レベリング
それは死神の鎌に首を差し出しているかのような、死の気配だった。
眉目秀麗を集めたようなエルフたちでさえ決して及ばぬであろう美貌の少女がクスリと笑った次の瞬間。濃密な死が世界を覆いつくしていた。
それは決して錯覚などではない。
可視化できるであろう黒い魔力が風となって吹き荒び、圧力に屈した大地が恐怖するように震えている。木々は揺れ、木の葉が地に吸い込まれるように落下していた。
彼らには戦いに望む覚悟があった――だが、それでも足りない。
理解の外側にいる本物の強者に出会ったときに、そんな薄い覚悟では何もできない。
動くことも、息を吸うことも、気絶することも、何一つとして目の前の何かが許してはくれない。それはさながら真っ暗闇に放り込まれた子供のような有様だ。
虚弱と沈黙に襲われるエルフたちは命を差し出すかのように首を折っていた。
そんな小さな命を刈り取ろうと近づく刃は、ナハトが目を瞑るだけであっさりと霧散する。
「死ぬのは怖いぞ――言葉で語るよりもずっとだ」
死ぬことを恐れない生物はいないのだから。今、眼の前で見えたであろう明確な死。それは彼らの人生の中で何よりも濃い一瞬であったことだろう。
威圧が無くなった瞬間には、倒れこんだり、涙を浮かべていたり、粗相をしてしまったり、走馬燈から帰ってこれていない者までいた。
そんなエルフたちが異常者を見るような目でナハトを見上げる。
無理もない。
彼らは今、文字通り死にかけたのだ。もっと言えばナハトの手で殺されかけたのだ。
「…………ば、化け物……」
沈黙から立ち直った誰かがそうこぼした。
彼らから見れば、ナハトの力は間違いなく化け物そのものだった。
「そうだ! だが、忘れるな――! 二十年前、今の貴様たちと同じような恐怖を味わいながらも命を懸けて戦い抜いた者がいることを」
ゆっくりとエルフたちの視線がシュテルに向かう。
当の本人は、エルフたちのことなど気にも留めず、ママすっご~い、などとはしゃいでいるのだけれど。
「抗うというなら、戦うというなら、死の恐怖を跳ね返してみろ。立ち上がって見せろ。シュテルが守ったお前たちが、今度は戦う番なのだぞ」
ナハトの言葉に返事はなかった。
誰もがナハトを恐れるような目で見つめている。龍の波動に晒されれば、彼らがナハトに恐怖を抱くと知っていて、それでもナハトは一番初めに現実を突き付けた。
飾ることなく、偽ることなく、この脅威に立ち向かう必要があると伝えた。
命を懸けることは難しく、誰かがそれを強要するのはどんな理由があれど間違いだ。選ぶ権利は常に当人にあるべきだろう。
だから、そこから逃げることは恥ではない。それもまた勇気ある決断、というやつなのだから。
沈黙が重なるそんな様子に我慢ができなくなったのは、ナハト、ではなく――
「ちょ、ちょっと――みなさん、ナハト様は優しい方で――その、あの、なんというか、その……」
――アイシャだった。
何か、気の利いた言葉を探して失敗しているアイシャは何時にも増して愛おしかった。
「いいんだ、アイシャ――というより、予想外だな。アイシャは全然平気そうではないか。あまり加減はしていないつもりだったのだが」
そんなナハトの言葉に平然と佇むアイシャが答える。
「――だって、敵意は微塵も感じませんでしたし……それにもう、何度目か分からないので、慣れちゃいましたよ…………」
どこか遠い目をして、不貞腐れながらアイシャは言った。
慣れで技能を打ち破るアイシャはナハトの予想を大きく超えていた。
「――ふむ。流石は私のアイシャだな」
ナハトは、そんなアイシャの言葉に歓喜を隠しきれていなかった。
口角が吊り上がり、笑みが浮かんでしまうのだ。
「って、そうじゃなくてですね! ――ナハト様はその、無茶苦茶ですけど無意味なことで皆さんを脅すような真似はしません――だから、その……怖がる必要はないんですよ……?」
