使う。こちらが追ってこれない距離を担保はしていたが、有効射程距離についてはあやふやだったのだろう。
そのあやふやな距離を、今回の実践で完璧に把握するべく、魔法を放ちながら距離を離していったに違いない。
「厄介な敵だ。どうあっても、こちらを近づけさせないままに心を砕く気だな」
本来なら水や風を吹き付けるぐらい、嫌がらせと笑って済ませられる攻撃だ。
しかし、場所が冬の山で、こちらの装備が鉄ばかりという状況が合わさると、驚異に変貌した。
事実、この嫌がらせのような攻撃を食らった部下たちは、寒さに顔を青ざめさせ、かじかんだ指が上手く動かない様子だ。
「すぐに天幕の準備だ! テントを張る作業も装備と服を脱いで行え! 濡れた服でいるより、裸の方が体温が下がらないはずだ!」
俺は率先して鎧と服を脱ぐ。吹き付ける山風が冷たいため、体中に鳥肌が立つ。思わず脱いだ服を着ようかと手で触れるが、先ほど脱いだばかりだというのに、もう氷のような冷たさになっている。
「なにをしている、全員服を脱いで、裸で作業するんだ! 濡れたままでいると死ぬぞ!」
俺は脱いだ服を地面に置き、鎧で重しにすると、天幕を張り始める。
張り終えれば、温かくなれる。体を温めなければ、死ぬ。そんな考えが、体を突き動かす。
部下たちも震える手で装備を外し、服を脱ぎ、寒さで鼻水を垂らしながら、天幕を張り、炭に火を起こしていく。
全ての休憩する準備が整い、全員が我先にと天幕の中に入った。天幕中央に置かれた炭の近くは激戦区となり、空気を取り入れるために空いた天幕の穴付近は過疎地となっている。
俺は過疎地の部分に陣取りつつ、腰を下ろす。
激戦区から弾き出された兵士の一人が、炭火の争奪戦に再参入することを諦めて、俺の横に座りながら愚痴を零してきた。
「隊長。山を下りるわけにはいかないんですかね。これから先、山を越えるまで、今日みたいな嫌がらせが続いたらと考えると」
先ほどの霧状の水と突風の感触を思い出したのか、兵士がぶるりと身震いする。
正直、俺自身も滅入っていた。しかし任務は果たさないといけない。
「俺たちは、最低限でも、この山の頂上を押えないといけない。ノネッテの連中が、この山やその近くを通って、他に移動しないようにだ」
「本隊の作戦に関係してですか?」
「その通りだ。本隊がノネッテの首都を攻め落とすまで、堅持しておくようにと言われている」
「つまり、オレらの役目は、逃げ道の蓋ってことっすね」
兵士は理解したと頷いてから、再び疑問が湧いたようだ。
「あれ? でもノネッテにはメンダシウム国――じゃなかった、帝国領に逃げる道もありますよね。あっちはどうするんです?」
「そっちは本隊が、兵を二つに裂いて、その片方で塞いでくれる手はずになっている」
「ってことは、本隊は帝国領を通って、ノネッテ国内に侵入するってことっすかね?」
「さてな。帝国がすんなりと領地を通すとは思えないが」
「他国の軍隊を帝国領地内に通過させることは侵略を手助けする行為であり、それは正しい行いじゃないって、騎士国が嘴を突き入れてきそうっすからね。でもそうすると、どうするんですかね?」
「知らん。俺が考えるのは、この山の頂上へ、どうやったら安全に進めるかだけだ」
そうは言ってみたものの、あの霧の粒を突風で吹き付けてくる嫌がらせを防ぐ手立てが、すぐに思いつくはずもなかった。