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母として

 その世界は、苦痛と絶望で染められていた。

 痛み、痛み、痛み――終わることのない痛み。

 延々と続くその感覚だけがあって、本来持っていたはずの自分の意思が、感情が、記憶が、消えていくのが分かる。


「うふふふふふふふ――うふふふふふふ――――」


 奇妙な笑い声が耳に取り残されている。

 呪いを齎した誰かの声だ。

 

「――――――、――――――、―――――――――――――」


 何かを言っていた気がする。

 でも、そんなことさえ憶えていない。

 あるのはただ、痛い、という感覚だけ。


『大丈夫…………、一人じゃないよ…………ルルが……傍にいるから……』


 そんな声だけが救いだった。

 世界樹の、ルルの力を借りて、呪いに打ち勝つ。もし、打ち勝てなくとも、フローリアが戻るまで命を繋ぐ。同胞と、勇者様と交わした大切な約束を守るために、そんな選択をしたことさえ、もう憶えてはいなかった。


 二十年という年月は、あまりに――あまりに永すぎたのだ。


「…………」


 一年は過ぎただろうか――耳が落ちた。とても痛い。


「…………」


 二年は過ぎただろうか――フローリアは、どうなったのだろう。


「…………」


 三年は過ぎただろうか――片腕が、なくなった気がした。でも、そんなことよりも体中がただ痛い。


 五年か、六年か、そんなくらい過ぎただろうか――おかしいな。これくらい、一眠りする程度の時間なのに、もう限界かもしれない。


 十年は過ぎたと思う――もう、考えることさえできない。ただ痛い。時間をかけて体中の骨をへし折られているような鈍痛と、神経を焼ききるような激痛と、肉体が溶けていく様な苦痛が同時に襲い掛かる、そんな感覚。

 肉体的な痛みは、ただそこにあるだけの苦痛は――原始的で、原初的で、根源的で、何よりも辛い。


「――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 ああ、もう、駄目だ。


「――う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 長い年月によって鍛えられた精神が、それでも狂っていく。


 子供のように泣き叫んだ。


 子供のように呪詛を吐いた。


 子供のように誰かを呪った。


 そうしていくうちに、誰かが――壊れていった。


 きっと、それは、誰かとしての、最後の思考――


「…………ごめんね……巻き込んじゃって……私を捨てて逃げて……でないと私、ルルまで嫌っちゃいそう……それは、いやだよ…………」


 どこかで、誰かの声がした。


『絶対に、いや! 好きなだけ、呪って、好きなだけ、恨んで、ルルは、それでいい。生まれてから、死ぬまで一緒……だからルルは、最後まで、貴方を好きでいるよ、オリヴィエ」


 痛いと叫んだ。


 繰り返し。


 苦しいと叫んだ。


 繰り返し。


 もういいと叫んだ。


 繰り返し。


 繰り返し。


 繰り返し…………


 いつまでも、いつまでも、繰り返す無間地獄に――光が射したのは、誰かが壊れた後の話だ。


 








 

 緑の大地に、巨大な猫の足跡が刻まれる。

 加速したタマの姿が影を置いて、移動した。


 技能スキル――影抜き。


 高速移動するタマの攻撃が、肩で息をするアイシャへと容赦なく襲い掛かる。


「っ――!」


 突如として迫るタマの猛碗を、大きく前転するように身を投げ出したアイシャは間一髪の所で回避に成功する。


「はぁ――はぁ――」


 だが、かれこれ一時間はタマの猛攻に晒されているアイシャにはある程度の疲労があるだろう。

 そんな状態で体勢を崩したアイシャと、一撃を外しただけのタマ。

 どちらが体勢を整えるのが早いか、それは言うまでもない。


「にゃおーんっ」

 タマが鳴くと共に、タマの顔がアイシャへと迫る。

 だが、口は開いておらず、牙は秘められたままだ。

 アイシャの小さな体に触れるのは、牙ではなく、タマの愛らしい髭だった。


「ふぁ――!」


 擽ったいのかアイシャが声をもらした。

 そのままタマは、アイシャを優しく押さえ込み、爪の代わりに肉球でふにふにとアイシャの頬を突っつく。アイシャに乗るなど、許されざるべきことだが、タマも雌なので一応は許してやろう。 


「はい、そこまで――」 

 