ナハトが何をしたいのか、理解できているわけではなさそうだ。
なのにアイシャは微塵も疑うことなくナハトを信じて言葉を探す。
それはもう、必死になって探しているのだ。ナハトが生んだ影をを照らすように。
これを――こんなことをされて、どうして歓喜が抑えられようか。
「まあ、そう無理を言ってやるな。それに、私はアイシャがそう言ってくれるだけでこれ以上ないほどに幸せだ――」
ダメだ。
頬が緩んで仕方がない。
疑問や疑念を抱くことさえなく、ナハトを当然のように受け入れてくれる少女がいる。
そんなできそうでも、まずできないであろうことを平然とやってのける少女が傍にいてくれるのだ。胸に熱いものが込み上げ、目尻には涙さえ浮かべてしまいそうだった。
アイシャがいるから。
アイシャが傍にいてくれるから。
突然異世界に投げ込まれ、身の丈に余る意味の分からない強大な力を得てしまってもなお、こうも当然にナハトはナハトでいられる。
この小さな体に――その力ある言葉に、幾度救われたことか。
激情に突き動かされ、体は自然と動いた後だった。ナハトの動きは唐突で、アイシャはまるで反応できていない。
ナハトは少しだけ屈むと――ふぇ、と言葉をこぼすアイシャの頬に近づき、唇を触れさせていた。
「~~~~~~~~~! なっ! え! な……!」
真っ赤になってしまったアイシャをナハトは優しく撫でる。
「あーーーー! パパとママ、仲良しさんだー!」
なんてシュテルが騒ぎ出して、少しだけ穏やかな空気が漂いはじめる。
そんな雰囲気の中でナハトは改めて口を開く。
「安心すると良い――お前たちは生涯、今感じた以上の恐怖など知る由もないだろう。敵が幾ら強大とはいえ、それでも私を凌駕するものはいないぞ」
ナハトをエルフたち全員を見回す。
「私はお前たちの味方だ。共に戦う仲間だ。この言葉に偽りはない――」
恐怖で硬直した体を解きほぐすように、ナハトは柔らかくそう括った。
恐怖も、疑念も、吹き飛ばして戦う者以外はナハトの示す険しい道を歩けないだろう。なにせ、彼らはレベル差十を容易に超えてくる化け物達に勝利しなければならないのだから。
「…………それで、いったい何時までこの茶番は続くのだ?」
そう、声を発したのはシルフィーだった。
毅然としていて、いたって平静を保ってはいるが、先ほどまでは膝が笑って立ち上がれないでいたのをナハトはきちんと把握している。無論、それを口にするほど野暮でもないし、ナハトの技能を浴びて、いち早く復帰した彼女は流石としか言えないだろう。
虚弱と沈黙は受けたものの、戦意を失っていないといことは――その意思のみで、ナハトの龍の波動に抵抗を示したということなのだから。
「まあ、そう急くな――物事には順序がある。焦っても、事態は好転しないさ」
「こっちは貴様のお遊びに付き合う暇はない――」
「と、言いつつもこの場にいて、私の指示に従う――なんだ、お前、ツンデレなのか?」
未亡人な銀髪エルフのツンデレ、悪くない。
「今、良く分からないが物凄く侮辱された気がするぞ……それに、私は貴様と刃を交わしたのだ。その化け物染みた力だけは認めてやる――ユリスの仇を討つためならば、私は神でも竜でも利用してやるぞ」
そう言って、シルフィーは獰猛に笑う。
少しだけ、彼女の評価をナハトは上げた。死にたがりの子供に見えた彼女も、戦う覚悟だけは本物だった。
そんな彼女に応えるようにナハトは口を開いた。
「では、本番だ――出てこい、大罪悪魔召喚」
ナハトの呼び声に応え、地の底から湧き出る闇から、肉惑的な女性が顕現する。肢体に蛇を絡ませるレヴィの表情は、何故か酷く不機嫌そうだった。
