風竜
「ああ、私の主様――アイシャは貴方様に、永遠の忠誠を誓います」
アイシャの中でどういった心境の変化が――いや昇華が行われたのか、ナハトには分からなかったが、その言葉がナハトにとって予想外であったことは言うまでもないだろう。
ナハトは一緒に旅しようぜ、的な軽いノリで言ったつもりが、何故か永遠の忠誠になっていたのだ。
無論冗談で言ったつもりはない。彼女には必然にも近い運命を感じたのだから。だが、そこまで重く捉えられると、どう対応して良いのか分からない。
「わっと……!」
成長しきっていないアイシャが木の根に足を引っ掛けて転びそうになっていた。
「おっと」
ナハトの反射神経と反応速度ならば、アイシャが体勢を立て直す前に、彼女を支えるなど朝飯前だ。
「大丈夫か、アイシャ」
「えへへ、ごめんねナハト様。でも、アイシャは大丈夫です」
アイシャを支えると、何故かこの上なく嬉しそうに頬を緩め、満面の笑みでそう言う。
一体何がそこまで彼女を幸せにしているのか、ナハトには分からない。
「手、繋ごうか」
そう言って右手を差し出すと、
「はわわわわ、そんなご無礼な――」
そう言いつつもアイシャの手はナハトの右手に近づいている。
アイシャの顔はナハトの手にしがみ付きたいと告げていた。
徹であった頃は手を繋いだ経験など文化祭のダンスくらいでしか経験がなく、幾ら子供に見えるからと言って自分から手を差し伸べるなんて恥ずかしすぎてできなかったのだが、ナハトになってからは、自然と口にできるようになっていた。
「はわ、でも勿体無い――はわ、でも、いや――でも――」
茹でダコみたいに表情を赤くして、恭しく手を握ろうとして、離れ、また握ろうとするアイシャに、ナハトのほうが堪えきれずに手を握り絞めた。
「はぅーー! 感激です! 光栄でしゅ!」
ナハトとしては、アイシャは旅仲間のつもりなのだ。
もっと気楽に接して欲しい。
手を繋ぐくらい、なんてことはない。まあ、それはナハトが女性キャラだからこそ言えるのだけれど。ゲーム時代にはノリのいいギルドメンバーは顔の変化を利用してキス紛いの真似事をメインの男キャラでやっても付き合ってくれたが、知り合ったばかりの相手に求めると、『うわ……きもっ……』などと言われるので女性プレイヤーはゲームの世界でもどこか苦手だった。ちなみにその時は伝説級の装備をあげて許してもらったのだが、気を損ねると拡声器で『○○にセクハラされました、注意ヨロ』などと発信されるので本当に女性とは厄介だと、苦手意識を持っていた。
前世の自分、相川徹は女性とお付き合いしたこともないし、手を繋いだこともない。まして、キスをしたこともなかった。
そう思うと随分積極的になったものである。
ナハトは小さな美少女、アイシャを見据えた。
幾ら成長が遅いとはいえ、女性らしい起伏や丸みは少なからず見受けられる。
ナハトも相当な美少女だが、アイシャも負けてはいないだろう。
汚れが落ちて、血色がよくなった肌は勿論、くすんでいた金糸の髪から不純物が除かれ鮮やかとなった今、その髪は芸術のように美しい。陽光を受けて反射するその有様は、夜を照らす月の光のようだった。
今手を握っている少女とファーストキスをしたこと思い出すと、ナハトも少し顔が赤くなった。
「――ん?」
そんな平和で、幸せな一時を無粋な羽音が遮った。
龍人たるナハトの聴力でそれを捉えたのは、凡そ十キロ程度外での話しだ。
にも、関わらず僅か十数秒で、それは頭上へと現れた。
「は、わ……え、何で…………嘘…………」
空を扇ぐ強大な翼がその巨体を支えているのか、それとも青緑色に輝く魔力の渦が支えているのか。
ただ、上空に佇む影が、陽光を消した。
深緑を思わせる鱗に包まれた短い――まあ短いといっても全長と比べての話だが、そんな四足。その先には、人一人と同じ程度の大きさはあるだろう鋭い爪。
広げた翼の大きさを測ろうとは思わない、その体躯も同じだ。
それでも無理をして喩えるなら、山のよう、とでも言うべきなのだろうか。山のような巨体が空に浮かんでいる。
深い知性を感じさせるエメラルドの瞳と、風を身に纏うように曲り歪んだ八本の角。
背中には蛇のような尻尾が攻撃的に纏わりついていた。
「こっちにもいたんだ、ドラゴン」
それは、ゲームの世界では見たことのない種ではあったが、ドラゴンであることは間違いない。
人を見つけた時もまた同族を見つけたような感情を抱いたが、それはドラゴンも同じであるようだ。
巨大で、圧倒的で、アイシャなどぺたんと尻餅をついて粗相をしてしまっているほどの絶対強者の姿がそこにあってなお、ナハトの口元には優しげな笑みだけが浮かんでいた。
戦意喪失、どころか、生存を諦めかけているアイシャにナハトは告げる。
「大丈夫だよ、アイシャ――こいつはただの竜だ。私の敵じゃない」
目の前の竜には、金色の円環が存在していないのだ。
リアルワールドオンラインで、龍の下位種たる竜は、低くてレベル五十から高くとも百を越えない。
ナハトのレベルはカンストしてないとは言え、百四十七。どう考えても負ける相手とは思えない。仮に、竜種の限界であろう百レベルのレイドボス級モンスターでも、まず問題なく排除できる。
だが、これはあくまでゲームでの話。
この世界では違うのかもしれないが、ナハトには目の前の存在がそこまでの脅威だとは思えないのだ。
