小さな約束
不気味な静寂が会議室を埋めていた。
ナハトの言葉を聞いても、誰も何も言おうとしない。皆がみな重々しい顔で下を向いてただ黙秘を貫いていた。
彼らの感情はその表情に表れている。口にしたくない、とそう物語っているのだ。
そんな静寂を、グレイスの声が破った。
「ふ~む、ナハトちゃんはエルフの里の悪夢を聞きたい、と。だが、貴殿は旅人。ただの部外者でしかないが故に、我らの中にも里の問題に関わることをよしとしない者もおるじゃろう」
厳かな声で、グレイスが言葉を紡いでいく。
「里の恥ずべき憂慮を自慢げに語り、あまつさえ助けを請う。それも、昨日の今日この里についたばかりの得体の知れない誰かに、なのじゃ。無論、昨夜の一件には感謝している。だが貴殿はこの里に住まうつもりではないのでしょう? それなのに、何故危険極まりない厄介ごとに首を突っ込む理由があるのだろうか?」
ナハトは口調の割に敵意を全く感じないグレイスの視線を見て、納得する。
彼自身はそこまでナハトに懸念はないのだろう。だから、今の言葉はこの場にいる者たちの代弁なのだろう。
納得できる理由を語れ、か。
既にそれは明言しているつもりなのだが、ナハトの大雑把な説明では誰も納得をしてくれないらしい。
「ふむ。では改めて――私の名はナハト・シャテン。魂魄龍の龍人にして、アイシャとシュテルの主である。その私が、関わる理由がない? 随分と、まあ、笑わせる」
ナハトの素顔に、見下すような、嘲るような、笑みが浮かぶ。
龍人、という言葉を咀嚼させる暇も与えず、戸惑うエルフたちにナハトは言う。
「アイシャはこの里の出身であるフローリアの子で、私の最愛の従者だ。その故郷が蹂躙されたのだ、何故関わる理由にならない?」
暴力的な言葉だった。
そんな言葉に、誰もが吞み込まれる。
ナハトは気圧される面々を見据えることさえせぬまま、言葉を続けた。
「シュテルは私の愛する子で、この里の族長としての責務を果たすべく、二十年もの間苦しみ抜いた過去を持つ。他ならぬ貴様らのために――――その苦しみをもたらした元凶を! このっ! 私がっ! ただですますと思うのか!? 随分と、まあ、侮辱してくれるものだな!」
あらん限りの憤怒を押さえ込んでナハトは言う。
無意識的に駆け抜けた威圧が、空気を、部屋を、肌を、叩いた。
だが、それだけだ。
それを向けるべき相手は、目の前のエルフたちではないのだから。
「すまんな、少し自制が足らなかったようだ――」
ふっと、張り詰めていた空気が霧散する。ナハトは己を恥じるようにそう言った。
改めて周囲を見回すとウルスとグレイス、それとシルフィー以外は皆がみな茫然自失な有様だ。
この様では、シルフィーに偉そうなことは言えぬだろう。
「――いやはや、失礼な物言いをしたのはワシのほうじゃて。ナハトちゃんはお気になさらず」
先ほどの圧力を受けてなお、あいも変わらず飄々とちゃん付けをしてくる老人をナハトは楽しそうに見る。
「覚悟が足りぬのはいつも我ら、というわけか。いやはや、恥ずかしい限りじゃのう」
深い後悔の篭る響きがあったのはほんの一瞬。白い髭を撫でながら、飄々とグレイスは続けた。
「我らの覚悟が足りぬが故に、苦しめてしまった仲間がおる。悲劇を二度繰り返さぬために、我らは最善を尽くさねばならぬな」
「はは。そう悲観することはない。死呪を操る存在など、規格外もいい所だろう」
言わばそれは、天災だ。
むしろ、被害が軽微過ぎると疑問を抱くほどである。
死呪を扱えるということは、大国の一つや二つ、片手間で滅ぼせるような存在なのだ。対処しろ、という方が無理難題である。
仮にエルフが閉鎖的でなく、周辺国家に援軍を要請した所で、結果は今と変わらない。そう、ナハトには断言できる。
「だからこそ、そ奴の相手は私がしよう。さあ、話すがいい。二十年前、ここで何があったのか――」
◆
それは、いったい何時からだろうか。
「あー、ぞくちょーさまだぁ! ねーねー、ぞくちょうさまぁ。あたしね、せいれーさまの声がきこえるようになったのー」
「ほほう。それは将来が楽しみだな。お前もよき友に巡り会えることだろう」
ただの童に過ぎなかった自分が、族長などと呼ばれるようになったのは。
「ぞくちょーさま、お散歩? なら、みんなであそぼー!」
「だめだよ、ぞくちょーさまはねー、あー、うんと、かいぎ? とかでいそがしんだよ?」
いったい、何時からだろうか。
そうやって、敬われ、童にさえも気遣われるような立場になったのは。
