間話 それぞれの理想
空が澄んでいた。
一片の陰りさえなく、不可思議なほどに澄み切っていた。だから、その空は現実のものではない。
雲は一切存在せず、数えるのも馬鹿らしくなる無数の星々が広大な大地へと光の帯を引くように明かりを齎し続けていた。
四方に広がる草原に、星の光が降りて闇を払う色が輝く。南に向けば、深く沈んだ大地が見えた。そこには、水底まで透き通った湖が幾つも点在している。東には山を抱える深い森、ずっとずっと西を向けば、広大な大河が流れいく。
明けることのない悠久の夜を、無限の星が照らし出す。
照らし出された場所の全てが――『異世界喫茶』の領土であった。
四方に広がる景色全てを一望できる、空に浮かぶ天空の城――一切の色がない強大な城の外壁に光を灯していたのは、空から降る星の瞬き。
無城、と呼ばれた難攻不落の城のテラスで、二人の女性は眼下を見下ろす。
「しっかし、ナハトちゅわんは面白いわねん――見た目はかわいいのに、勝気で強情。ロールプレイに力を入れてる人は多いけど、ナハトちゃんほど拘ってる人はなかなかいないわ。疲れないのん、それ?」
星明りに映える白い長髪。肉感的な体の全てを惜しみなく晒す下着のような鎧に身を包み、蝙蝠のような、それでいて龍の如く力強い翼を広げる女性が、野太い男の声のまま、そんなことを言ってきた。
「あねさんはロールプレイしてませんよね、それ」
魅惑的な女性アバターを扱うあねさんこと、アネリーは声を聞いただけで男だと分かる。
それを隠そうともせずに、普段通りな話方をするアネリーさんは、ナハトと違ってロールプレイとは無縁な人だった。その美しい見た目から発せられる野太い声は、彼女の現実そのもので親衛隊の面々でもギャップ萌えとはいえないらしい。
彼女にナンパ目的で話しかけてしまったことが切っ掛けで、ギルドに連れて来られた親衛隊が実は何名かいたりする。後になって詐欺だ詐欺だと喚いていたが、自業自得である。
「偽るのは姿だけ。あたしはあたしよん――ここでもそれは変わらないわん――」
と、そう言ったのもつかの間――夢魔は羽を折って、うな垂れた。
「なんて、これも言い訳――実際は偽って、誤魔化して、欲しかったものをこうして手にした振りをしているのよん、情けないでしょ?」
どこか自嘲気にアネリーは言った。宝石のような瞳は微かに揺れる。
だが、ナハトは大きく首を振った。
「そんなもんでしょ、ゲームなんて――手に入らないものが欲しくて、手に入らない理想があって、だから皆このゲームに没頭しているんですし」
あまりにも現実に近しいこの世界で、現実で叶わなかったものを求めて。
仲間内でも、馬鹿話意外に現実の事情を知る者は少ない。だが、話さずとも彼女が現実でどのような扱いを受けてきたのか、想像することだけは難しくない。
彼女はナハトと同じく、ギルド結成当初から共に過ごした最古参のギルインで、徹との付き合いも三年を超える。
だから、たまに酒を酌み交わすような感覚で、愚痴をぶつけ合うこともあるのだ。
現実で、嫌なことがあると彼、あるいは彼女は口癖のように言っていた。
――あたしは姉になりたかったのよん、と。
彼女にとって、美しい女性を象る分身は、現実世界で求めた理想そのものなのだろう。
「ま、ロールプレイは疲れないですよ、ちょっとボイロの調教とかが大変ですけどね」
「ナハトちゃんも女の子になりたい派? それとも嫁にしたいのかしらん?」
「それは大天使さんの理想でしょう――どっちかって言うと、思い入れがあるのは演じているキャラのほうですかね」
「へー、その心は?」
酷く興味があり気にナハトを覗き込むアネリー、だがナハトは露骨に顔を顰める。
「ぅえ……、それはちょっと言いたくないですよ、恥ずかしいですし…………」
「乙女の秘密なんだから、笑わないし、誰にも言わないわよ、あたし」
ナハトはその言葉に、偽りなど存在しないことを知っている。
彼女の言葉は、ナハト以上に芯が通っている。曲ったことを口にしない彼女の言葉には、恐ろしいまでの信念を感じるのだ。
誰にも話さないといった以上、徹の恥ずかしい自分語りも、ここだけの話だ。
徹はそれを口にしたくなかったし、口にしたこともない。
口にせずとも容易く気づく厄介な人はいたが、自分から口にするのは情けなくて、恥ずかしくて御免だった。
そうは思うものの、アネリーさんだけに何時も何時も理想を語らせて、自分は黙秘というのは些か不公平が過ぎるとも思う。
長い、長い逡巡の末、画面の中の美少女が、その口をゆったりと開いた。
「言いたいことを言って、やりたい事をやる――口で言うのは簡単だけど、実行しようと思ったら、どれ程努力しなければならないのか――少なくとも俺は、現実でそれを諦めたんです」
それは誰にも語らない、己の気恥ずかしい内面であった。
徹が周囲から抱かれる第一印象は、真面目そう、だった。
学校の先生と面談すれば決まってこう言われる、いい子ですよ、と。
そりゃあそうだ。
真面目に見える程度には言うことを聞いて勉強もするし、いい子に見える程度には愛想も振りまいて生きてきた。
誰にでも作り笑顔を振りまいて、世間をうまく渡ってきた。渡ることに疲れ切っていた。
いつの間にか仮面をつけなれて、他人や友達は勿論、家族の前でさえも誰かを演じた。楽しくもない友人との会話をさも楽しそうに見せ掛け、電話をくれた両親に大学やバイトは楽しいと嘯き、愛想笑いを浮かべ、偽って、偽って、当たり前のように偽り尽くしてきた。
(――本当に楽しいのは、ゲームをしているこの瞬間だけだというのに…………)
そうして完成した、真面目で、いい子、な誰かが徹として出来上がる。
笑い合う笑顔は何処までいっても偽りだった。
そう思うと現実世界で、誰と、何をしようと、酷くつまらない。
秘すべき内面を、今は何故だか素直に吐露してしまっていた。
顔も、名前も、その姿も知らないアネリーさんを、どれほど信頼していたのか今さらになって実感してくる。
「言いたいこと言いたくて、やりたい事をやりたくて――退屈な日々をぶっ壊したくて、俺はナハトにそれを全部任せたんですよ」
気恥ずかしく、酷く退屈でどうでもいい徹の独白を、アネリーさんは見下すこともなく、嘲笑うようでもなく、ただどこか嬉しそうに聞きながら表情を緩めていた。
「で、ナハトちゃんはその期待に応えてくれたのん?」
それはまるで、答えが分かっているかのような物言いだった。
「ええ、これ以上ないほどに――」
二人の美姫は眼下を見下ろす。
自分たちが積み上げてきたもう一つの現実を楽しそうに見つめていた。
――それは、今は遠い過去の情景であった。




