絶望の先へ
「無理ですよ…………そう、無理……ああ、無理……無理無理無理無理…………あれは……無理…………」
天幕に暗い声が弱々しく響く。
向かい合う三人の魔族のうち、蝙蝠の翼を携えた夢魔が床に突っ伏して呻き声を上げ続ていた。
「うぉおおおおおおお゛い! おいおいおいおい、参謀さんよ! あんたなぁ、これから戦おうってのに第一声がそれかよ! 相変わらず情けねーな」
激昂するジンがそれを非難するが、
「…………はぁ――」
返ってきたのは、人を小ばかにするようなため息だった。
「てめー、喧嘩売ってんのか! 買うぞ、ごら」
「……無理なもんは無理……あんた一番近くであの化物と向き合って、それが感想? これだから魔族は救えないのよ……はぁーーぁ…………」
「てめーも魔族だろうが!」
「……ぁぁ……もう、これだから脳筋は……危険をまるで理解しない馬鹿ばっか……ぁぁ、私たちはもう終わりよ……きっと、負けた後はあんなことやこんなことをされるんだわ、私、サキュバスだし……恰好の獲物よね…………」
「いい加減そのネガティブ思考止めやがれ! みてっとイライラすんだよ!」
第三独立小隊魔族軍参謀、フィルネリア・クロリスは有能な魔法使いであり、陣地などの戦術的砦さえも一晩で仕上げる凄腕の持ち主だ。それだけでなく、鬱陶しくなるほどの卑屈な性格からくる用心深さを持つが故に、防衛戦では無類の強さを発揮する傑物なのだが、その弱々しい姿からはどうにも納得がいかないというのが魔族たちの本音である。
「戦いなんてもんは、やってみねーとわかんねーよな、大将!」
ジンの言葉に、無言を貫いていたガイルザークが目を見開いた。
「戦場は水物――勝利を決定付けるのは事前の備えとも言えるが、決してそれだけでは決まらぬ。最もそれは同じ土俵に立てる者同士の場合じゃろうて」
「――――つまり、どういうことだよ?」
「ほんと馬鹿、救えない馬鹿――かけ離れてんのよ、実力が…………どうしようもないくらいにね……ああ、なによあの魔力……うまく隠してるつもり? ふざけんなし……あんだけ馬鹿でかけりゃ多少うまく隠したって分かるっての……世界樹の異変が治った時から嫌な予感はしてたのよね……」
「あんなクソガキ共がつえーって言うのかよ!」
「あんた、その台詞――エリン様の前で言えるの?」
「うぐっ」
流石のジンも、魔王の直系相手にそんなことを言えば命はない。
「まあ、手に負えないのはあんたが一瞬で負けた化物だけよ……」
二人から敗色濃厚だと告げられるジンは苛立ちを隠せないでいた。
だが、ガイルザークはそれでも揺らがぬ瞳のまま、言葉を紡ぐ。
「して、フィルネリア殿の見立てでは、あの使者の実力、どれ程と思う?」
「んなの分かんないですよ……ただ……あれと正面から戦うなら、魔王様でも呼んで来ないと無理ですよ……なんで大見得きって戦なんて承認したんですか……? 交渉のテーブル用意して、二週間か三週間か時間稼げればこの地はもう用済みでしょうに……」
「あん、どういうことだ!?」
「馬鹿はちょっと黙ってなよ…………」
てめー、と荒ぶるジンをフィルネリアは無視する。
「なに――どちらにせよ我らに選択肢などない――既定の日時まで門を守護する――そのために戦が必要とあらば、戦うより他ない」
「これだから脳筋どもは…………」
「がははははは、故に貴殿の策には期待しておる――何か良案はあるかのう?」
豪快に笑うガイルザークにフィルネリアは乾いた笑みを返した。
「あのですね……軍略ってのは同類相手に使うもんであって、たった一人で戦争できるような奴相手に都合のいい策なんてまずないですよ……それでも下策を上げるなら、あれを戦場に近づけないことですかね……奇襲、伏兵なんてどうせ一蹴されるでしょうし……暗殺とか狙ってみたり……それか、あの大事そうにしてた子供誘拐するとか……ああ、どれも逆鱗に触れそう……きっと、そんなことしたら陵辱の限りを尽くされて殺されるんだわ……私、サキュバスだし…………」
どれもまともな策とは言えない。
だが、それで彼女を責めるのは間違いだ。ガイルザークは愉快そうに笑う。
「ならば、あれを除いた状況を想定しておくがいい」
「なんですか? 将軍が一騎打ちとかする気ですか……それこそおすすめしませんよ?」
ため息混じりにフィルネリアは言う。
「そのような愚かな真似はせん――ただ、これは勘なのだが、あ奴はこの戦に大きく関与せんと踏んでおる」
