六噺 隠秘
雲一つない快晴の空の下、目の前に広がる広大な海原。青空よりなお深い青は水平線の向こうまで続いており、その雄大さは語り部などいなくとも十全に伝わってくる。
日に照らされた水面は不規則に煌めき、白く押し寄せる波は足元の砂を湿らせて引いていく。
岩場に海水が打ち付けられる音が遠くから聞こえ、甲高く鳴く鳥が海風に乗り見果てぬ彼方へと飛んでいった。
特殊な素材で出来た黒い服を着た私は砂浜に立ち、眩い日差しに目を細めながらそんな海を眺めていた。この服は水中での動きを補助する貴重な素材で出来ているものの、その貴重さから布面積が少ないのがちょっとした難点ではある。しかし辺りには人もいないため問題はあるまい。
この人里離れた浜辺からしばらく沖に出たあたりに、海の底に沈んだ城塞があるらしい。そしてその城塞こそが、ラプンツェルを狙っている可能性の高いエンデという悪魔の住処である、というのがソルマから聞いた情報だった。
「水中か……久々ではあるが」
水中でも活用できるよう水を弾く素材で作られた袋の中から、筒状で指程の大きさの葉巻を取り出し口に咥える。
これは水から空気を生成し、水中でも呼吸を出来るようにする代物だ。本物の葉巻とは違い熱に弱いため、火を近付けるとその効果を失ってしまう。例の赤い戦闘狂を連れて来なかった理由の一つでもある。
他にもいくつか水中で動きやすくするための魔道具を準備し、少し冷たいさざ波に逆らいながら沖の方へと進んでいく。
そしてある程度の水深がある場所までやって来た私は、緩やかに波立つ水面の下に顔を沈める。海水の中で目を開くと、降り注ぐ日の光が柱のように白く輝いていた。
葉巻の生み出す空気によって息継ぎの心配もないので、私は頭を下にし一気に深くへと潜っていく。草原のように繁茂した海藻が辺り一面に揺らいでおり、その合間を縫って小さな魚たちが泳いでいる。黒い服のおかげもあり軽やかに潜水する私の頭上を、雲のような銀色の魚群が流れていった。
青く静かな海中を段々と沈んでいくと、次第に暗くなりその青が濃くなってきた。
自分の吐いた息が音を立てながら気泡となって、不規則に揺れ動きながら日に輝く水面へと昇っていく。そんな光景を眺めながら泳いでいると、やがて日の光が殆ど届かない程の深さまで潜水したところでそれは現れた。
眼前に現れたのは海底に佇む大きな城塞。灰色の岩でできた城は至る所に緑の藻が生えており、所々欠け古びた外壁は経過した年月を物語っている。
城の中に光源があるのかぼんやりと光っており、多少だが内外の様子が伺える。私の城と同じように周囲を結界で覆っており、中は空気で満たされているように見える。
このような悪魔の隠れ家は、私がかつて過激派の悪魔と戦っていた時代には見つけられなかった。あの時はひたすらに侵攻してくる悪魔から人々を守るために戦っていたので、攻めに転じる機会などなかったというのもあるが。
中の様子を詳しく確認するために、何らかの干渉があるかと身構えつつ近寄っていくが反応がない。既にもぬけの殻なのだろうか、ソルマの予想が当たったのかもしれない。
随分と近付いたにも関わらず何も起きないことに不安と焦燥を抱きながら、結界の内部に侵入するべく準備を始める。
自らの呼吸が泡となって天へと昇っていき、静寂の青へと溶けてゆらゆらと消えていった。
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熱風で波打つ赤い揺らめきは、野の原ならぬ炎の原。生命の息吹を悉く燃やし尽くす業火が、その煙で空の雲をも黒く染めている。
そんな燃え盛る炎の中に佇む黒き城。猛火は廊下まで浸食し柱は黒く焦げ付いており、その様相はさながら地獄のよう。
だが廊下と違い城内の各部屋には、家具等が燃えたりしないよう結界が張ってある。
そんな城のとある部屋の中でベッドの上で仰向けに寝転んでいるのは、小さな角を生やした黒き悪魔のダン。
「私は……弱い」
ダンは自らの赤い髪が乱れるのも構わず、力なく天井を見つめていた。うわの空に呟いた独り言は、誰の耳にも届かず静寂へと消える。
「ソルマ様の後ろではなく、隣に立てるだけの力が欲しい」
