シルフィー・レイン・アグノール
それは今から百年も昔のことだ。
エルフの里に、一人の赤子が生れ落ちた。
代々エルフの里の長老を勤めてきた名家アグノールに、その赤子は生まれた。
その誕生を最初に祝福したのは、産婆でもなく、母でもなく、父でさえなく――精霊だった。
その幼子の誕生の瞬間――蒼き風が遥か空より吹き降りて、少女の頭上にて小さな音色を奏でた。
誰よりも風の精霊に愛された一人の幼子に――母親は、偉大なる風の精霊の名前を借りて、シルフィーと名付けた。
生まれ落ちたその瞬間から精霊の祝福を受けた者の前例など、里にさえ存在してはいない。
だが、大いに期待されたその少女は、有り体に言ってしまえば欠陥品だった。
アグノールは代々火の精霊魔法を得意とする家系だった。無論、火の精霊魔法が得意だからといって、エルフとして他の精霊とも心を通わせることはできる。風の精霊魔法に優れることが好まれない、なんてことはないはずだった。
彼女が普通であれば、疎まれ、貶され、見下されることなどなかった。
だが、シルフィーは風の精霊に好かれすぎていたのだ。
だから、他の属性の精霊魔法を使えないどころか、精霊は傍に寄り付こうとさえしなかった。彼女がいるとその周囲では精霊魔法が使えなくなる、なんて噂も広がって、未熟な術者ではその通りにさえなってしまう。
彼女の傍には常に風が吹き、それ以外の事象は厭うように消え去った。
彼女はエルフの中でも異常だった。
だから、シルフィーは孤立した。
家に居場所はなく、周囲に居場所はなく、少女には何処にも居場所がなかった。
朝は誰よりも早く目を覚まし、誰とも顔を合わせず家を出て、森に篭って精霊の歌を聞き、月の光を浴びながら帰路につく。
憶えているのはかつて感じた母の膝の温もりと、精霊の歌声だけ。
他の記憶は全て忘れたいものばかりだった。耳を塞ぐように森に篭り、精霊の声に耳を傾け続けた。
シルフィーはそんな生活の中で成長した。
誰からの温もりも知らず、誰からの愛情も知らず、誰の声も聞かなかったその少女に、ある転機が訪れたのは次代の守り人候補に選抜されるようになった頃だ。
「うんうん、中々に優秀そうな子たちだね――これから君たち三人を教育するフローリアだ。お姉さんと呼んでいいぞ」
「…………いや、どう考えたっておばさぶべしっ!」
その男は、顔合わせで出会ったその日、木に突き刺さりぶら下っていた。
「口には気をつけたほうが長生きできるぞ、生意気坊主」
「…………ぼ、坊主じゃねー……俺はユリスだ、次代の守り人は俺に決まりだぜ……」
格好の悪い男だった。
精霊魔法の腕も剣の腕も、弓の腕も口ほど大した奴ではなかった。
どちらかと言えば、
「不肖の弟が失礼を――ウルスです、非才な身ですが精一杯努力します」
奴の兄のほうがよっぽど才能があると思えた。
「シルフィー」
他人と声を交わすの随分と久しぶりだ。そう思いながらシルフィーは一言だけそう言った。
「なんだ、随分と無愛想じゃねーか……」
木にめり込んだままのユリスが言った。
「お前はいい加減降りて来い、愚弟……」
「ははは、中々愉快なメンツじゃないか――真面目君に、生意気坊主、それと無愛想ちゃんね、これからよろしく――」
何かにつけては絡んでくる不可思議な同族を、少なくともこの時は煩わしいとしか感じてはいなかった。
◆
「はい、そこまで――シルフィーの勝ち」
暴風に煽られ、地面にめり込んだユリスが足をパタパタさせながら、あー、とか、うーとか、声にならない声を発していた。
どうせ俺は負けてねーだとか、もう一回勝負だとか、そんなことを言っているのだろう。
当然シルフィーは取り合わず、手合わせが済んだら我先にと森の奥に消えていく。
木の枝に腰掛けて、太陽の光を受けて輝く泉を眺めながら、風の声を聞く。
だが、静かだった風の音色に不躾な音が混ざり込む。
「いいか、シルフィー! 俺は負けてねー! 負けてねーからな! 次代の守り人はこの俺だからな!」
