アイシャとシルフィー
「……はぁ……はぁ……クソ……お前の主は……きっと、性根が腐っているに……違いない……」
肩で大きく息をするシルフィーは、いい加減立っているのも煩わしくなったのか、地面にその身をあずけ盛大に寝転がる。
悪魔の集団相手に、かれこれ七~八時間は訓練という名の実戦をさせられているのだ。足腰が立たないどころの騒ぎではなく、全身が鉛に変わったかのような感覚であった。
「…………っ……はぁ……けほっ……いまは……なんだか、否定しようと……思えないです……」
その隣にアイシャもばたりと倒れこむ。
一つ離れた場所にいるエルフたちも皆、死屍累々だった。無論、それはアイシャも同じである。今はもう、一歩たりともここから動きたくない、そんな気分だった。
「……これのどこが訓練だ…………今日だけで……何度死にかけたとおもう……」
「……な、なんか……やたら強いのが混じってましたよね……絶対あれ、ナハト様の……仕業ですよ…………」
アイシャとシルフィーの戦う相手はただの最下級悪魔だけでなく、徒党を組んで囮や伏兵を使ってくる賢しい個体や、バカでかくて頑強な個体など、明らかに上位種とも呼べるものが大勢入り混じっていたのだ。
そうなってくると、雑魚と戦うのでも数倍の労力がかかる。
滝のような汗を流しながら、二人で愚痴をぶつけ合う。
アイシャ自身もシルフィーとの仲は決して良くないと自覚していたが、協力をしなければ生き残れそうにない場面が多くあったせいか、戦いの中で自然と二人の距離は縮まっていた。
もう一生分動いたのではないかと思うほど肉体を酷使し、魔力を枯らしたが、それでも口だけは自然と動いてしまっていた。
「クソ……これでは命が幾つあっても足りんぞ……」
「……ははは……たぶん大丈夫ですよ……ナハト様が見てくれていますから……」
ナハトに全幅の信頼を寄せるアイシャに、シルフィーは怪訝そうな顔を向ける。
「お前は、あの化け物を信頼し過ぎだ――あれは、人という枠の中にいない。間違いなく人外の化物だぞ?」
シルフィーは、なぜかアイシャを気遣うようにそう言った。
アイシャはてっきり嫌われているのかと思っていたので、素直に驚きを示す。だが、それでもシルフィーの言葉をアイシャは真っ向から否定する。
「化物ってなんですか?」
尋ねるようにアイシャは言った。
「力があれば化け物ですか? 身体が大きければ化け物ですか? 人じゃなければ化け物ですか? アイシャにはよく分かりません」
アイシャはただ思ったことを言葉にする。
「欲望に狂った人間は化け物だと思いました。権力に溺れた人間を化け物だと思いました。人のことなど歯牙にもかけない竜を化け物だと思いました。誰かの大切を壊す魔族を化け物だと思いました。アイシャが知っている化け物は皆皆怖くて――でも、そんな化け物たちから弱くて情けないアイシャを助けてくれた人がいました。抗う力と戦う勇気をくれた人がいたんです。だから、ナハト様はきっとこの世の誰よりも優しいですよ?」
アイシャは知っている。
ナハトが人としての矜持と理性に基づいて力を扱っていることを。
そしてその強大な力は、誰かを助けてあげられる優しい力であるということを。
否定は誰にもさせやしない。
それは、助けられたアイシャが、そしてシュテルが今も証明しているのだから。
「はっ……そうか……だが、この仕打ちが優しい主様のすることか?」
シルフィーが茶化すようにそう言った。
「ぅうっ……た、たぶん……」
アイシャも急に自信を無くしてそんな曖昧な返事を返してしまう。
それほどまでに、厳しかった。いっそ逃げ出したくなるほどの苦しさがあった。
アイシャは今日一日の出来事を訓練とは呼べそうにない。
