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シュテルとアイシャ

「パパー、はやく、はやくー!」

 元気に走るシュテルがアイシャの腕を掴んで駆け出そうとする。

 白いワンピースがひらひらと風に揺れ、丁寧に梳かれたストレートの金髪が太陽の日を浴びて、黄金に輝いていた。そんな髪にちょこんと青い花飾りを乗せ、シュテルは楽しそうに笑っていた。


「走るとあぶないですよ――」


 主にアイシャが、という言葉を必死に飲み込む。

 シュテルはアイシャよりも運動神経が抜群によかった。鬼ごっこに付き合えば、一度も捕まえることはできないくらいに運動能力に差があったのだ。仮に全力でシュテルが駆け出せば、怪我をするのは間違いなくアイシャだった。

 親としてのプライドが傷ついたのはアイシャだけの秘密である。


「ほら、手を繋いであげますから、ゆっくりいきましょう」

 そわそわとするシュテルの手を今度はアイシャから掴んだ。

 ちょっとしたおめかしをしたのはアイシャも同じだった。編み込みをされ髪を整えたのち、薔薇の香りがする香水をつけられ、おまけに爪にまでネイルをしてもらった。アイシャは女の子なのにそういった方面には弱く、こうして整えられてもなんだか落ち着かない感じがした。


 シュテルに手を引かれ連れてこられた場所は、アイシャにとっても強く印象の残る場所だった。

 世界樹の麓。

 そこはつい昨日まで、グズグズに融解した地面が広がる死の大地だった場所だ。

 

「ここはね、シュテルのおもいでのばしょ――でね、でね、こっちがシュテルのお家なの!」


 シュテルが駆け込んだ先に、古ぼけた一軒の小さな小屋があった。取り留めて特徴がないただの木の小屋だった。

 埃を被ったそんな家は酷く傷ついているように思えた。

 無理もない。

 シュテルが呪いに囚われてから、二十年――誰も近づくことのできなかった場所なのだ。

 奇妙な寂寥感が少しだけ心を擽った。


「せーれーさーーん」


 シュテルがそう呼びかけると、辺りの精霊が色を放った。

 ポツリと水滴が出現し、やがてそれは渦になって、汚れを巻き込み消えていく。穏やかな風が吹き抜けると埃を消し去り、笑い声が取り残された。火が湿気を払い、邪気を燃やす。ちぐはぐだった地面は、自然と整えられて平地に戻った。


「さ、パパー、どうぞ」


 シュテルはそう言って、アイシャを見上げ微笑んだ。


「シュテルは凄いですね――」

 それは、アイシャの心からの本音だった。

 0歳にして、運動神経のみならず精霊使いとしての腕もアイシャの遥か上をいくシュテルを見ていると親としての威厳を失いそうになる。

 だが、シュテルはそんなアイシャを気にした風もなく、素直な面持ちで言う。


「えへへ――でも、パパのがもっとすごいよー!」


 何の臆面もなく。ただ淡々と事実を語るようにシュテルは言う。


「そう、ですか?」

 疑問を抱くアイシャに、シュテルは続ける。


「あい! パパのたましい、とってもきれー」

 真っ直ぐな幼女の瞳に、アイシャのほうが気恥ずかしくなって顔を背ける。

 そんなアイシャの手を再びシュテルが引いた。


「こっちこっち!」

 そう言って、案内された小さなテラスから、アイシャは世界樹を見上げた。


「ふあああああああああぁ――――」


 思わず、感嘆の声がこぼれた。

 たった一夜では、以前のように元通りとはいかないが、そこには確かに壮大な自然が存在していた。

 世界樹の長大な根を支える力強い大地に、倒れた木の切り株から小さな芽が顔を覗かせていた。緑だけでなく不可思議な色の葉を広げる様々な草木は、まだ小さな苗のままだ。それでも、このテラスから森と空を一望すれば、筆舌に尽くし難い感動があった。

 吹き抜ける爽やかな風が小さな声を響かせる。それは全てが死んでいたはずの場所が、精霊が住まうほどに再生した証だった。

 

「ナハト様は、凄いですね――」

 

 口から、無意識に主への賞賛がこぼれていた。

 凄すぎて、本当にもう凄すぎて――アイシャの小さな物差しではその全貌を欠片も推し量ることのできない主にただただ畏敬の念を強めるのだ。

 だが、そうしていると偶に浮かんでくる不安があった。

 

 どうして、ナハト様は――こんな私を選んでくれたのだろう?