一瞬だけ、右手につけた腕輪を見るが、外す必要性は感じなかった。
「大きさと、敵意に騙されてるだけで、よく感じてみろ。私の龍の波動のほうが凄まじかっただろ?」
もっとも、あれはアイシャには向けていないものだったが。
アイシャは、座り込んだまま、コクリと頷いて、ナハトの手を強く握った。
「さて――何の用だ? 散歩の途中ってわけじゃないよな?」
『貴方が――私達と同じ――いえ、それ以上の力を持ってこの世界に降り立った、異分子なのですね…………なんと、凄まじい力……』
心の中に響く声。当然のように人の言葉を紡ぐあたり、やはり知能が高い。
「その言い方、私がここにいるのはお前のせいって訳ではないのか――で、私への用は挨拶だけって訳じゃないんだろ? 私としてはこっちでまで、同族を殺したくはないんだ。その物騒な殺気を消してくれないか?」
可愛い従者が色々と大変なのだよ、と言いそうになって止めた。
アイシャも幼いとは言え、女の子である。
気遣いは色んな意味で大切なのだ。
『――そう、ですね』
竜の言葉と共に、大地を軋ませていた殺意の波動が霧散した。
『――観測者の一部として、異物は排除すべきとは思いましたが、どうやら私達の力では遠く及ばないようです――改めて自己紹介を、私は四大竜が一柱、颶風竜、アルハザード。風と客旅の神などと、人には呼ばれておりますが、貴方からすれば私もただの竜なのでしょうね』
何故か落ち込むように言うアルハザードに、気を抜かれたナハトも警戒を解いた。
「そう落ち込むな――こちらでも同族に会えて嬉しいぞ? 私はナハト、ナハト・シャテンだ。魂魄龍の龍人さ、敵意はない。安心しろ」
その言葉に、最も驚いたのはアイシャだった。
ナハトが人間ではない絶大な力を持っているという憶測はあったとしても、本人の口から竜人だと聞かされれば、その驚愕は只ならぬものだった。さらには、竜の因子を受け継ぐ竜人が本物の竜よりも強いという。理解が追いつくわけはなかった。
最も、彼女は竜と龍を混同して理解しているのだけれど。
「それにしても、異物ってのは自覚があるが、即排除というのも酷いものだな」
ナハトは中途半端な自分の力が通用する事実にほっと安堵の息を吐いた。
『私たちにも事情があります――特異点を残し続ける危険は小さくない。加えて、私達には世界を正常に保つ役目がありますので――』
「ちなみに貴様は、私がこの世界に呼ばれた理由を知っているのか?」
アルハザードに聞きたいことは、これだけだ。
転生したとはいえ、確かな証拠がない限り、疑ってしまうのは事実なのだ。
どうしてここにナハトはいるのか。
神に呼ばれたわけでも、善行の報酬でも、勇者召喚でも、魔王としてでもない。
『分かりません――私達は世界の異常。特異点を見る力を持っているだけですので』
期待はずれの答えにナハトは落胆を隠しきれなかった。
人々から神とまで呼ばれる存在ならば、何かを知っていると思ったのだが、アルハザードはそれ以上は分からないという。情報を隠している可能性もないではないが、わざわざ殺しに来た事を告げて、生殺与奪権をナハトが握っている状態で嘘を告げるとは思えない。
ふと、もう一つ尋ねたいことが浮かんだ。
「なら、異世界人――別世界の人間、あるいは生物が召喚された、または現れたことはあるのか?」
小説で言う勇者召喚、魔王召喚、偶々迷い込んだ人間なら稀人、か。
どれか、ナハトと同じ事例がないか聞いてみる。
『大昔、数千年は過去の話ですが、災禍の魔王が召喚された事例が一つ、聖都に残る勇者召喚陣が一つ、それと――――いえ、何でもありません。ですが、貴方の言う異世界から召喚された者は歴史上確かに存在しているはずです』
そんなアルハザードの言葉をナハトはゆっくりと咀嚼した。
「そうか! それはいいことを聞いた、感謝するぞ、小さき竜よ」
『……小さいですか、大祖母様以外の者には初めて言われました――では、最後に私から一つ尋ねたいことがあります。貴方の目的は何でしょうか?』
勘繰るような、それでいて真っ直ぐで鋭い視線だ。
だけれど、ナハトはまだこちらに着たばかりで、必死に生きようとは思ったが何をしたいかは決まっていない。強いて言うなら、ゲームでしかなかった様々な種族の女の子の実物を眺めることだろうか。いや、それよりも今は――
「――アイシャと一緒にぶらり旅かな」
ナハトはこの世界にきて出会えた小さな命を見据えた。
「でもまあ、世界征服とか、レベ上げに乗じて皆殺しとか、物騒なことは考えてないから安心するといい」
ナハトが言うと、アルハザードはエメラルドの瞳を一度閉じ、逡巡したあと見開いた。
『今は、その言葉を信じておきましょう』
暴風のように訪れたアルハザードは、大空をへと昇って、雲の中へと消えていった。
それを見届けてから、ナハトは右手をなぞるように視線を下げた。
その先には、未だに放心していたアイシャがいた。
「取り合えず、水浴びしよっか」
「…………」
アイシャの瞳がぱちくり、ぱちくりと動き始めた。
やがて正気を取り戻したアイシャは羞恥で、この上なく顔を赤くした。
「な、な、ナハトさまの……バカ……変態……ぐすん……」
涙ぐむアイシャを見て、ナハトはアルハザードに初めて猛烈な殺意を覚えたのだった。