最初の一手
ふと目を開くと、薄い白とピンクの部屋にいた。
甘い香りがどこからともなく漂ってくる。
そんな香りに引かれて辺りを見ると、ぼんやりとした靄から白い手が伸ばされた。
しなやかで、美しい、女性の手だ。
肩にかかる淡い金糸の髪が、微かに揺れた。
潤んだ瞳に、赤みを増す頬。
短く吐息を吐き出す様は、酷く艶やかで、熱にうなされているように思えた。
その、女性は――ナハトの目の前に突如として現れた女性は、アイシャに少しだけ似ていた。
少しだけ膨らみのある胸が、盛大に露出されていて――ネグリジェの下で体の線を際立たせる下着だけがその身にある。
「――はぁ……んっ、もう――我慢できません――」
そんな言葉を吐き出しながら誘惑するように、体を近づけてくる。手をそっと、太ももの間をなぞるように置くその仕草は、男の欲望を刺激して止まない。
「――――ナハト様……お願い……きて……」
そう言って差し出された胸を、ナハトは微塵も躊躇うことなく、揉んだ。
「ひゃっ!」
それはもう、容赦なく――ふにふにと揉んで、真顔で頷く。
「アイシャの倍はあるな――私を誘うつもりならば、もう少し本物に似せるべきだろう――」
つまらない玩具を触るかのように乱雑にも揉みしだいて、そう吐き捨てた。思春期童貞であらばこれでもかと喜びそうなシチュエーションであるにも関わらず、ナハトの瞳は冷め切っている。
「で、こんなつまらない真似をして――なんの用だ、サキュバスの魔族よ?」
そう影に投げかける。
胸をなお、揉みながら。
「…………ああ……無理……やっぱ無理……効かないよね、こんな術……」
「生憎と、こういった技能に精通――いや、特化していた仲間がいてな――対策もみっちりと仕込まれたんだ」
夢の境界に束縛する、夢魔の技能――ナハトはその攻撃を受けていたのだ。
囚われれば、一定時間――あるいは術者が術を解除するまで行動不能になることは間違いない。ゲーム時代の夜襲ではメジャーとまではいかないが、油断をすると一瞬で全滅もあり得るえげつない攻撃である。
ふにふにと胸を揉む手を休めず、ナハトはサキュバスを見る。
「まったく、私のアイシャの偽物を象るとは笑止千万だな――」
「ならいい加減その手を離しなさいよ! あと、私が、その、そんなエッチな子を作ったわけじゃないから。あんたが望んだ女性がそれだっただけで――てか、なんで女性なのよ!」
それはつまり、この手に収まるくらいの丁度いい胸はナハトの願望なのかもしれない。
「ふむ――私が愛すべき存在はアイシャ以外に存在しないからな」
愛情を向ける相手は当然シュテルもいるが、そういう意味でならナハトのパートナーはアイシャ一人である。
この、夢の世界の幻影もナハトの願望というならばアイシャが現れても仕方がないだろう。無論、技能に対しての抵抗には成功している。
ナハトの場合は受動技能で抵抗したが、それがなくとも女王の寝台が無効化してくれることだろう。ナハトやアイシャたちが眠るそれはただでかいベットというだけでなく、幻惑魔法などに抵抗もしてくれる便利な道具なのだ。
「だが、まあ――貴様は正しい選択をしたな」
ナハトの声に鋭さが増した。
魔力越しに干渉し合うフィルネリアの幻影がビクリと震える。
「……正しい、選択……?」
「何を恐れていたのかは知らんが私を狙ったのは正解だ――女王の寝台を置いているとはいえ、影でこそこそと私のアイシャやシュテルを狙うようなら――容赦はしない所だったぞ?」
夢の世界、とでも呼ぶべき空間に亀裂が走り抜ける。
「――それでも、少しお仕置きをしておこう」
「――っか――ふっ……」
夢魔の体が大きく仰け反った。
攻性抵抗。ただ無効化するだけでなく、攻撃に転じる反撃だ。ナハトの黒い魔力が夢の領域を侵食し――破砕した。
「いっ……たぁ……もう……いや……だから……いや……実家に……帰りたいよぅ……」
キラキラと、ガラスのように降り注ぐ領域の破片を感じながら、ナハトは言葉を紡ぐ。
「戦いは一週間後と言っただろう――それを守らなかった貴様への罰だ――あとはアイシャの姿を象った報いだな」