ご苦労なことにわざわざ追いかけてまでそんなことを言いたかったらしい。
猛々しい炎の精霊が、ユリスの感情に呼応して叫ぶ。
「そう――」
だが、そもそもシルフィーには興味のない話だ。
里の掟だから、一応訓練には参加している、それだけで、守り人にさえ興味はない。
「つか、なんでおめーはそんなにつまんねー顔してんだよ?」
「――つまらない顔?」
心底、意味がわからないとシルフィーは首を傾げる。
「あんだけすげー精霊魔法が使えて、この俺に勝負でかっ……いや、まだ完全には負けてねーけど――とにかく、そんなに色々できるのによう、お前、全然楽しそうじゃねー」
「――そう」
「俺なんかちょー楽しいぞ、精霊が魔法使って、どかーんってなった時とか特にな! こいつも楽しいつってるしよう!」
炎の精霊が、笑う。
「――良かったわね、でも私には関係ない」
「はっ! ま、いいけどな、その無表情で無愛想な顔! この俺が勝負に勝って、驚愕に染めてやるから覚悟しろよ!」
「――好きにすれば」
その男は口だけが大きいお調子者だと思っていた。
今はライバルだとか大きな口を叩いているが、いずれは才能の差を理解し、嫉妬し、挫折していくのだろう。
シルフィーに関わった者は、皆そうなっていくのだ。
だから、誰とも関わらない方がいい。
私は一人のままでいい、そうシルフィーは思っていた。
◆
「ぬぁあああああああああああああっ!」
その男は、こりもせず毎日毎日勝負を挑み続けてきた。
「ぐぉおおおおおおおおおおおおおっ!」
叩き伏され、無様に地を這いずる事になろうとも、
「うぎゅわあああああああああああっ!」
泥水の中に吹き飛ばされようとも、
「ぎにゅわぁああああああああああああああああああっ!」
恨み言のひとつも言わず、
泣き言のひとつも零さず、
「憶えてろ、次は勝つ!」
そう捨て台詞を吐いて、去っていく。
「すまんな、家の弟が迷惑をかけて――」
兄のほうは懸命だった。
実力差を理解して、及ばないと知ってからは、自分の訓練に専念して無謀な戦いなど挑んで来ない。
「どうして彼は挑んでくるの?」
心底不思議だった。
負けると分かっている戦いだ。なのに挑む意味が分からない。
「あいつはバカなんだよ」
と、ウルスは答えた。
「馬鹿だから、挑み続けるのさ――勝てるかどうかなんか考えてもいない――ただ勝ちたい、ただ強くなりたい、だからお前にだって挑むのだろうよ、風の申し子――もっとも、いや……なんでもない……」
言いかけた言葉をウルスは飲み込んだ。
「理解、できないわ」
「安心しろ、俺もだ」
次の日も、
その次の日も、
年が変わろうとしていても、
その男は挑み続けた。
「貴方じゃ私に勝てないわ――」
シルフィーは我慢できずにそう言った。
興味も、関心もなかったその男に、ムキになってそう言ったのだ。
「そんなもん、やってみなくちゃ分かんねーだろ!」
「やってみて、負けてるじゃない。今だって、ほら――」
「――でも、明日は分からない。次は勝てるかもしれない。俺だって強くなってる。だから、分からない。でも、やらなきゃ負けだ。勝ち目なんてないって諦めたらそこで終わりだ。だから、俺はまだ終わってねー」
「無理よ――」
「――そうやってっ! 何もかも諦めたつらして、何もしねーお前に俺は負けねぇ!」
「っ――!」
その言葉は酷く胸に残った気がした。
◆
エルフの住まう森は決して安全な場所ではない。
だけれど、エルフは皆が皆精霊と心を通わす戦士である。植生が厳しいといえど森は力を分け与えてくれる恩恵に他ならない。
だから、森の中でエルフが窮地に陥るなんてことは滅多に起こらない。
起こらない、はずだった。
「っ――! くっ…………!」
人の基準で言えばオーバーAランク。
薔薇色の毛並みを持つ熊――森を駆ける白虎と同じく、幻獣と呼ばれる魔法を扱う魔物であった。
見回りに出ていたシルフィーはそんなものに遭遇してしまった。
「何故、こんな浅い場所で――」