アイシャには決して無理をさせようとしないナハトが、容赦なく過酷な訓練を施してきたのだ。初対面で母を侮辱した相手とさえ協力しなければならないほど、切羽詰まった死線を幾度となく踏みこえた。
アイシャだって、別に母親と仲が良かった訳ではない。
むしろ仲なんていいはずもなく、今ではその顔だってよく憶えていないのだ。
だが、それでも、初対面であれほどの侮辱をされた相手と仲良くしたいとは思えなかった。そのはずなのに、今は自然と会話が進む。
そんなシルフィーの顔をアイシャは見た。
汗にまみれ、土を被って汚れようと、白銀の髪は色あせることなく輝きを放っていた。本来は穏やかそうな双眸に烈火のような火が宿る。
女性らしい美しく嫋やかな体には、膨大な魔力と精霊の加護が宿り、幻想的な光を放っていた。
こうして見ると、素直に、綺麗な人だな、とアイシャは思う。
「なんだ、そんなにじろじろ見て?」
「いえ……その……なんでもないです……」
思えば、戦闘中は必至だったからこそ自然と会話ができていたが、こう改まるとどういう風に話したらいいのかが分からない。
アイシャは結構な人見知りである。コミュニケーション力は皆無と言っていい。
村にいた頃の会話では目を逸らされたり、嫌な顔をされたり、『アイシャちゃんはちょっと黙ってて』なんて言われたりと、少なくないトラウマもあるので自分から積極的に話しかけたりするのは苦手だった。
年長者であろうし敬語を使うべきなのか。
それとも、気安く話すべきなのか。
アイシャはしどろもどろになって言葉を失う。
「なんだ、おかしな奴だな――お前、ほんとにフローリアの子か? あいつは遠慮がないというか、うざいくらい気安かったが……」
「え――そ、そうなのですか……私は、お母さんのことをよく憶えてないんです……物心つく頃には、アイシャの前からいなくなってましたから……」
「あの女――子供作った挙句に放置とか、何を考えている……」
なぜか、またもアイシャを気遣うようにシルフィーは言う。
「シルフィーさんは、お母さんのことを知ってるんですよね? どんな人でしたか?」
ふと興味がわいて尋ねてっしまった。
「図々しくて、恍けていて、それに人一倍おせっかいな奴だ――ああ、だがお前が抱く主への思いのように譲らない部分は何があっても譲らない頑固者だった――私は今年で百二十五になるが、あいつはどうせ未だに私を子供扱いするのだろうな――正直言って、苦手なタイプの人間だ」
どこか忌々しそうにシルフィーは言った。
「シルフィーさんはお母さんが嫌い、だったのですか……」
アイシャはシルフィーの物言いから、そして初対面の時の言動を思い出して、そう結論付けようとした。
だが、シルフィーは首を振る。
「苦手ではあった――だが嫌ってはいなかったさ。その、なんというか……あ、あの日のことはすまないと思っている。今となっては、我を忘れていたと思っているんだ、思い出すだけでも恥ずかしい――」
そっぽを向いて頬を掻きながらシルフィーはアイシャに謝罪を向ける。
「ただ――羨ましかったんだ」
喉の奥でくすぶる黒い感情を、悲しそうにシルフィーは吐露した。
「羨ましい?」
「ああ――あの日、あいつと共に戦った私の婚約者のユリスが死んで――死んだと思っていたフローリアが生きていて――挙句の果てに、子供までつくっていた……それが、私はどうしようもなく、羨ましかった……」
呟きに、悲哀だけが満ちていた。
アイシャに向けられているはずの言葉が、どこか遠くで響いているような気がする。
「戦いに赴く前までは、結婚したら子供は三人欲しいとか……戦いばかりで料理ができない私も頑張って手料理を覚えるとか……そんな話ばかりしていた…………私たちは、そんな未来を生きれると思っていたさ……」
