黒狼の牙
森の奥、切り立った崖に空いた洞窟。
そこには、不自然なほど光源が集中していた。本来洞窟というものは人が住めるような環境ではない。明かりはなく、床は眠ることすら難しい上、トカゲやらムカデやら、さらには魔物が住み着いていることすらある。だからこそ、多くの手が加えられていた。人の手が加えられた後こそが、集団の生活環境が存在する証拠だった。
生活臭の篭った洞窟には、食い散らかされた食料の残骸と、血の匂い、さらには独特の淫臭が交じり合って、異様な悪臭を放っていた。
だが、それも、最奥はまだ少しましだ。
そこに許可なく立ち入れる者はたった二人しかいない。
「はっはっは、デュラン殿のおかげで、此度も無事に獲物を得ることができました。こちらもかなりの損害を被りましたが、流石はデュラン殿、あのA級冒険者、氷帝を捕らえてしまうとは――どうです、値段が下ることは覚悟の上、貴方がその気ならあの冷たくも絶世の美女、犯して下さっても構いませんぞ」
媚びた目でデュランに提案した男こそ、自由交易都市近郊で最も巨大な盗賊団、黒狼の牙の頭目、アイゼンだった。
荒くれ者の頭である以上、れっきとした実力者である。
アイゼンは没落貴族に仕えていた元騎士であり、お家の没落後は傭兵稼業で飯を食い、その時の伝手を利用して、今は盗賊をやっている。そもそも、傭兵と盗賊に大差などない、それがアイゼンの考えだった。戦う場所が違うだけで、殺して奪う、という仕事は同じなのだ。
手下の中で、アイゼンに勝てる者は一人もいない。十対一でも、素人に毛の生えた程度の下っ端ならば余裕を持って殲滅できる。
永きに渡る戦歴は戦闘のプロと言っても過言ではないだろう。
だが、そんなアイゼンも、彼の前では雑魚に過ぎない。
剣客として雇い入れた、伝説の傭兵デュラン。
「いらん! あの者は強かった――――」
――そう、羨ましくなるほどにな。
そんな言葉をデュランは心の中だけで呟いた。
デュランの言葉にアイゼンは頷く。
当然だ、若手とはいえ二つ名持ちのAランク冒険者が弱いはずがないのだ。冒険者ランクも人を量るものさしでしかなく、同ランクでも実力差に開きがある場合も多いのだが、Bを越え、Aに至ったものは人間を止めている。選ばれた才能を持つ者以外はたどり着けぬ領域なのだ。
アイゼンが戦えば、二分が限界だ。
本気を出されれば、一分も持たないであろう事は二人の戦いで痛いほど理解できた。デュランがいなければ、撤退の一択だっただろう。
だがデュランの言葉をアイゼンは理解できていない。
そう、確かに強かった。気分も踊った。高揚感も得た。なのに、こうも満たされない。
心の奥で、狂戦士の加護が囁く。
なら、もっと、求めろ、と。
千人斬りのデュラン、鮮血のデュラン、伝説の傭兵デュラン、戦鬼デュラン。
それはデュランが望んで得た名声ではない。
ただ戦っているうちに、勝手にそう呼ばれた、それだけだ。
日常から逃げ、戦いに逃避した故に得た名声でしかなかった。
時には反政府のクーデターに混じり騎士を斬り伏せ、時には災害級魔獣を相手に単身で挑み斬り伏せ、時には傭兵として戦場に立ち一太刀も傷を負うことなく帰還し、戦場を歩く鬼と呼ばれた。加護に従うままに戦った、それだけなのに、随分と大仰な名前がついたものだ。
何時からだろうか。
戦いに逃避するようになったのは。
何時からだろうか。
戦場を日常としたのは。
何時からだろうか。
己の力すら制御できず、心を失ったのは。
「はは――」
思わず自嘲の笑みが零れた。
誰かの指図に従い、戦場を渡り歩くごとに、埋まると信じた空白は、どんどん大きくなってデュランを蝕む。
人を斬り、誰かに噂され、恐れられる。それがデュランを蝕んでいることに本人はまだ気づいていない。いや、気づかない振りをしているだけなのだろう。