何かを欲するような目をした黒き悪魔は、届かないはずの天井へと黒い手を伸ばす。
「そして、私を……」
「戻ったぞダン、少しいいか」
コンコン、と部屋の扉をノックする音が響くが、思考にふけっているダンの耳には届いていない。
彼女は伸ばしていた手を引き寄せ、目を瞑り何かを抱きすくめるように力を込める。
「私だけを、見て欲しい」
「聞いているか、ダン」
「出来る事なら、この胸の内の想いを……」
自分の世界へと没入し一切反応のないダンに対し、しびれを切らしたソルマはゴンという音がなるほど扉を強く叩いた。
「おい、ダン!」
「ひゃあっ! そ、ソルマ様!?」
ソルマの怒鳴るような声で現実に引き戻されたダンは、甲高い悲鳴を上げながらベッドから飛び起きる。
「いるのなら返事をしろ」
「も、申し訳ありません」
ダンが素早く身支度を整え扉を開けると、燃え盛る廊下に腕を組んだソルマが仁王立ちしていた。
「課していた修業はどうしたのだ」
「終わらせました」
「早いな、もう数年はかかると思っていたのだが、流石に我が見込んだだけはある」
「ありがとうございます」
ダンはソルマの褒め言葉に対し、素直に礼を言い頭を下げる。彼女の口角はこれでもかと上がっていたが、頭を下げていたためソルマの角度からは見えていなかった。
「しかしそれを差し引いても、ゴテルとの決闘の際のあれはいただけんな」
だがソルマと魔女との決闘が話題に出た途端、彼女は露骨に不機嫌な表情になった。
「それは……」
「反省は出来たか」
「しかし!」
何かを言おうと立ち上がったダンの抗議を、ソルマは赤い手を向けて制止する。赤き悪魔の顔は真剣そのものであり、黒き悪魔はその気迫に思わず固唾を呑んだ。
「我が決闘を邪魔されるのを何よりも嫌うのは、分かっていたはずであろう?」
「ですが……ですが、奴に負けるソルマ様を見るのは、どうしても我慢ならなかったのです」
「負けそうになれば介入など、それこそ我の決闘に対する侮辱ではないか」
「……!!」
ソルマの怒りに言葉を詰まらせるダンだが、まだ思う所があったのか震える唇を必死に動かす。
「そ、そもそも、ソルマ様でさえ負けかねない人間など、生かしておくのは危険すぎるのではないでしょうか」
「人間? フ……フハハハハ!」
今までの重圧はどこへやら、急に笑い出したソルマ。そんな彼に対し安堵を覚えたものの、自らの意見を一笑されむっとするダン。
「何がおかしいのですか」
「奴は最早人間の範疇に収まるまいよ。貴様がナイフに塗り込んだ毒でさえ、あの魔女には効かなかったではないか」
ダンはナイフを刺されても何食わぬ顔で立っていたゴテルの姿を思い出し、悔し気に唇を噛む。
「それに……悔しいが『深緑の魔女』の実力はあんなものではない、強者というのは本当の実力を隠しているものだ」
真剣な顔に戻ったソルマがダンと似た悔しそうな表情をすると、そんな表情をするソルマを初めて目の当たりにしたダンは、あまりの衝撃から髪を括ろうと手に取っていた紐を落としてしまった。
「仮に奴が悪魔全てと敵対することになったとしても、負けるのは悪魔達であろう」
「……それは」
ダンは冗談のような言葉を否定しようとして、ソルマを圧倒していた魔女の姿を思い出し沈黙してしまう。落とした紐をゆっくりと拾いながら、ソルマの続く言葉に耳を傾ける。
「奴は悠久の時を生きる魔女、魔法使いに毛が生えたような人間とは圧倒的な力量差がある……そして我々悪魔とも」
どこか楽し気に語るソルマを複雑な表情で見つめるダンは、自分の赤い髪を後ろで縛りながら彼の話を催促する。
「つまりそれは、かの魔女こそがこの時代の覇者ということですか」
「それは分からぬが、もし奴にその気あれば悪魔どころか世界さえも……奴が人間として生を受け、人として育ったのはある意味幸運だったと言えよう」
目を見開いて驚きを露わにするダンをよそに、ソルマは燃え盛る大地を眺めながらぼそりと呟く。
「戦い以外の借りを作るのは初めてだが、以外と面白くなるやもしれんな」
刻一刻と移り変わる炎の揺らめきを見つめる赤き悪魔が、その横顔を見つめる黒き悪魔の悩まし気な表情に気付くことはなかった。