長いようで短く、短いようでまた長い。
永く、永く、だが短い。
そんな一瞬を繰り返した人生を、その永き道のりを歩んできた、それがオリヴィエ・フィール・シンセシアだった。
「素敵なお誘いをありがとう。でも、今は少しだけ忙しいのだ。また、機会があれば私も仲間に加えて欲しいな」
その幼い見た目故に同年代に見られるのか、オリヴィエは子供に懐かれる。
無邪気な笑みを浮かべる子を撫でて、オリヴィエはそっと別れを告げた。
変わらぬ日々。
安寧の日々。
停滞した日々。
決して富んでいるわけでもなく、かといって貧しいわけでもなく、日々を過ごし、老い、死んでいくそんな場所で、オリヴィエはただ約束を果たす。
大恩ある、初代勇者との約束を。
精霊が空を漂う里の道を歩いていると、不意に見えた影が一つ。
そんな影に、オリヴィエは声を投げかけた。
「やあ、フローリア。いつもいつも、変わらぬ森の見張り、ご苦労様――来る日も来る日も異常なしじゃあ退屈じゃないかい?」
「別にそんなことないですよ。つい先日――ってあれ? 一年くらい前だっけ、薔薇熊が出て騒ぎになったじゃないですか。というか、退屈って、あんたが言っていいもんなんですかねー、幼女ちゃん」
酷く幼げな丸い双眸が微かに揺れた。精霊がゆったりと風を運び、そんな風にすらりとした手足を、舞う髪を、全身を覆う衣を、優雅に預けてオリヴィエは佇む。
「ふふ、私が幼女、ね。まあそう呼ばれるのも悪くはないが、皆の前ではよしてくれよ?」
ただでさえ無い威厳がさらに失われるじゃないか、と冗談めかしてオリヴィエが言う。
「弁えてるさ、族長様。あだ名は親愛の証だよ? それに幼女ちゃんには威厳なんていらないでしょ、何だかんだで慕われてるしね」
「ふふふふ、君は優しい子だね、フローリア。今代の守護者は優秀すぎて、すっかり私は暇人になってしまったようだ」
「はは、平和でいいじゃないですかい。私の使命は世界樹の森を守ること。何時まで続くか分からない族長様の使命に比べれば、随分と気楽なものですねー」
「なに、私だって別にそれだけのために生きているわけではないさ。若者の成長を影で見守る、これ以上に楽しい老後はないんだよ?」
「いったい、何時から老後なのかは気になるとこですねー」
「ふふ、乙女が二人。それだけだよ、フローリア」
「確かに、そうですね。乙女が二人、か。私も熱ーい恋のしたいお年頃ですねー」
「そっち方面でいえば、長寿種とは難儀なものだよ。フローリアもいつか身を焦がすほどの愛情を向ける相手と巡りあえればいいねー」
長寿種であるエルフは短くとも八百年、長ければ千年を生きる種族である。
したがって、その繁殖能力は極めて低い。種を残す作用が弱いのだ。
だが、だからこそ。
エルフの恋愛は熱い。
熱く、熱く、燃えるような恋慕があって初めて、エルフという種は子を成せる。
遺伝子が、燃えるような恋に炙られ、種を残すのだ。
だから、エルフの血を引く者は、ハーフであろうと、クォーターであろうと、例外なく歓迎される。なにせエルフの子供とは、エルフ達にとって恋愛の果てにある愛の結晶に違いないのだから。
「いつか、してみたいものだねー。身体を燃やす、本物の恋――」
うっとり、とフローリアは言う。
「――族長様は、そういうのないんですかい?」
「ふふ、考えなくもないけど、私にはもうこれ以上ないほどに掛け替えのない、魂を埋める存在がいるからねー」
「そりゃあ、また、お熱いことで」
呆れるように呟くフローリアに、オリヴィアは微笑で返す。
「羨ましいかい? ならお前も探すといい。己が全てを捧げる相手を――」
オリヴィエは、幼女に似合わぬ大人びた微笑を浮かべていた。
◆
外の世界の住人からすれば、ここは非常に物騒な場所である。それがジェラリアの森の客観的な評価だろう。
植生一つとって見ても、食人植物が溢れかえっているような森なのだ。だからこそ負の感情で森を見る人間は多い。
だが、遥か頭上に聳える世界樹と、その周辺は話が違う。
世界樹が齎す恩恵を、最大限に受けるこの場所は、何時如何なる場合でも――四季折々の花が咲き乱れる幻想的な場所だった。
深緑の枝葉を広げる木々の間隙に向かって、花の胞子が飛んだと思えば、花吹雪が風に乗って空を巡る。
何度見ても、何度感じても、飽きのこない光景だった。
そんな景色に見とれる最中、不意に声が運ばれた。
「オリヴィエ、遅い……ルル、退屈……」
消え入りそうなほど繊細で、壊れそうなほど愛おしい。心を震わせるであろう柔らかな音色は、この上ない不機嫌が込められていて、その音色を霞ませる。
