3話 帽子1
「あ、あの、河原くん……」
一目散に教室を出ようとした忘太郎を呼び止めたのは、髪を三つ編みに編んだ童顔の地味な印象の女子生徒。
「何、沙織?」
「あ、いや、その……」
どこかおどおどしてはっきりしないこの女子は、寺川沙織。忘太郎がとある理由でよく会話をする数少ない生徒である。そして、これでいて学級委員長を務める。
「おい、はっきりしろよ。僕はもう帰りたいんだ。」
「あ、あの、その……今日提出のプリントを……あの、まだ未提出なので……」
「そんなのあったのか?」
「もしかして、あ、また、忘れたんですか……?」
声を震わせながら沙織は続ける。正直プリントと言っても委員長に提出するものだから成績にも反映されることはないだろうから、さっさと帰りたかったが、忘太郎を見つめる沙織の目は、彼女の一杯一杯な精神状況を表しており、流石に放置できず、忘太郎はカバンの中身を見る。
プリント類を持ち運ぶファイルの中身を見ると、あろうことに、そこには『学校生活アンケート 10月25日提出』 と書いてあった。
「これか。」
そういって沙織にプリントを見せる。
「あ、はい、そ、それです……よかった……。」
沙織は少しホッとしたような表情を浮かべる。忘太郎は自身の筆箱からシャープペンシルを取り出し、アンケートを記入する。アンケートの内容は、友達はいますか、得意な教科はなんですかというありきたりなもので、選択肢に丸をつけるものだった。
「ーー友達はいますか……ね。」
忘太郎はいいえに丸をつけた。おそらく教育相談でそれをテーマに長い長いお話を担任から聞かされるだろうが、それが事実であるから仕方ない。それに、もしここではいに丸をつけ、それが理事長に伝われば、理事長を裏切ることになる。それだけは避けたかった。
「これでいいか?」
全て記入し終えて、沙織にプリントを手渡した。
「あ、ありがとうございます……。」
「じゃあ僕は帰るよ。」
「はい……あ、」
と、彼女が言葉を止めるので、忘太郎は顔を見上げ、沙織に目線を合わせる。
「また、いつでもお待ちしてます……。」
「あぁ、また頼む。」
そう言って席を立ち、忘太郎は沙織の傍を横切り教室を出た。
15時30分
靴を履き替え、校舎を出て何十歩か。少し騒がしかった。そこらにいる生徒が皆一点に集中してみていて忘太郎もそれに目をやった、と……。
ーー白いワンピースに白いつば広帽子 そして長い黒髪を下ろした 同い年ぐらいの……
そんな少女がそこにいた。そして、その姿に、忘太郎はつい、見とれてしまったのだ。
と、その少女は体の向きを校舎側に向ける。
ーー乳白色の肌に端正な顔立ち それはとてもはかなげで、つかもうとしても、すり抜けていくような……
視線が合い、忘太郎は驚いた。周りにいた生徒たちも、その御姿に見とれ、それはアイドルが学校に来たかのような、そんな風だった。
私服だから、おそらくこの学校の生徒というわけではないだろうが、何故校門に立っているのだろうか。誰かを待っているのだろうか。と、少女はこちら側をみて、初めて唇を開いた。
「ーー忘太郎、久しぶり。」
一瞬、耳を疑った。なぜなら忘太郎の記憶の中にない少女が自分を見て名を呼んだように聞こえたのだ。もしそれが事実として、忘太郎の前身には名前がわかるようなものもない。彼女は名前を知っている。自分が”欠落”した記憶の中で出会っているというのであれば納得できなくもないが、すぐさま事実であると認識できなかった。だから忘太郎はそのまま学校を後にしようとした。そのとき……
「忘太郎だよね?」
再び足を止める。もう一度考える。忘太郎という名前の人はこの中にいるだろうか。いや、こんな『忘れる』に『太郎』というヘンテコな名前の人間、さて他にいるだろうか。ここで間違いなく自分を呼んでいると無理やり認識させた忘太郎は、顔だけ彼女に向け、問うた。
「ねぇ、君誰?」
「私……、私は、昔君に会ったことがある……。」
どこか憂いな表情を浮かべ、彼女は言った。昔あったことがある。実際信憑性はないが、その言葉が気になり、忘太郎は言葉を続けようとした。
「それで……」
と言い出したところでふと忘太郎は思い出した。
『あまり人と関わるな』
理事長の言葉を思い出した忘太郎は、彼女に対する興味こそあったが、それよりも恩のある理事長の言葉が重要であって、忘太郎は彼女との会話をやめて、そのまま校門を出た。