始まりは、小さな小さな期待だった。
純真無垢な期待だった。
それが今は戦場を歩く鬼だ、皮肉なものだとデュランは笑う。
「俺は何処に行けばいい」
胸に空いた特大の空白がデュランの瞳から光を消した。
少なくとも、そんなデュランの嘆きを理解できる者はここにはいなかった。
「親分ー! おやぶーーん! てーへんだー!」
薄い布の壁越しに、叫び声が聞える。
伝令の部下が慌しく、駆け込んできて用件を告げる。
アイゼンは現実主義であり、一々礼儀などを考えることなく、異常は即座に報告せよと厳命しているのだ。
だが、それはここにアイゼンだけがいる場合の話で、何よりも優先すべきデュランがいる現状で、礼節もへったくれもない部下の態度に苛立ちが湧く。
「何事だぁ、騒がしい!」
デュランの機嫌を伺いながら、アイゼンは部下を睨みつける。
「い、いや、それが見回りに出てた小隊の一つが帰ってこねーんだよ!」
「あん? 誰の班だ?」
「ギールんとこのです!」
アイゼンは三人小隊で見張りや見回りをさせている。これは、数的優位を保つことを大前提として、もう一つ狙いがある。それは、二人が戦闘を行っているうちに、一人が撤退し、報告を行うことができる可能性を上げることだった。
戦場では情報こそが命であり、そのため、平時でも斥候は数多く放っていた。
「誰も帰ってねーのか?」
「はい、誰も……」
一番大きな可能性は魔物に襲われて全滅したことだろう。だが、周辺にはそれほど高位の魔物はいない。
裏切りもまずない。騙されてというなら万が一があるが、基本的に居場所のない虫けらが集まってできたのが盗賊団だ。それでも、美味しいめにあえるのだから、裏切るメリットは少ないはずだ。
ならば、騎士団や冒険者に捕らえられたのか。
可能性はなくはないが、見回りで欲に釣られ、危険を侵したと考えることも難しい。そんなことをせずとも、報告をすれば確実に狩れる獲物なのだ。先走るな、とは常々教えてきたことである。
それに、交易都市に潜入させている協力者の話では、大規模な掃討作戦はAランク冒険者氷帝の襲撃以外に情報はなく、それもつい最近撃退した所なのだ。
「そいつは――おかしいな――よし、俺の部下から斥候を放つ。お前はもう下っていいぞ」
「へいっ!」
情報は生き残る上で最も重要な要素である。
ちょっとした違和感、それをアイゼンは見逃したりはしない。
「ヘブライ、グラッド、南方だ――調べてこい!」
二人はアイゼンの傭兵時代からの仲間である。
どちらも斥候としての技能を持つ上、気配察知に長けた武術を取得している。
下っ端とは違い、アイゼンの信頼すべき部下であった。
「ん、ああ、了解」
「めんどいなー! せっかくこれから、あの糞女共を抱こうと思ってたのによ!」
「おいおい、グラッド、処女じゃなきゃ値が下るだろーが! それに、氷帝の魔力錠だけは外すなよ! 無手でもぶっ殺されるぞ。気持ちは分かるがもう少し我慢しろ、金が入ったら娼婦でも奴隷でも好きな奴買えばいいだろ」
「あー、了解。じゃ、だりーが行ってくる」
アイゼンは冷静だった。
小さな傷を見逃さず、確実と言える手札を切って、不安要素を消す。
それが長生きをするコツだった。
だが――その対応が実を結ぶことはない。
何が悪かったか、アイゼンには答えを出すことはできないが、強いて言うならば――
――相手が悪かった、それだけだ。
「血が、騒ぐな――」
デュランの静かな声に、反応する者は誰もいなかった。
◇
「なー、アイシャ、いい加減機嫌直してくれよ……」
「つーん!」
いや、つーん、って。
どう考えても、悪役はナハトではなくアルハザードのはずである。
それに、アイシャはまだ子供である。
敵意むき出しの竜が目の前で睨んできたら、誰だろうと恐怖に支配され、緩む所も緩むだろう。
それを責める人間など何処にもいないのだ。