「そう拗ねないでよ、ルル。ちょっと寄り道しただけじゃないか」
「……オリヴィエ、来ない。ルル、一年くらい、退屈、した」
深緑の髪を靡かせる、小さな精霊が頬を膨らませ、大袈裟に不満を表明する。
「ルルは相変わらず寂しがりやだねー。ちょっとだけフローリアと雑談していただけなのに。ルルも気難しくせず皆と仲良くすればいいと思うよ?」
「やっ。ルル、オリヴィエだけで、いい。それに、雑談? ルルのこと、ほっぽって、何話したの?」
責めるようなルルの眼差しに、オリヴィエは内心で少しあきれた。個我が弱いといわれる精霊にしては随分と独占欲が強い子である。
「そりゃあ、まあ、女の子が二人だよ? 話題なんて、恋バナに決まってるじゃないか」
悪戯っぽく、オリヴィエは言う。
「むー、じゃあルルとも、恋バナ、する」
「精霊と恋バナ、って……ルルはそういう欲求ってあるのかい?」
そう言うと、大樹の枝にちょこんと座っていたルルが、その身を宙に投げ出して浮かび上がると、オリヴィエの後ろに回りこみ、手を回してきた。
「確かめて、見る?」
耳にルルの吐息が触れる。
ルルは胸の周りをくすぐるように撫でてきて、そっと顎に手を置くと、そのまま強引に上を向かされた。
上を向いた視線の先には、ルルの小さな顔が傍にあった。
「ちょ、ルル?」
やけに積極的なルルに戸惑うオリヴィエ。無機質な表情のルルとは違い、オリヴィエは頬が少しだけ熱くなった。
「オリヴィエと、恋バナ、する」
「これ……ふぁ……恋バナじゃない……」
だが、ルルはどこか楽しそうにじゃれ合ってくる。世界樹の精霊は、四大の精霊とは幾分か性質が違う。法則の中に住まい、秩序を掌る四大の精霊と違い、大樹という一存在の中に住むルルは彼らに比べて生物としての意識が強いのだろう。
しつこく、それ以上に粘っこく絡んでくるルルの手に、いい加減我慢ができなくなったオリヴィエがルルを引き離した。
「もう、これじゃあ何も話してないじゃない。それに恋バナって普通男女の話をするものよ?」
「女の子同士で、恋ができない、なんてのは、幻想」
ルルはそう言いながら、宙にぷかんと浮かんでいた。
お互いがまだ小さな子供だったときから傍にいるせいか、やけに人間らしくなった精霊にオリヴィエはいつもの日課を口にする。
「はぁ――それより、扉はどう?」
「ん、異常、ない。動かないし、誰も来ない、いつも通り――見にいくの? あの動かない扉」
「異常がないならそれでいいよ。またその内清掃しにいかなきゃだけどね」
「二千、五百年くらい、ずっと同じ――ルルの背中に気持ち悪いもの、いつまで置いとく?」
「いつまでも、かな。ああ、それか勇者様が訪れるまで、かな」
「最後にきたのは、二千二百、と少し前くらい。オリヴィエは律儀。初代様はもう、死んでる」
「だとしても、だよルル。ルルだって、勇者様は好きだったでしょ?」
世界樹に支えられた、ジェラリアの森。
ルルの恩恵を預かるこの森の者には守るべきものが二つある。
それは、勇者の手によって齎された世界樹ルルと、世界に三つのみ存在する空間を繋ぐ一枚の扉。
森を守るのが守り人の役目なら、扉を守護するのはオリヴィエの役目だった。
「ん、でも――あんなの、オリヴィエにもルルにも使えない。だから、誰も来ない。オリヴィエはもっと、肩の力抜いていい」
「ルルは優しいな。それじゃあ、たまには、一緒にどこかへ遊びに行くとしましょうか?」
「っ! いいの?」
どこか、無機質なルルの目が輝いて見えた。
「ルルは樹だから私なしじゃ動けないだろうし、毎日見慣れた景色だけじゃ飽きるでしょ? ――それに、思えばずっと、私たちはここにいたからね。ちょっとくらい休憩したって、勇者様は怒らないよ」
あの扉の守護だって――できれば、の、お願い、だった。強制なんてされたことはない。
それを律儀に守ったのは、返せぬと知っていてそれでも恩返しをするためと、ただ単純にルルの傍にいたかった、それだけなのだ。
「季節が巡って、あったかくなった頃に――フローリアに全部押し付けて、はぐれエルフの真似事でもしよっかな」
宙に漂うルルに視線を向けて、見上げるように軽く笑む。ルルと二人して笑う様は、悪戯を企む子供のそれだ。
「ん、楽しみ――頑張って、ルルの分の魔力確保」
「今から、じっくりやるとするよ」
「ん、約束――」
「そうだな、約束だ」
それは、オリヴィエとルルの交わした、小さな約束だった。




