5話 日常2−1
『ピピピピ ピピピピ』
スマートフォンから断続的に鳴り響くこの軽快なアラーム音を気分良く感じる人間なんて、そういないだろう。数秒経つことに音量が大きくなる連打音に叩き起こされ、心なしか不快感を抱きながら、それを止める忘太郎。
10月21日 午前6時34分 天気晴れ 予定校門にいる他校生?の女の子が声をかけてきたら話を聞く
スマートフォンの画面上に表示される今日の日付、時間、天気、今日の予定を確認する。そうしてるうちに意識は少しずつ覚醒していく訳で、彼は布団からのさのさとでる。
レトルト食品、カップ麺、それに惣菜パン用の物置と化している台所に行き、台上からとりあえず買い込んである惣菜パンの袋を見る。
「ーー今日はメロンパンか。」
左目をこすりながら中身を確認して、ビニルをギザギザの切込みから裂こうとした。繰り返すが、忘太郎は寝起きである。うまく指に力を入れられず、それを遂行するのに手こずってしまった。
やっとの思いで開封に成功した忘太郎はそれをそのままかじりつき、押し込んでいく。そのついでに自身の顔も蛇口を再度ひねってで洗い、そのまま元いた部屋に戻る。
部屋に戻り、忘太郎は今着ているベージュ色に染色されている厚手のパジャマを上下脱いで、制服に着替え、手提げのカバンと愛用スマートフォンと、この家の鍵と財布を持つ。
玄関を開けると、もう10月も終わり、心なしか肌寒さを感じる。
冬の近づきを感じつつ忘太郎は家の鍵を閉めた。
現在時刻7時05分
この時間の学校は朝練をしている部活動の咆哮や甲声が響く。校門をくぐり、玄関で上履きに履き替える。忘太郎は階段を昇り三階、廊下の先にある部屋に向かう。
スライド式の戸を2回ノックすると、「入れ」という声が聞こえ、忘太郎は戸を開け、その部屋に足を踏み入れた。
その瞬間
『ニューヨーク、風呂でウェイ』
「ーー風呂でウェイ?」
理事長が言ったギャグの意味を考えたが、思いつかず聞き返した。
本日も開口早々、寒い親父ギャグを真顔であたかも格言かのように言う執務机で書類を眺めていた白髪のかかった、厳格そうな風貌のスーツを着た壮年の男性、理事長で起業家で忘太郎の保護者、河原登がこちらに視線を合わせる。
「風呂でウェイ、ブロードウェイ。ニューヨークの有名な通りの名前だな。」
「ーーはぁ。」
ついていけなかった。
ーーと、「フンッ」っと理事長が咳払いをする。
「ところで、昨日私が言ったギャグを覚えているか?」
「あ、いいえ、覚えていません。」
「そうか、昨日行ったのは『購買とか、乞うバイトか』だ。」
「あぁ、そういえば昨日購買のおばちゃんがやめるって言っていたような……」
「昨日私が言ったギャグを覚えているのか?」
「あ……覚えて……ないです……。」
「……」
どこか不機嫌そうな表情を浮かべる理事長。それを見てしまったと思った忘太郎である。
「ところでだ。」
一瞬気まずい空気になったが、急に理事長は先ほどよりも語彙を強めて言った。それに忘太郎の背筋に自然と力が入る。この理事長室に、今にも糸がはちきれるかと言うような緊張感が走る。ほんの数秒の沈黙を経て、理事長が両手指を交差させ、顎を支えて、口を開いた。
「忘太郎、いつも言っていることだが、あまり人と関わらないようにしろ。」
「ーーわかっています。」
「いいな。」
語気を強めて理事長は言う。普通に考えれば、教育者としてあるまじき勅令に今日も従う。
この応接室兼理事長室内に流れる静寂の中、朝練中の生徒の声が、漏れ入っていた。
「はぁあ、あら?終わったの、忘太郎君?」
あくびの音。重苦しい理事長室を退出した忘太郎は、扉に背をもたれかかった茶に染色された長髪の、胸元を強調させたスカートスーツを着た色香を匂わすグラマーな女性が眠そうな目で体を忘太郎の方に向きを変えた。
「あ、終わりました。一ノ瀬さん。」
その女性、秘書なのに校内で有名な謎の美女一ノ瀬不二子が声をかける。
「なんか今日は朝からやらかしたみたいね。」
「え、あ、聞こえてましたね。」
その服装といいあくびの仕草といい朝からオトナな雰囲気を全開にする一ノ瀬に、忘太郎は少しドキッとしてしまい、言葉を詰まらせてしまう。
「理事長室の扉と言っても、他の教室と同じ扉だから結構聞こえるものよ。」
そういって彼女は再び顔を45度ほど上にあげて口を押さえ、あくびをする。
「ーーてことは今の聞こえてるんじゃ……。」
「ーーあ、ま、まぁ……大丈夫なんじゃない……」
顔を引きつらせる一ノ瀬。
「さ、さて、仕事仕事…………じゃね。」
一ノ瀬忘太郎の目の前を通り過ぎ、理事長室にノックした、のだが一瞬、忘太郎の尻に何か感触を感じた。
「ーーう?」
一瞬の出来事で反射的に一ノ瀬のいる向きに向きかえるが、一ノ瀬はもういなかた。
謎の美人秘書一ノ瀬、こんな時でもこの行動は忘れない。
忘太郎は、そんな一ノ瀬に少し苦笑し、自身の教室に足を向けた。
河原学園高校普通教室棟2階にある2年生の教室。現在時刻7時50分
始業時間30分前だが、教室にいる生徒は忘太郎一人である。自分以外の人間がいない机が整列して並んでいるだけの朝の教室というのは、やはり心安らぐものである。
自身の席に着席し、ポケットからスマートフォンを取り出し、適当にインターネットの動画サイトを見始めた。
それから30分。この時間になると生徒の大半は登校し、朝の談話を始める。窓際で一人、理事長の言いつけもありあまり人と関わらない忘太郎にとって、学校で比較的安らげる時間は、終わりを告げた。
そこからの1日は早い。担任から1日の連絡を聞き、午後3時まで続く気だるい授業に耳を貸し、昼は購買でおにぎりを買う。