1話 日常1−1
『ピピピピ ピピピピ』
スマートフォンから断続的に鳴り響くこの軽快なアラーム音を気分良く感じる人間なんて、そういないだろう。数秒経つことに音量が大きくなる連打音に叩き起こされ、心なしか不快感を抱きながらそれを止めた少年、河原忘太郎も、そのうちの一人である。
10月20日 午前6時32分 天気晴れ 予定特になし
ワンルームアパートで一人暮らしをする忘太郎の1日はこのアラームを止め、スマートフォンの画面上に表示される今日の日付、時間、天気、今日の予定を確認することから始まる。そうしてるうちに意識は少しずつ覚醒していく訳で、彼は布団からのさのさとでる。
立ち上がって何をするかといえば、台所にいく。台所といっても忘太郎は滅多に料理をしないので、基本的には台上にはレトルト食品、カップ麺、それに惣菜パン用の物置と化しており、食生活の乱れを感じさせる。ということは理解はしているが、台上からとりあえず買い込んである惣菜パンの袋を見る。
「ーー今日はカレーパンか。」
左目をこすりながら中身を確認して、ビニルをギザギザの切込みから裂こうとした。繰り返すが、忘太郎は寝起きである。うまく指に力を入れられず、それを遂行するのに手こずってしまった。
やっとの思いで開封に成功した忘太郎はそれをそのままかじりつき、押し込んでいく。そのついでに自身の顔も蛇口を再度ひねってで洗い、そのまま元いた部屋に戻る。
扉の向かい側に窓があり、その側にベッドをおき、その横にはそんなに使うことのない勉強机なるもの、それとハンガーラックが置いてあり、それなりに整頓された部屋ではなかろうか。
忘太郎は今着ているベージュ色に染色されている厚手のパジャマを上下脱いで、制服、いわゆるブラウスに着替える。
そして手提げのカバンと愛用スマートフォンと、この家の鍵と財布を持つ。
玄関を開けると、もう10月も終わりだというのに、意外と暖かいものである。いわゆる小春日和っていうものだ。そんなことを考えつつ忘太郎は家の鍵を閉めた。
河原学園高校 所在地新川市西区 忘太郎の通う私立高校である。この河原学園は幼稚園から大学までを揃え、エリート校としてこの有名である。また、県随一の校内設備が整っており、倍率は非常に高い。
現在時刻7時10分
この時間の学校は朝練をしている部活動の咆哮や甲声が響く。校門をくぐり、玄関で上履きに履き替える。忘太郎は階段を昇り三階、廊下の先にある部屋に向かう。
スライド式の戸を2回ノックすると、「入れ」という声が聞こえ、忘太郎は戸を開け、その部屋に足を踏み入れた。
その瞬間
『購買とか、乞うバイトか』
「購買、人員不足ですか?」
開口早々、寒い親父ギャグを真顔であたかも格言かのように言う執務机で書類を眺めていた白髪のかかった、厳格そうな風貌のスーツを着た壮年の男性がこちらに視線を合わせる。
彼が、河原登、この河原学園の理事長であり、河原学園を県下一の進学校にした立役者である。また新川市内でも名のある起業家でもあり、学校経営の他に病院やショッピングセンター、警備会社も経営しており、理事長が経営する企業が多く存在することから、学校周辺一帯を通称河原地区といわしめた人物である。それに、忘太郎にとっては身寄りのいない自身を引き取ってくれた、保護者であり、恩人である。
「あぁそうだ。法人の方の人事から報告があってな。」
「確かに新しい人を探さないといけませんね。」
理事長の話を首肯すると、「フンッ」っと理事長が咳払いをする。
「ところで、昨日私が言ったギャグを覚えているか?」
「あ、いいえ、覚えていません。」
「そうか、昨日行ったのは『タクシー、行っちゃったクシー』だ。」
「あ、タクシー行っちゃったんですか。」
「ああ、おととい出張に出かけた時にタクシーを呼んだんだが、私に気づかずに通り過ぎてしまってな。」
「あぁ、そうなんですか。」
とりあえず、この真顔で言われるギャグとそれを思いついた顛末を苦笑しておく。
「ところでだ。」
先ほどよりも語彙を強めて言った理事長の言葉に、忘太郎の背筋に自然と力が入る。応接室を兼ね、他の教室の1.5倍ぐらいの広さのこの室内に、今にも糸がはちきれるかと言うような緊張感が走る。ほんの数秒の沈黙を経て、理事長が両手指を交差させ、顎を支えて、口を開いた。
「忘太郎、いつも言っていることだが、あまり人と関わらないようにしろ。」
「ーーわかっています。」
「いいな。」
語気を強めて理事長は言う。普通に考えれば、教育者としてあるまじき勅令だが、理事長のたった二言に内包された威圧感からか、以前身寄りのない自分を引き取ってくれたと言う恩からか、忘太郎は彼に盲従する。
この応接室兼理事長室内に流れる静寂の中、朝練中の生徒の声が、漏れ入っていた。