 時折思いそうになるそんな疑問を隠すようにアイシャは景色に視線を移ろわせた。


「ママがね、みんなみんなたすけてくれたの!」


「そう、ですね…………」

 

 そうだ。

 結局アイシャは、また、何もできなかった。主の慈悲に縋るだけで、自分では何もなしていないのだ。

 これでは、ナハトと出会う前から何も変わっていない。そう思うと、惨めになって、つい言葉が弱々しくなってしまった。 

 歯切れ悪く答えたアイシャにシュテルは満面の笑みを浮かべる。


「でもパパもちゃんとシュテルをたすけてくれたんだよ?」

 それは、決してアイシャの心を見透かしたわけではないのだろう。

 シュテルはただ、笑顔のまま言葉を紡いだ。


「――え?」


「パパのね、あったかーいきもちがママから伝わってね――いっぱい、いっーーぱいあったかくてね、それでね――――もうすこし、いきてみよっかなって、そうおもえたんだよ?」

 小さな手を胸に当てて、紅玉と翠玉の瞳でアイシャを見据えてそう言うのだ。

 それに、アイシャは救われる。

 ほんのりと胸が暖かくなる。

 心の奥の靄は未だに晴れることはなかったが、押し寄せていた重圧が軽くなったような気がした。


「アイシャは情けないですね、シュテルに慰めて貰うなんて――」


「んぅ?」

 当人にはそんな自覚はなさそうではあるのだけれど。

 それでもアイシャは口にする。

 わが子といえど、言い難いであろう言葉をアイシャは容易く口にするのだ。


「――ありがとう、シュテル」

 アイシャはそう言って、小さなシュテルの頭をなでた。


「えへへ――パパなんかへんだよ」


「そんなことないですよ、シュテルが私たちの子で本当によかったって、アイシャは思います」

 

「シュテルもね、パパがパパでよかったよ?」

 

 はにかむ小さな我が子の手をアイシャは握る。

 

 アイシャはちゃんと、シュテルをお助けできましたか?


 そんな野暮な質問を心の中で飲み込みながら。










 

 世界樹を眺めながら、ティーカップを傾ける。

 シュテルが用意してくれたそれらの道具はエルフの技術を用いた老朽化しないお茶セットらしい。平和が続いていたエルフの里では、武器よりもこうした小道具に魔法の技術を使うことを好む職人が多いらしい。


 茶葉はナハトから預かった何でも出てくる道具袋から取り出したものである。お茶受けであるクッキーもそこから取り出した。丁寧に卵抜きと記された袋に詰められた色とりどりのクッキーは、一度口に入れると柔らかな甘味が口いっぱいに広がる。


「ほぅ――」


 思わず声が漏れてしまう。

 本当に、芸が細かく至れりつくせりな主様である。


「そういえばシュテル、世界樹はなんとか無事見たいですけど――その、精霊さんは無事なんですか?」

 シュテルははむはむとクッキーを咀嚼しながら、小首を傾げる。


「シュテルは、ぶじだよ? ――あ、そっか――――」


 疑問符を浮かべていたシュテルが、何か納得がいったように頷いた。

 そうして――紅玉の瞳をぱちりと瞑った。


「この通り――私は無事ですよ、パパ」


 声色が変わった。いや、正確には喋り方であろうか。

 抑揚が薄くなり、その分はっきりとした物言いである。

 