その熊はおそらく子供なのだろう。
狩りの練習か何かで、こんな里の近くまで来ていたのだ。
通常森の見回りは小隊単位で行われる。
だが、シルフィーは団体行動が苦手であるし、次期守り人候補ということもあって一人で見回りを行っても文句を口にする者はいない。
いや、何度かフローリアには注意されたが、貴方も一人ではないかと言い返した気がする。
次期守り人なら一人でも問題ないと、そう言った。
その結果がこれだった。
手傷は負わせた。
まったく手が出ない相手ではなかった。
だが、それでも人と魔物ではタフネスが違いすぎた。
血を流しすぎたせいで、意識が霞む。
目が朧で、眼前に迫る牙さえ、もう見えなくなりそうだった。
そうしてシルフィーは目を閉じた。
思い浮かぶものはそれほど多くない。
母の膝、精霊の声、鬱陶しい守り人、寡黙な兄、それと鬱陶しい弟。
それくらいだ。
それだけの人生だ。
だから、シルフィーはそのまま目を瞑ろうとして――
「――くぉの馬鹿がぁあああああああっ! 諦めてんじゃ、ねーええええええっ!!」
猛々しい炎が、霞む意識を持ち上げた。
そいつは、シルフィーが今までに見たこともないような強大な烈火を顕現させ、シルフィーを庇うように目の前にいたのだ。
「――何で助けたの?」
「何一人で勝手に死のうとしてんだこの大馬鹿がっ! 俺は、まだ、てめーに勝ってねーんだよおおおおおおっ!」
そうしてシルフィーは九死に一生を得た。
助けられて初めて理解した。
ああ、私はこいつを見下していたんだな、と。
滑稽な話だった。
何度も何度もシルフィーに挑む少年。実力は足らず、それでもなお挑むその男をシルフィーは本当の意味で見てなどいなかった。
才能の足りない馬鹿、それに頭も足りない大馬鹿。そこらへんにいる有象無象の嫉妬狂いと同一視し、彼と向き合ったことなど一度もなかった。
シルフィーを馬鹿にした里の奴等とシルフィーも同じだった。
心の内側で定めたレッテルと同一視して、見下していた。
こいつは私よりも下だと。
そう思っていたのだ。
「ねぇ――」
シルフィーは心を埋め尽くさんばかりの羞恥心を必死に隠して口を開いた。
「――名前、教えて?」
「はぁ!? 俺たちもう七十年以上の付き合いだよなぁ!?」
「いいから、教えて」
「はぁ……ユリスだよ、忘れんなよ!」
「ユリス……うん、憶えた……忘れない」
「っ――な、ならいいぜ、ったく、しょうがねーやつだなぁ」
その男は、シルフィーが生まれて初めて興味を抱いた少年だった。
◆
その日を境に、ユリスとシルフィーの戦いは苛烈さを増した。
シルフィーも本気で挑んでくるユリスに本気でぶつかるようになった。
何度も何度も打ちのめして。
来る日も来る日も、シルフィーが勝った。
勝利数は数えていない。
呆れるほどシルフィーは勝った。
だが――
「…………一万、二千、三百、七十、七戦……一万二千三百七十六敗、一勝っ……!!」
「……ねぇ……何で、そうまでして……私に勝ちたかったの?」
大の字で、寝転がるシルフィーが言う。
「っはぁ……はぁ……最初は見返したかった――お前がそのなんか、全部全部上から達観してるような目で見てきたから、負けねぇ、あっと言わせてやるって子供みたいに思ってた」
シルフィーの隣で、ユリスは言った。
「――そう、じゃあ今は?」
「俺が強いんだって証明したかったんだ。俺はお前を守れるくらい強いって! 里の誰よりも誰よりも強くなって――そんで守り人になれば、たとえ里の全部が敵になっても、俺がお前を守ってやれるんだって、証明してやりたかったんだ」
「っ――!」
「知ってたんだよ。最初から、お前が里の皆からどんな扱い受けてんのか、どんなひでぇこと言われてんのか全部知ってた。でもよぉ、俺は弱かったからあいつ等の言葉を否定してやれなかった。長老とかまでそう言うからさ、否定してやれなかったんだよ――本当は間違ってるって分かってたのにさ、お前の辛そうな顔みてっと一発で間違いだって分かったのに……! 俺は何も変えてやれなかった…………」