「…………あー、なんというか、僕ってけっこうすげぇー大悪魔のつもりなんだぜ……そんな、ちょっと買い物行ってきて~、みたいに呼んでいい存在じゃないんだけどな――もうちょっと、こう、呼び方とかタイミングってやつを考えるつもりはないのかい、主様?」
不貞腐れて、拗ねだすレヴィは間違いなく天災級の怪物だが、ナハトにとっては便利なパシリに過ぎない。それに、好きな時に使用できない技能など欠陥品もいい所だろう。
本人は戦いの場に呼べと言っているようだが、レヴィを使う事態が度々起こればそれこそ世界の危機に違いない。
「ふむ、私に使われるだけで幸せに思え――最も、今回はお前自身には用がないのだが」
「なら呼ばないで欲しいな――! ったく、悪魔使いの荒いご主人様だぜ――で、僕に用がないならなんで召喚なんてするのかねー。僕はこれでも忙しいんだぜ?」
「悪魔なんてのは、皆が皆ニートか何かじゃないのか?」
少なくとも、彼らが普段何をしているのかナハトには想像できない。
「あ、主様はほら、悪魔に詳しくないだろうからね。し、知らなくとも無理はないぜ。っと、そんなことより、僕は何をすればいいんだい? ここにいる面々と戦え、とかなら嬉しいんだけど?」
露骨に話題を逸らしだすレヴィ。
契約悪魔たる彼女の仕事は、ナハトの命をこなすことではないのか、と疑問を抱かずにはいられない。
「バカを言うな。お前が戦えば一秒足りとも持つはずがないだろう」
ナハトは呆れ混じりに言った。
「お前には、レベリングに必要な悪魔を用意してもらう」
この世界のレベリングには大きく分けて二つの手段が存在するのだろう。
一つ目は、剣術や体術などを繰り返し、技能を身につけたり、身体を鍛え上げる方法。
そして、もう一つが、生物を殺して、その経験値を自らの力に変える方法だ。
有体に言えば、訓練と実戦と言えるだろう。より重点を置くべきは死と隣り合わせの実戦に決まっている、というのがナハトの考えだ。
彼らには、それを嫌というほど味わって貰おう。
「……ナハト様、顔が不気味ですよ…………」
呆れながら言うアイシャの顔を、レヴィが楽し気に覗き込む。
「おお、アイシャちゃんじゃないか。久しぶり、相変わらず可愛いねー。それにすごくおいしそ――って、ちょ、主様、冗談! 冗談だから龍撃魔法はダメ、洒落に、洒落になってない!!」
「ふざけてないで、さっさと呼べ――最下級悪魔でいいぞ。数はそうだな、手始めに千といったところか」
「ったく、嫉妬を冠するこの僕より嫉妬深いなんて、始末に負えねーぜ」
「いいからやれ」
「へいへーい――技能、悪魔の狂宴――最下級悪魔召喚」
気の抜けた声をレヴィが上げたと思うと、昼が夜に変わった。そう、錯覚してしまうほどの影が視界を覆っていた。
「「へ――?」」
気の抜けた声が重なる。
アイシャは慣れた様子で――ああ、またですか――などとこぼしていた。
空を埋めるは、異形の軍勢。
巨大な門より現れたのは、小さな角と翼、それに赤い体を持つ下級悪魔たちだった。
「アイシャとシルフィーでまあ三分の二は引き受けられるだろう」
「「へ――?」」
重なる二人の声をナハトは無視する。
「そして残りはウルスとエルフたちで狩るといい」
「「「は――?」」」
下級悪魔のレベルは低いもので十台、高いものでも三十を超えない。
十分に適正レベルであるし、レヴィには決して殺すなと悪魔たちに言明させてある。ちょっとだけ数が多いかもしれないが、まあ誤差の範囲だろう。
ナハトやレヴィが見守る訓練なのだから、死にかけることはあっても、死ぬことだけは絶対にない。
そんな理想としか言えない経験値稼ぎができるのだ。
もっと、こう、喜ぶべきだろう。
感謝を向けるべきだろう。
にも関わらず、何故かエルフたちは恨めしそうな目でナハトを見てくるのだ。
「何を呆けているのだ――修行パートは始まったばかりだぞ?」
悪魔の声が天を震わす。
それが、地獄の訓練の始まりを告げているように思えた。