「ほら、なら――天上界の果実を上げるから、な?」
そう言って、ナハトはストレージから青リンゴに似た果実を取り出した。
これは、レベル百~百二十帯モンスターの湧く、天上界で得られる果実である。食べると、一定時間FPを回復させるため、プレイヤー皆に重宝された食べ物でもある。
FPは文字通り空腹値を現すもので、一定値を下回るとステータス低下、さらに下ると命中判定マイナス、眩暈などのバッドステータス、最終的には餓死する可能性もある大切な値である。
ゲーム時代は味が分からなかったが、きっと美味しいはずだ。
食料品系アイテムには味の品質と希少性を現すレア度が存在し、天上界の果実は六、最高が十なことを考えると、それなりにいい物のはずだ。
瑞々しい水滴が、皮の外までじんわりと染みて、糖度の高そうな張りのある輝きを放っている。
「じゅるり…………はっ! だ、駄目ですよ、た、食べ物なんかで――食べ物なんかで――わ、私は騙されません……」
「はは、上の口は強情でも、体のほうは正直だぞ――ほら、アイシャ、これが欲しいんだろ?」
「は、はぅ――そんな、こと、は…………」
「じゃあ、これはいらないのか――残念だな――」
そう言って、取り出した果実を亜空間に収納するふりをした。
すると――
「…………ぃです」
龍の聴覚を持ってすれば、十分に聞き取れる声色だ。
だが、アイシャの恥らう姿を見て、ナハトの心に嗜虐心が強く押し寄せる。
「ん? 今何か言ったか?」
「だから……その……欲しい、です……ナハト様の、それを、私にお恵み下さいっ!」
「はは、良く言えました。じゃあ、ご褒美だ――たーんと味わうといい」
「い、いただきます! あむっ、んくんく、ぁ――何、これ――! 凄ぃ、あ、んっ、ふぁ――」
すっかり、蕩け顔になってしまったアイシャに完全に果実を与えて、ナハトもストレージから同じ物を出して齧る。
口の中で炸裂した膨大な水分。それが何とも言えぬ上品な甘さを広げた。
しゃきしゃきとした噛みごたえのある食感は、咀嚼していて楽しくなる上、舌ざわりが良い。
解けていく繊維質は、徐々に味を変え、後味がすっきりとしている。
「ん、中々――うまいな――」
「はふぅー、こんなの――初めて――」
「はは、アイシャは大袈裟だな」
何せ、この果実は高レベルになれば時間はかかるが幾らでも集めることができる。
プレイヤー達の自由市場では低レベルキャラクターに向けて小遣い稼ぎとして安く売られていたものだ。便利ではあるが決して高価なものではない。
「そんなことないです! 私はこんなに美味しいもの、初めて食べました!」
そんなアイシャの花開く笑顔に、ナハトは少し気圧された。
だが、彼女が喜んでくれるならば、それでいい。
「――そうか、じゃあ、もっともっとお前には美味い物を食わせてやらないとな」
「そんな……私などに――もったいない…………」
小さな声で呟くアイシャ。
ナハトはそれを聞いてゆっくりと首を振る。
「そんなことはない、アイシャはもう、私の従者で、友で、大切な存在なのだから」
感極まったとばかりにアイシャが両の手で頬を支えた。
まるで、歪んでしまう顔を無理やり留めようとしているようだ。
残念ながら効果はそれほどでもないようだが。
「は、はい! アイシャの全てはナハト様のものです!」
(なっ、だから何故そうなる…………はぁ、ごめんなさいアイシャのお父さん、娘さんは少しよくない方向に向かっているようです……)
ナハトはアイシャと取りとめの無い会話を楽しんでいる。
傍から見れば、警戒も何も行っていない状態で、危険な森を歩くバカである。
だから、二人はナハトに接近した。
無謀で、無策で、ただの獲物でしかない弱者を装っていたナハトの罠に、あっさりと引っかかったのだ。
(よ、う、こ、そ)
ナハトは静かに、口元の笑みを深めた。