こぼれ話 ルーナッド地域の文官は見た
ルーナッド地域の主城では、文官たちが今日も忙しく働いている。
先の戦争で勝利して領地が増えたことで書類作業の量が増えたこともあるが、新たに支配した地域から文官を呼び寄せて教育する作業が始まったため、手が足らない状態になっているからだった。
なにかと攻め落とされた国の法やしきたりを持ち込みがちな新人文官を、先輩の文官があれこれと手を尽くしてノネッテ国流に矯正していく。
その矯正作業をする文官も、過去にノネッテ国に攻め落とされた国で文官として仕えていた経験を持つ人物。
つまり、どうすれば新たに入った文官をノネッテ国流に染めたらいいかを、実感として知っている。
そのため、効率良く教育先の人物を矯正していくことを可能としていた。
「はぁ~。ノネッテ国の仕組みは、進んでいるんですね」
「作業量の多さに、効率化をしなきゃいけなかっただけですよ」
新人の感嘆の声に、教育係は苦み走った笑みと共に答えた。
ちょうどそのとき、彼らが使っている部屋に、一人の女性が入ってきた。
文官たちが着るお仕着せと同じような服装をしているが、どことなく生地や仕立てが良さそうな服を着ている、二十代に入ったばかりの女性だった。
新人が初めて見る女性を見つめていると、教育係は焦ったような顔で椅子から立ちあがり、直立不動の姿勢になった。
「ホネス様! なにか書類に不具合などでもありましたでしょうか!」
教育係が『様』とつけた言葉を聞いて、その女性が『お偉いさん』だと気付いて、新人も慌てて席を立って直立不動の姿勢になる。
そんな二人の様子を見て、ホネスと呼ばれた女性は、気後れした心情を隠す愛想笑いを浮かべる。
「そう硬くならなくていいって、いつも言っているでしょ。わたし自身は、あまり偉いってわけじゃないんだし」
「そんな、まさか! ホネス様は、ミリモス・ノネッテ王子の奥方様です。失礼な真似はできません!」
「いやいや。偉いのはセンパイ――じゃなくて、わたしの夫であって、わたし自身じゃないから。せめて文官の上司ぐらいの対応でお願いしたいんだよね」
気安い調子の言葉で喋るホネスに対し、教育係は滅相もないと態度で示している。
新人もまた、目の前の女性がミリモス・ノネッテ王子の妻であると知って、身の固さが一段高まった。
山間の吹けば飛ぶような小国を、十年足らずで小国とは括れない規模にまで拡大した、稀代の戦争の名人であるミリモス王子。
新人はその姿を見たことはないが、その恐ろしさは耳にしていた。
ロッチャ地域製の武具に身を包んだ兵士や、鉄壁の鎧に身を包む巨人と共に、前線に立つことを厭わない勇敢な名将であり、神聖騎士国の騎士とも互角に渡り合える強者だという。
そんな戦争に生きるような人物の奥方に対し、失礼な真似をして不評でも買おうものなら、一撃の下に首が物理的に飛びかねない。
新人文官は震え上がり、教育係と共にホネスの要望に首を横に振ってこたえる。
その反応を受けて、ホネスは肩をすくめる。
「なんだか異様に恐れられているんだよね。なんでだろう?」
ホネスは心底不思議そうにしながらも、とりあえず部屋に来た用件を済ませることにした。
ホネスが問題にした内容は、単純に同じ内容が書かれた紙が二枚あったからだった。
これは、片方は提出するために新人に書かせたもので、もう一枚は新人教育用に教育係がお手本として書いたものだった。
それらが作業中の手違いで、提出用の箱にまとめて入ってしまっただけのことだった。
「気を付けてね。今回は要望書だから手違いで済んだけど、これが予算要求の紙だったら二重取りを疑わることになっちゃうからさ」
ホネスは軽く注意し、提出する方の書類だけを手に部屋を去っていった。