「シュテル――なのですか?」


「ええ。シュテルはシュテルですよ、パパ――もととなった私が少し違うだけで、ちゃんとパパの子供です」

 はきはきとした物言いで、淡々と事実を語るシュテル。

 別人にも見えて、そう思えるのだけれど、やはりそれは紛れもなくシュテルだった。


「…………やっぱりアイシャはパパなのですね……」


 そう呼ばれることで実感してしまうアイシャはどうしようもなく泣きたくなってしまった。


「そう呼ばないと、もう一人の私が納得しませんから――それに、私にとっても、パパはパパですから」


「はぁ……いいですよ、もう、パパで…………」

 ため息混じりにそうこぼしたアイシャは、微かに微笑んでいた。

 そんなアイシャを見て、シュテルは閉じていた目を再び開く。


「あい!」


 満足そうに笑うシュテルとともに午後の一時を満喫していたそんな時。声が空から降って来た。


「楽しそうだな、二人とも――」


 アイシャの耳を、そして心を癒してならない、美しい音色が響いてきたのだ。

 

「ナハト様!」「ママ!」


 ほぼ同時に声を上げていた。

 空に漆黒のドレスを着込む美少女がふわりと佇んでいた。影のような翼を広げ、風をたてることもなく優しく降り立ったナハトがアイシャとシュテルを微笑ましそうに見ていた。


「お話は、終わったのですか?」


「ああ、聞きたいことはそれなりに聞いてきた。それに今後の方針も纏めておいたし――何も問題はないさ」

 自信満々なナハトの言い分をアイシャが素直に受け入れることはなかった。

 何せ、ナハトは規格外なのである。アイシャでさえ、最初は神様だと勘違いしたほどだ。

 大きな光が影を生むように、反発も強かっただろうな、と予測している。


「ママもかんげーするー! いっしょにお茶のもー」


「おお、シュテルがいれてくれるのか――」

 

「あい!」


 危なっかしい動作で、カップにお茶を注ぐシュテル。そんな彼女がいれてくれたお茶をナハトはゆっくりと飲み込んだ。

 シュテルは、何かを期待するような瞳でナハトを見上げる。


「うむ、おいしいぞ」 


「えへへ」


 褒めて欲しいと頭を差し出したシュテルをナハトは撫でた。

 そんな光景が微笑ましい反面、少しだけシュテルが羨ましかった。素直に甘えられるシュテルが少しだけ、ほんの少しだけ羨ましい。

 あの手に、あの胸に、アイシャも飛び込んで頭を撫でて欲しかった。


「なんだ、アイシャは甘えん坊だな――ほら、おいで」

 

 そんなアイシャの内面を、ナハトは容易く見抜く。

 いつもそうだ。

 何もかも見通して、アイシャの一番欲しいものをくれる主様だった。

 

「アイシャは、その、べつに…………」

 図星を隠そうと躍起になるアイシャだったが、


「パパもいっしょ!」


 というシュテルの言葉に逃げ場を失う。


「あ、あうあう」

 狼狽するアイシャをシュテルとナハトが引き寄せる。

 そのまま、ナハトの手がアイシャの頭をゆっくりと撫でた。


「みんな、いっしょ――あったかい――」


「――なんか、いいですね、こういうの」


 のんびりとした日常が、これ以上ない幸せだった。こんな時間がずっと続けばいいな、そう思わずにはいられない。

 だが、そんなアイシャの心穏やかな時間はこの時まで。


「ふーむ、確かにこういった日々もいいものだ――だが、アイシャ。私たちには今すべきことが一つ残されているぞ」


「頑張って、この里を救うですよね! でも――それはもうナハト様が達成したんじゃないのですか?」

 現に、こうして平和に過ごせているのがその証拠だ。

 この森もどうにかなるとナハトは言っていた。


「それだけじゃあ半分だ――この里にはまだ脅威が残っているからな」


「――魔族、ですか」

 アイシャが重々しく言う。


「まあ、その通りだな――」

 対照的にナハトの声は気楽だった。


「で、具体的に何をすればいいんですか?」

 

 そう問うと、ナハトはこの上なく楽しげに笑った。

 同時に、アイシャには嫌な予感が押し寄せる。こうして子供のように笑うナハトは大抵良からぬ事を企んでいるのだ。それも、それがどんな無茶であっても本人はただ楽しいとしか思っていないのだからタチが悪い。

 最後に一層にんまりと笑い顔を作り、ナハトはゆったりと口を開いた。


「――宣戦布告だよ、アイシャ」


 そうして、アイシャの予感はまたしても的中するのだった。

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