言葉が、冷え込む。
シルフィーの瞳の中で、仄暗い憎悪の火が燃えていた。
「私は――! 私は何もできなかったさ! 仮面の悪魔のたった一撃で瀕死! 意識を失う直前にはユリスの手さえ掴めなかった! 私を連れていこうとするウルスにさえ抵抗できなかった! あの人がどんな風に戦って、どうやって殺されたか、それさえも分からない! 目を開けば、そこには何もなかった!! 私は無駄に命を拾った! 拾うべきじゃない命を、だ!! 今もそうだ……無力なこの身が情けなくて、情けなくって! ……もう、どうしていいか分からないよ、ユリス……」
項垂れるシルフィーに、アイシャは言葉を失うだけだった。
「あの人を思うと……お腹の奥がきゅっとなるの……だから、フローリアが羨ましかった――」
「シルフィーさん……」
「……ごめんなさいね。あの化け物には一ミリも悪いと思ってないけど、貴方にあたったのは間違いだったと思っているわ」
「そこは、ナハト様にも謝ってくださいよ……」
思わずアイシャが突っ込みを入れる。
「いやよ、あんなのが森で魔力解き放ったらフローリアでも問答無用で排除すると思うわよ?」
「ぅぅ……言い返せないです……」
「だから、私は悪くないわ――あの化け物が悪いのよ」
シルフィーはどこか子供っぽく、意地を通すようにそう言った。
「それに、私たちは現在進行形であなたの主に殺されかけているのよ?」
訓練という名の地獄でもって、死ぬ寸前までは追い込まれる。
事実、おせっかいなナハトはアイシャに致命的な一撃が及びそうになった場合だけ、回復させればいいという判断ではなく、神速の一撃を持って悪魔を粉砕していたのだ。
死ぬことはないから致命傷くらいはいいよね――そんな訓練は最早訓練でないだろう。
今日だけで回復薬が三十ほど空いていたのはアイシャも知っている。その内の一本を消費したシルフィーとしては文句の一つも言ってやりたいのだろう。
「川の向こうで手を振っているユリスが見えた気がしたわ」
冗談とも、本気とも取れない声色でシルフィーが言った。
「でも……相手が相手ですから…………」
「分かっているさ、奴らは恐ろしく強い――」
「そういえば、シルフィーさんは魔族の陣地で戦ったのですよね?」
「…………」
アイシャの質問に、シルフィーは押し黙った。
「あ、あの、シルフィーさん?」
「聞くな……そう、何も……聞くな…………」
シルフィーは、苦々しい表情をしながら下を向く。
アイシャはその表情を見て、これ以上聞かないほうがいいのかと思った。
だが――
「大方皆の制止を聞かずに一人で突っ走り、障壁に阻まれ、罠にかかり――戦うことさえできずに一方的に殺されかけ、敵の情けで生き長らえたのだろう――それも、一度ならず二度までも」
藪の中の蛇を嬉々として突っ突く者がいた。
何処からともなく会話に乱入したナハトが、シルフィーの聞かれたくないであろう事実を声にして伝える。
「ナハト様……それは、言っちゃ駄目なのでは……」
聞いた本人が言うのもなんだか、口にせずにはいられない。
「結果としては嘘だったが、つい昨日までの認識では、復讐すべき相手もいない場所に突っ走って自滅したのだ、自分から言いたくはないだろうな――少しは頭を使うといい――――いや、未亡人な銀髪エルフの駄目っ娘、悪くない」
「き、き、き、貴様――っ! 今すぐ叩き斬ってやるっ!!」
勢いよく振るわれるシルフィーの短剣を、にやにやしながらナハトは避ける。
「元気だな、これなら後百体くらいは平気そうだ――」
「くぉの! 私の獲物は貴様だぁぁああああっ!」
「ふむ、いい攻撃だが速さが足りない――」
戯れ、と呼ぶにはあまりにも物騒なやりとりに、
「――はぁ」
アイシャは呆れるようなため息をこぼした。