「あの化物が言ってた手加減ってやつですか? そんなものを期待すると?」
「がははははは、戦士の勘は戦場において女の勘並にあたるのだぞ?」
「ぁぁ……楽観主義者の脳筋だらけ……ほんと、もう……夜逃げしたい……」
死んだ魚のような目でフィルネリアは言葉を続けた。
「……一応、最悪の場合には備えておきますよ……うまくいくかは知りませんけどね……はぁ……」
◇
宣戦布告より一夜が明け、太陽が完全に顔を出したそんな朝、ナハトは総勢三十人を超えるエルフを前に立っていた。
先頭にはアイシャ、その後ろに真面目そうに佇むウルスやしぶしぶといった具合に並んで不機嫌を隠そうともしないシルフィーがいた。
美男美女溢れるエルフ達をほんの数秒楽しそうに眺めた後、ナハトは真剣な顔で口を開いた。
「――お前たちに足りないもの、それは――技能、能力、装備、闘志、負けん気、その他もろもろ、数えきれないほどあるが――何よりもまず、レベルが足りない」
ぽかんとするエルフたちの内心を代弁するように、アイシャが問う。
「その、ナハト様、レベルって何ですか?」
「うむ――まあ有体に言えば、強さを分かりやすく数値化したものだな。仮に私のレベルを百五十とするならば、隣にいるシュテルが六十、むらっけはあるが通常時のアイシャが三十五前後、同じくむらのあるシルフィーも三十五前後、ウルスが二十五前後、その他エルフの戦士たちが二十前後といった所か」
ナハトの金色の円環が見定めるように全員を見る。
当然、あくまでそれは指標に過ぎず、職業の相性や技能の性能、装備の質、各々が積んできた修練、また経験によって、結果は違ってくるはずだ。
例えば、今のアイシャとかつて見たデュランが正面から正々堂々戦えば、アイシャは惨敗するのだろう。近接職として優れるデュランと遠距離職で一撃の重さが上回るアイシャでは戦いになるとは思えない。
だが、世界が変わったとしても大まかな強さの目安としては間違ってはいないはずだ。
「レベル差は絶対だ、と今では言い切れないが、それでも十離れれば勝つことは難しくなり、二十離れればそれはもう絶望的な戦いになることだろう」
真剣に話を聞く者もおれば、ナハトの戦力評価を疑う者もいる。ナハトはそんな彼らの視線を気にもせず言葉を続ける。
「で、まあ魔族を偵察してきた感想なのだが――」
「って、ナハト様! あれは遊びに行ったんじゃなかったのですか!?」
心底驚愕したと言わんがばかりにアイシャが大声を上げた。
大人しいアイシャが話に割り込んでくるあたり、彼女の驚愕の大きさが伺えることだろう。
「酷いなアイシャ――この私がただ単に面白そうという理由だけで敵地に行くと思うのか――」
「思います」
即答だった。
即決だった。
速いなんてものじゃない。
迷いなど微塵もないと言わんがばかりにアイシャは断言していた。
「うぐっ……今のは、流石に少し、傷つくな……」
落ち込むナハトは大きく咳払いをした後、気を取り直して続けた。
「で、敵地を見てきた感想だが、一般兵のレベルはおおよそ三十から四十、副官と言っていた妖鬼が少なくとも五十、隣にいた夢魔も同程度、さらには敵の指揮官である大妖鬼は七十を超えそうな実力者だ、あ奴なら一軍程度は片手間に捻り潰せるだろう」
静かに、絶望が満ちていく。
自軍の士気をへし折るかのようにナハトは追い打ちをかける。
「さらにこちらの兵力はここにいる三十数人、対して相手は百人以上、兵力差は三倍とも四倍とも言える」
淡々と、ナハトは事実だけを口にする。
「しかもこちらは砦攻めだ。相手には優れた拠点があり、我々はそこを攻めなければならない――まあ、普通に、常識的に、一般的に考れば――誰がどう見ても勝ち目などないだろう」
ナハトが口を閉じると、音は何もしなかった。
緊張か、あるいは二十年前の恐怖なのか。静かに、静かに、足元から這い上がる負の感情がひんやりとした冷たさを運んでいた。
そんな痛々しい静寂さえもナハトは愉快そうに咀嚼して、ただ楽し気な声で言葉を紡ぐ。
「だからこそ、言おう――それが、どうした?」
絶望を鼻で笑うが如く。
ただ毅然として、前だけを向くナハトが言葉を紡いでいく。
「常識など通用するはずがないだろう。ここには理不尽の権化たるこの私がいる――貴様たちに味方するこの私がいるのだ。何を恐れる必要がある? 何を項垂れる必要がある? 何を諦める必要がある?