「ぷふぁー、タマ、重いし、擽ったいですぅー!」


「にゃ、にゃおーん」

 タマがアイシャの上から飛びのく。

 ナハトはすかさずアイシャに近づくと、汗をかいたアイシャをゆっくりと抱き起こし、そのまま用意しておいたタオルで体を拭いてやる。

 

「ほい、アイシャ。水分補給だ――」

 そう言って、滞りなく用意しておいたミックスジュースをアイシャに渡す。


「あ……あ、りがとう……ございます……」

 んくんくと喉を鳴らしてジュースを飲むと、アイシャは幸せそうな顔を浮かべた。


「はふー、生き返りますー」


「お疲れ様、アイシャ――被弾回数は二十三回、実戦なら二十回は死んでるな――」

 アイシャには攻撃を禁止して、防御と回避のみでタマの攻撃を避ける訓練を行っていた。まあ、訓練と言ってもタマの運動不足を解消するちょっとしたお遊びなのだけれど。

 アイシャがタマと戯れているその間にナハトは朝食作りである。


「ぅぅ――タマは早いですし、避け続けるのは難しいです……」


「受けるか、避けるか――その判断が鈍いのが問題だな。何も私の真似をして避け続けるだけが選択肢ではない。どちらかと言えば、アイシャは受けに回るほうがいいのかもしれないな」


「はい……」


「ま、それらは経験でどうにかするものだ。アイシャは日々成長しているぞ――さ、手を洗っておいで、シュテルを起こしてご飯にしよう」

 ナハトはアイシャとタマを引き連れて、屋敷へと戻る。

 もともとはアイシャの母、フローリアの住んでいた屋敷らしい。今は本人がいないので空き家のような状態だ。メイドや執事も主がいなくなって暇を出されていたのだが、アイシャならば使用するのに問題はないだろう。勿論ウルスを通して許可も得ている。

 一時的にとはいえ、元族長を住まわせる場所の提供なのだ。里のお偉いさんも許可はくれている。

 広い中庭があるので、アイシャの訓練にも最適であった。皆が寝静まった頃ナハトが一晩をかけて整備しておいたので、屋根の上からトイレの下に至るまで、万全に掃除して埃一つ残してはいない。


 アイシャは手を洗いに洗面所に、ナハトはシュテルを起こすために寝室へと向かった。

 扉を開いた寝室の先には、個人的に用意した王女の寝台というキングサイズのベットを置いていた。

 三人で眠るために用意したものだが、昨夜は屋敷の掃除でアイシャたちと眠れなかった。

 そんなベットを見ると、シュテルが小さく寝息を立てていた。


「ほら、シュテル。朝だぞ、ご飯だぞ、おいしいぞー」


「……ん……マーマ……?」

 寝ぼけ眼で目を見開くシュテルの手を取る。


「ああ、おはようシュテル、よく眠れたか?」


「あい……」

 まだ意識がぼんやりとしているのか、ベットにちょこんと座ったシュテルは夢現だ。


「そうか、じゃあ顔を拭いてやろう――ついでに髪も整えよう――」

 てきぱきと身嗜みを整え、純白のワンピースを着せてやる。


「うむ、可愛い――では行こう。アイシャが待ちくたびれていそうだからな」


「あいっ!」

 シュテルの手を引き、ゆっくりと歩いて食堂に向かえば、アイシャがそわそわとして待っていた。


「パパー! おはよー」


「はい、おはようございます。それと、パパではなくアイシャです。もしくは、アイシャママでも可です」

 アイシャは未だに諦めきれないのか、シュテルに訂正を求める。


「ぶぅー、パパそればっか」

 が、それが受け入れられたことはない。


「ほら、ご飯が冷める前に食べるぞー」

 ナハトがそう促すと、


「「はい」」

 二人は息のあった返事を返す。

 和やかな家族の団欒に、ナハトは楽しそうに笑った。

   

「パパ、お肉食べないの? おいしいよ?」  

 アイシャのメニューはいつものように動物性の食べ物を除いていたが、シュテルは基本的に何でも食べる。彼女がエルフの上位種なためか、それとも精霊の一部を体に得た故なのかは分からないが、好き嫌いがないのはいいことだ。