「……だから、それは……あんたのがんぼ――」
だが、ナハトの鋭い視線と脅迫するように溢れる魔力が、フィルネリアの言葉を止めた。
「――いえ、そのなんでもない…………はぁ……でも随分甘っちょろいわね……闇討ちくらいだめもとでもやるっての……」
「戦とは、暗黙のルールがあり、お互いが矜持をぶつけ合うからこそ戦なのだよ。誇りなき戦いは殺戮とでも呼ぶべき所業であろう。まあ、私を襲うならばそれも良い――楽しみが増えるというものだ」
ただでさえ夢魔の有利な領域で、それでも及ばないフィルネリアは陰鬱とした表情を浮かべていた。これ以上何かをしかけたとして、自らの首を絞めることに繋がるだけだろう。
「あんた……なんで戦争とかめんどうな真似するわけ? あんたの力なら、全部潰して終わりじゃないかしら?」
心底不思議そうにフィルネリアは聞いてきた。
ナハトは口元を少しだけ歪め、笑ってみせる。
「そんなことをしても面白くないだろう?」
「――は? 私たちは魔族で、あんたの敵よ? そんな理由で――」
「――私の敵は、シュテルを傷つけた仮面の魔導師ただ一人。安心するといい、私は言わば指揮官的ポジションだ――指示は出すが、直接戦闘には参加しない。ここで明言しておこうではないか」
「それを信じろって? ……はぁ……まぁ、信じるしかないんだけど……」
「懸命な判断だ――ところで聞いておきたいんだが――仮面の魔導師とやらは今どこにいる?」
ナハトの言葉が剣呑な響きを持った。
魔族の大半に恨みはないが、シュテルを傷つけたそいつだけは、例外だ。
必ず見つけ出して、報いを与える必要がある。
「さてね――あの不気味な女? は、魔王様直属の部下だし――地位はないに等しいけど、実力だけなら魔王様の次って言われてる相手だし、関わりたくないわね――ほんと…………」
フィルネリアの答えは、ナハトにとって予想通りと言わざる得ないが、少しだけ落胆するものがあった。
この付近にいるならば今すぐにでも見つけ出して、殺してやろうと思えるほどに、ナハトは報復に飢えていた。
「魔王様の次、ねえ。まあいい――ならば早々に去れ――そろそろ朝食の準備をしなくてはならない時間だ」
ナハトの言葉に返事はなく、夢の領域を浸食していた魔力は離れ去っていった。
薄っすらと、目を見開く。
最初に飛び込んできたのはナハトにしがみ付いて眠るアイシャの顔。反対側では、ナハトの腹を枕代わりにして眠るシュテルだった。シュテルは中々に寝相がやんちゃである。
ふと、気になって、ナハトはアイシャの胸を軽く撫でた。
「――ふむ、倍というより、三倍といった所か」
「失礼ですね! ……むにゃ…………」
「寝言で突っ込みを入れるとは、流石は私のアイシャだな」
愛しき従者の頭を撫で、ナハトは意気揚々と朝食作りに励むのだった。
◇
緑を揺する一陣の風が吹き抜ける。
清涼として、酷く穏やかな午後の陽気に――
「――――イギュァアアアアアアアアアアッッ!!」
――似つかわしくない悪魔の咆哮が響き渡る。
「いって――え! 指が、ゆびがぁあああああっ!」
「はは……俺の足……ちゃんと引っ付いてるか……?」
「うっせぇえ! それどころじゃねぇ! さっさと逃げるか戦うかしろ、ボケ!」
飛び交う怒号と悲鳴の嵐。仲間を気遣う余裕もなく、身を削る思いで魔法を搾り出すエルフたちの姿があった。
温厚で、知的――そんなエルフに対するイメージは幻想と成り果て、端麗な容姿は血と汗に染まり尽くしている。
「うふふふふふふ。悪魔、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔。うふふふふふふふ」
「殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃひ」
それどころか、若干性格が歪んでしまった者もちらほら。
ナハトの訓練が始まって、三日目の正午。
皆が皆、悪魔を相手取って、それなりに戦えるようになったといえるだろう。
特に、アイシャとシルフィー。