――いいか、よく聞け勇敢なるエルフ諸君。
愛する里を乱され、族長を呪われ、守護者失い、世界樹を枯らされ、使命を捨てざる得なくなったお前たちは、もう十分泣いたのだろう?
大切なものを奪われ、大切な人を奪われ、復讐に燃え、怨嗟を募らせ、それでも下を向くことを強要されたお前たちは泣いて、泣いて、泣き喚いて――それでもなお戦うことを選んだのだろう?」
ナハトの言葉だけが場を埋める。
こうやって仲間を鼓舞する感覚は随分と懐かしい。かつてはただの口先だけで、守られる側だったナハトが今はこうして守る側に立っていた。
ナハトはあの日、会議室で言っていた。
貴様たちは何もせずともよい。ただ座しているだけでも、全ての異常はこのナハトが消し飛ばしてみせると。仮に今日この日、誰一人としてこの場に集まらなかったとしても、ナハトはアイシャと共に魔族と戦ったことだろう。
だが、彼らはここにいた。
足を運んでいた。
抗うために。
戦うために。
だからこそナハトは口を開く。
「ならばこの場に居合わせたこの私が、シュテルの母として、アイシャの主として、お前たちに勝利への道をくれてやろう。これは、あの日の絶望に抗うことを選び、この場に足を運んだ貴様たちの勇気へ向けた――ナハトちゃんからのご褒美である」
下を向いていた者たちと目が次々にあった。
誰もがその目に闘志を宿している。それは、戦いに望もうとする戦士の瞳だ。
「あ、あの――ナハト様は戦うのですか?」
「無論私も戦うが――直接戦に手出しはしない――これは私ではなくお前たちの戦いだ。弱くて、惨めで、下を向いて泣くことしかできなかったお前たちが、あの日、あの時、あの場所で、失った誇りを取り戻すための戦いだからだ――私とアイシャはその手伝いに過ぎないさ」
そんなナハトの言葉にアイシャは驚くかと思いきや、どちらかと言えば納得したような顔をしていた。
ナハトがどのような選択をするのか、予期していたようである。
「なんとなく、そんな気がしてました――でも、アイシャはちょっとだけナハト様の言葉と違っていて、それでもやっぱり役目は一緒なんだと思います」
ナハトにはアイシャの言葉を聞くまでもなく、彼女が何を言いたいのかを理解した。
彼女にも、魔族との間に因縁はある。
それにエルフたちの手伝い、というのは同じでもナハト達にはもう一つ戦う目的があるのだから。
「ふむ、それは勿論――」
「「――シュテルを敵から守ることです(か)」」
アイシャとナハトは不敵な笑みを浮かべ合った。
「はっ! それで、本当に勝てるのか?」
盛り上がった士気を崩すように、シルフィーの刺々しい言葉が響く。
「なんだ、お前たちだけでは自信がないか?」
「っの――私一人で十分だ――!」
「威勢は買おう。だが、私とて無謀な戦をしようなどとは考えていない――昨日の段階で向こうの陣営は既に丸裸だ。戦力、兵種、種族、陣地、罠、魔法陣、ありとあらゆる敵陣の構えは既に暴いてあるし、対応策も考え終わっている」
何も、楽しそうだからと遊びに行ったわけではない。
ナハトの龍眼に備わる看破は敵地を一瞬にして暴いていた。砦攻めには三倍以上の兵力が必要だと言われる所以は、敵地が防衛の準備を万全にしていて、自軍が不利な状況で戦わなければならないからだ。そんな不利は、ナハトの準備によって十分に覆せる差でしかない。
そのための一週間という時間なのだ。
決して、楽しそうだからと遊びに行ったわけではない。
「それで、具体的に我々は何をすればよいのでしょう?」
ウルスが真面目にそんなことを言う。
「それは勿論――レベリングに決まっている――だがその前にまず――」
ナハトは脅すように言葉を紡ぐ。
「――お前たちには最初の試練を受けてもらおう」
言葉を発したその直後――森の一角に、龍の波動が吹き荒れた。