ユリスは唇を噛み締め、引きつるような顔でそう零した。
「だからせめてよう、お前より強くなって、お前を守れるって認めさせたかったんだ。俺がお前を守ってやるんだぞってそう認めさせるために、くだらない意地を張ってたんだよ、俺も男だからな」
シルフィーは無自覚に頬が高潮するのが分かった。
それどころか口元が緩み、目からは涙さえ零れそうになってしまって、こうも感情が揺さぶられたのは生まれて初めてのことだった。
「わ、私……もしかして今、告白されてる……?」
「もしかしなくても告白してんだよ! 分かれよ!」
「だ、だって……告白とか……初めてだし……好意とか向けられるのも初めてだし……」
「そりゃお前が気づいてないだけだ、大馬鹿者――」
「むぅ――私は好意になれてないの――だから――」
シルフィーは照れくさそうに、恥ずかしそうに、甘えるように、それでいて不安そうに、震える声で言った。
「――はっきり言ってくれないと、わかんない!」
「好きだ、シルフィー」
はっきりと、声が聞こえた。
「出会ったときから、今までずっと、お前のことが好きだった」
「そう――――嬉しい……凄く、凄く、嬉しい――」
◇
――天より降った雷の竜は鼓膜を麻痺させるほどの轟音と共に、大鬼の体をこれでもかと焼いた。
圧倒的破壊、そう呼べるほどの魔法を受けたガイルザークはそれでも二本の足で地を踏みしめ、その顔を狂気の笑みで染めていた。
「そこじゃったか――」
ガイルザークの目はシルフィーには向いていない。
代わりにアイシャの方向に向けて、その斧を大きく振るった。
本陣から僅かに離れたアイシャのいる場所が、爆発でも起きたかのように、爆ぜた。
斧に切裂かれたというよりも、叩き壊されたといったほうがいい惨状である。
ダメージは確実に負っている。
それどころか満身創痍でさえあるはずだ。
だが、それでもその鬼は、笑っていた。
かかって来いと、そう笑うのだ。
「――上等っ」
シルフィーは駆ける。
夜色の衣は既に消えた。
アイシャの技能が齎す恩恵――その五分間、という制限時間の内にガイルザークを倒すことは適わなかった。
そうなれば、ガイルザークを倒すことは難しいと言われていた。
自力ではどう足掻いても相手が上で、本陣の異常を目の当たりにした魔族がすぐに増援に駆けつけてくることだろう。
だが、それでもシルフィーは剣を振るうのだ。
勝てるかなんて分からない。だが、やらなければ永遠に勝てない。
諦めなければ、終わりじゃない。
そう、教えて貰ったから。
「せぁああああああああああああああああああああっ!」
その剣撃はあっさりとガイルザークの斧を打ち、肉を切裂いた。
そう、気丈に振る舞い闘っているがその全身は震えるように痙攣している。
当たり前だ。
空から降り注ぐ雷を受けて無事な者など存在するはずがないのだから。
だが、それでも刃は迫る。
命を刈り取ろうと、喉を抉ろうと、脳髄を叩き潰そうと、致命の一撃が迫るのだ。
シルフィーはその刃を掻い潜る。沈み込むようにして懐に入り込み斧を握る指に狙いを定め――斬り裂いた。
「ぐっ――ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
切断された指が宙を舞う。
返り血で髪が真っ赤に染まった。
だが、それでもガイルザークは攻撃の意思を失ってなどいなかった。
片手で獲物を握りなおし、体全体で振り回した斧がシルフィーの右腕に深々と食い込み、骨の半分まで達した――切裂かれる、腕だけじゃなく、体全部――
――刹那、一歩、本能的に刃の届かぬ内側に踏み込んでいた。
無事な左腕で握り込んだ剣を全力で前に――空に向かって自らの片腕が飛ぶと同時、シルフィーの突き出した剣が、鬼の心臓部に深々と突き刺さった。
「…………見事……」
肉を貫き、内蔵を抉り、その体を貫き通した刃は、役目を終え、静かに地に落ちた。