 ナハトも死蔵していた肉系統の食材アイテムを使う機会ができて、料理の幅が広がる。しかしながら、アイシャにその匂いは厳しいのか、若干引き気味に答えた。


「あ、ありがとう。でもアイシャはいいですから、シュテルがたくさん食べてください」


「もったいないよ、おいしいのに」

 なんて、少し不満そうなシュテルは肉団子をもきゅもきゅと頬張る。


「お肉ばかり食べずに、にんじんさんも食べなきゃ駄目ですよ?」


「にんじんきらーい」


「好き嫌いしちゃ大きくなれませんよ?」


「パパみたいに?」


「うぐっ! うるさいですね! アイシャのは体質です、好き嫌いじゃないから大きくなれます」


「じゃあシュテルもたいしつだもん」


「ほらほら、二人とも出されたものを残さず食べろよ。シュテルはにんじんも一切れは食べる。そしたら残りはママが食べてやろうではないか」

 うーうー、と唸りながら、フォークに刺したにんじんを見つめるシュテル。ややあって、決心がついたのか、勢いよく口に入れた。


「んー、変な味ー」


「ふむ。甘くしあげたつもりだが、変か――」

 改良の必要がありそうだと思いつつ、約束どおりシュテルの残りのにんじんを平らげてやる。


「ご馳走様でした」


「でした~」


「はい、お粗末さまでした。さて、私はこれから長老たちとやらに会ってくるが、アイシャとシュテルはどうする?」

 ウルスにはシュテルを連れて来いと言われていたが、まだ精神的に不安定なシュテルを無理に連れて行く気はなかった。

 彼女の身の安全を確保し、健やかに育てることは、ナハトの――いや、ナハトとアイシャの役目であろう。

 そのための障害は一切の躊躇なく塵に変える。ナハトはその双眸に改めて決意を宿した。


「アイシャは作法とか全然分からないですし、偉い人に会うと緊張しそうですー」

 アイシャがそう言うだろうことは、アイシャの性格から予測できた。

 すかさずナハトは言葉を続ける。


「では、シュテルと一緒に出かけるといいさ。どの道、しばらくは時間ができるだろうしな」


「パパとお出かけ?」


「そうですね。折角なので、色々と案内してくれますか、シュテル?」


「あい! 案内するー」


「よし、では二人ともこのナハトちゃんがおめかししてやろう。いっぱい楽しんでくるがいいぞ」

 さて、二人の髪型をどういじるか。

 そんなことを考えるナハトの足取りは、いつになく軽かった。










 エルフの里、と呼ばれる場所は世界樹の麓から少し離れた平地に築かれていた。小さな里には身分などは殆ど存在せず、皆が隣人のような関係にあった。

 一部格上とされるのは、世界樹の守護を任せられる守り人と里の方針を決定する五人の長老。そしてエルフの上位種たるエンダーエルフ――里の長たるシュテルくらいなものだろう。


 そんな里の中央に、一際大きな木の建造物があった。ナハトの目的の場所である。

 一階の広間は、図書館のような印象を受ける。

 見上げなければならぬほど高い本棚に様々な蔵書が納められている。そんな古めかしい書物が独特の香りを運んできた。


 そしてその二階、精巧な草木の装飾があしらわれた扉を潜った先に、五つの席が設けられた会議室がそこにあった。そのさらに上部には誰も座ることのない席が一つ。それは、シュテルが座っていたであろう空白の席だった。