あの二人の連携は、最早最下級悪魔程度では役不足かとさえ思える。
「地の精霊さん、縛って!」
アイシャの語りかけを受け、大地が流動し、姿を変えた土が壁や、拘束具と変貌し、悪魔の自由を奪う。
頑強な土の呪縛に縛られた悪魔にシルフィーが近づいたと思うと、一閃。鮮血が一歩遅れて飛び出て、ようやく斬られたことに気づくような凄まじい速さの一撃だった。
空を埋めるほどいた悪魔も、一日目は余っていたが、二日目になると全てを撃滅せしめ、三日目になれば、半時ほどで狩り尽くせるようになっている。
確実に成長している証拠であろう。
ナハトは軽く、何度か手を叩く。そして口を開いた。
「はい、そこまで――」
ナハトの言葉が響くと共に、彼らは大きく脱力し、地に突っ伏して、息を吐いた。
「ふむ、それなりに戦えるようになってきたな――」
労うようなナハトの言葉に、アイシャやエルフたちが笑みを浮かべたのもつかの間、ナハトは不気味に口を開くと言葉を続けた。
「――では、そろそろ基礎訓練は終わりにしようか」
「…………基礎――?」
「――訓練、だと?」
アイシャとシルフィーが、仲良く唖然としながらそう吐き出した。
残りの面々は、言葉を吐き出す余裕もなさそうだ。
冗談だろ、と言いたげな様子だが、ナハトの訓練はまだその入り口でしかない。
「そうだ。まずはお前たちの基礎スペックをある程度引き上げたに過ぎない。だが、それだけでは足りない。まるで足りない。お前たちが相手にするのはレベル差十を超える存在だ――雲に手を伸ばし、掴もうとする努力なのだぞ?」
ナハトはやれやれ、と首を振る。
「と、いうわけで、こいつの出番だ!」
ナハトは分厚い本をを取り出した。
辞書のような厚みのあるその本の表紙には、『これで誰でも必勝間違いなし、ナハト式超絶簡単魔族攻略本』と記されていた。タイトルを見ただけでは、実に胡散臭い。
手書きしたものを、技能でちょちょいと複製した、ナハト特製の攻略本である。ナハトが資格を認めた者にしか開けない特典付で、情報漏洩対策もしている親切設計だ。
「しっかり読み込んで、暗記しておけ――敵を知ることこそ戦の第一歩だぞ」
そう言うと、暗記や勉強が苦手なアイシャは絶望したような顔になる。
「な、ナハト様……これ、全部ですか?」
「はは、アイシャは可愛いから最初の十ページだけでいいぞ」
それを聞いたアイシャは、安堵の吐息を吐き出していた。
その分、シルフィーと一緒に一番過酷な役回りをこなすのがアイシャなのだが、ナハトはそれを口にしない。
「――すげぇ、なんだこれ……」
食い入るように攻略本を覗き込んでいた一人のエルフがそんな言葉を発した。
微細なデータに圧倒されたからだ。
敵陣の詳細な地図を初め、罠の位置に種類、さらには敵の姿かたちから、凡その戦力と得意としている武器、技能、魔法に至るまで、ナハトの看破が見抜いた細やかな情報の全てがそこには記されている。その記し方は、ゲームの攻略本に似通っているのはナハトの趣味である。
「まあ、読むだけでは駄目だぞ。ちゃんと強くなって、対応できるようにならなくてはな――だからこそ、レッスン2だ。ウルスたちは各小隊ごとに、対魔族を想定して実践的な訓練といこう――手始めに相手をするのは――」
ナハトがそっと視線を移ろわせる。
その先にいた影は――
「――にゃおん」
――愛らしくないた。
「まさか……その……幻獣が、相手……ですか?」
「にゃおん」
タマがよろしく、と言いたげに鳴く。食べてばかりで運動不足のタマにはエルフたちの相手もお遊び感覚なのであろう。
ナハトはそんなウルスの言葉に、満面の笑みを答えとした。
「はは…………」
「あ、あの、それでナハト様、私たちはどうすればいいのでしょう?」
アイシャが少し不安そうにそう聞いた。
「ああ、それはなアイシャ――」
ナハトは嬉しそうに、そして楽しそうに言葉を紡ぐ。
「――この、ナハトちゃんが、直々に指導し、鍛えてやろうではないか!」
テンションの上がるナハトとは対照的に、何故かアイシャとシルフィーは浮かない表情を浮かべ合うのだった。