ホネスの姿が消えた後、教育係と新人は共に安堵感から息を吐き出す。
「ふぃー。つまり、提出する前にもう一度確認しなければということですね。忙しいと、どうしても疎かになりがちですけど」
「はぁ¥~。心臓に悪かった……」
思いかけないミリモス王子の妻との出会いに、新人は胸を押さえて椅子に座り込む。
その情けない姿を見て、教育係は悪戯心が沸き上がった。
「しかし今回は、ホネス様でよかった。しかも御機嫌がいい時で、更に良かった」
「ホネス様『で』ってことは、他の方では良くないと? それとご機嫌とは?」
新人が抱いた素朴な疑問に、教育係は笑みを深くして内緒話を始める。
「ホネス様級のお方で、ここにやってくる人物は、他にも二名いらっしゃる。一人はもう一人の奥方である、ジヴェルデ様。この方は職務に潔癖なところがあり、きつい言葉で叱責を受けることになる」
「奥方が二人も文官の仕事を手伝っておいでなので?」
「我らの仕事というよりか、ミリモス王子の仕事のお手伝いをなさっているのですy」
「……えっ、もしかして、ここにやってくるもう一人の人物とは」
「気付いた通り、ミリモス王子、ご本人です」
その名前を聞いて、新人は雷で体が打たれたかのように、身を硬直させた。
「えっ。ミリモス王子が。どうして?」
「彼の方は、この地域の領主。書類仕事をして当たり前です」
教育係の言葉に、新人は首を傾げる。
彼が以前に仕えていた場所では、領主は文官が仕事を監督はしても、書類仕事に精を出す事例は少なかったからだ。
それよりなにより。
「戦に強い人物と聞いてはいましたが、書類仕事ができるのですか?」
「占領した国の初期統治を、ご自身でなさるお方ですよ。我ら文官と、遜色のない腕前ですとも」
教育係の自慢げな姿は、果たしてミリモスの仕事ぶりを誇ったものなのか、それとも自分たち文官の能力の自身から来るものなのか。
新人はどちらか迷い、疑問を刺し挟むことは止めることにした。
「それで、ホネスさまの機嫌がいいとは?」
「それはもちろん、ご夫婦の営みが昨夜にあった兆しということです」
下世話な内容に、新人が鼻白んだ反応を返す。
しかし教育係は、重要なことだと念を押す。
「先ほど話題に出しましたが、ジヴェルデ様を例にします。あの方は、普段でしたら、書類の間違いを懇切丁寧に指摘してくださいます。それはもう、最初から最後まで」
「……長く注意されるということですね」
「ですが、ミリモス王子との営みがあった翌日は、間違いの場所を示し「注意なさい」と告げるだけで終わるのですよ」
「それは作業効率に直結しますね」
などと二人が会話していると、話題に出していたジヴェルデが部屋の横を通過しようとして、部屋の中の様子を見咎めた。
「お二方。お喋りは構いませんが、作業の手を泊めてはいけませんわよ」
「「は、はい! 申し訳ありませんでした!」」
ジヴェルデの、動き易そうながらも仕立てのいいドレス姿を見て、新人はこの人物が誰かを悟った。
そして、散々教育係に脅されたように、これから長々とした注意を受けるものだと覚悟した。
しかし予想に反して、ジヴェルデはあっさりと興味を失った様子だった。
「次に気を付ければよろしいですわ。作業にお戻りなさい」
すっと立ち去る姿を見送った後、新人は教育係に疑問をささやいた。
「あのー。ジヴェルデ様も、御機嫌がよろしいようでしたけど?」
「……昨夜は、お二方同時にお相手なされた、ということでしょう」
誰が誰と誰を、どんな風に相手にしたのか。
そういう詳しいことに対する疑問は出さず、教育係と新人は心を入れ替えて書類作業に邁進することにした。
未婚である彼らは心の内に『ミリモス王子め、羨ましい!』という気持ちを抱えながら。
たまには、箸休めな話も書いてみたくなるのです。