「よく来ましたな、客人よ。昨夜はよく眠れましたか?」


 厳かな声が聞こえる。

 辺りにはウルスを含め、武装したエルフの兵が屹立していた。

 五つの席の真ん中に座る白髪のエルフをナハトは見る。白い髭を蓄え、洗練された眼光を向けてくる中年男性は、恐らくだが齢九百前後と言った所だろう。


「ふむ、中々に居心地のいい住まいだ。さすがはアイシャの母の家といった所か」


「いやはや、では――やはりあの娘はフローリアの――通りで懐かしい魔力を感じるものよのぅ」


「それよりも! 族長様はどうなったのだ! 無事なのだろうな! 今、どこにいらっしゃるっ! 答えぬか!!」

 ナハトと老人エルフの会話に、長老たちの中でも一際若い青年がいきり立って詰めかかる。

 その剣幕は今にもナハトに襲い掛かろうとする苛烈さを秘める反面、真剣にシュテルの身を案じる必死さがあった。


「まあ、落ち着くがいい。私はナハトという。敬愛を込めてナハトちゃんと呼ぶがいい――シュテルは元気に過ごせているさ、案ずることはない」


「はっ、貴様のような余所者に族長を預けてなどおけるか! なにがシュテルだ、馬鹿馬鹿しい! 今すぐオリヴィエ様を我らのもとへと連れて来い、さもなくば――」

 そんな男の声にナハトが苛立ちを覚えた時、静かな声が場を穿つ。


「まあ落ち着くがよい、ローレン殿。族長様を救ったのも、世界樹を救ったのも、そこにおるナハトちゃんじゃて――感謝こそすれど、突っかかるのは筋違いじゃて――分かるの?」

 静かな声だ。

 だが、それ以上に有無を言わせぬ力が篭っている。


「…………はっ」


 青年は、素直に引き下がった。

 ナハトは自分で言っておいて、ちゃん付けで呼ばれるとは思っておらず、素直に驚く。中々に愉快そうな老エルフにナハトの興味が少しだけ移った。


「さて、ワシはこの里の長老なんぞをやっとるグレイスという。昨夜の一件はウルスより聞き及んでおる。いくつか理解できぬこともあるが、我が里の窮地を救ってくれたこと、感謝いたしまする」

 そう言って、グレイスは頭を下げた。


「ふむ、気にすることはない。ここはアイシャの母の故郷なのだ。その問題に私が手を貸すことに他の理由は必要ないさ」

 そう、ナハトの行動に感謝をする必要はなく、ナハトもそれを望んでなどいなかった。欲しいのは、アイシャとシュテルの感謝だけである。

 だがまあ、だからといって、老人の感謝を受け取らぬほどナハトは無粋ではないつもりだけれど。


「ほっほっほ、だが我らの誰もが成しえぬことを達成した御仁に報酬の一つも渡さぬとなると、エルフ族の品位を疑われまする」

 と、言われてもナハトが求めるものなど、大国でも用意できないことは間違いない。それに、今は十分に満たされている。

 ナハトはしばし黙考して、ややあって思いついたことを口走る。


「報酬というか、まあこれは決定事項なので事後報告になるが――シュテルの身は私が預かる、異論は認めん」


「「「なっ――」」」

 エルフたちが唖然とした。

 中には剣に手をかけるものもいる。

 だが、鍛えぬかれた精鋭たちが精霊と意志を交わそうと、武器を手に取ろうと、脅迫どころか牽制にもなっていない。ナハトはエルフたちから向けられる敵意をそよ風のように受け流す。


「なにを、貴様――! オリヴィエ様は我らの――」

 

「オリヴィエなる人物はもういない。彼女はシュテルで、私の娘だ! 娘を育てるのは、母の務めであろう」


「分けの分からぬことを――!」


「彼女を助けたのは私だ。その責任は私とアイシャが負う。それに、死呪に苦しめられたせいで過去のことに敏感になっている。今しばらくはそっとしておくようにしろ、それがシュテルのためだ。強いて言えば、それが私が求める報酬だな」

 

 ナハトの言葉にグレイスはしばし黙考し、


「ふむ、皆はどう思う?」

 

 と、続けた。


「そんなもの、認められるはずがない! オリヴィエ様は俺たちの長だぞ?」

 一番にそう言ったのは、ローレンだった。


「ですが、それを救ったのはナハト殿です。族長様の容態を一番理解しているのは彼女ではないでしょうか?」


「余所者にエルフのなにが分かる。もしかすれば、弱っておる族長をそこの女が利用しようとしているやもしれぬぞ」


「利用? は、馬鹿げているな。あれほどの魔法を解く秘術を持つナハト殿が今さら我らの何を利用するというのか。少なくとも、彼女はフローリアの子をここに招き、異常を退け、森を救った。これは動かぬ事実であろう!」

 長老たちの話が一層激しくなる。

 ややあって、いい争いを諌めたのは、ぱんっと響いた合掌の音であった。


「よいよい。皆の意見は概ね理解した――少なくとも、我等はナハトちゃんに信を置くべきであろう。一つ尋ねたいが、オリヴィエ様――いや、シュテル様に会いにいくことは可能かね?」

 グレイスが代表して、ナハトに問う。


「むやみやたらにシュテルの過去に触れぬことを誓えるなら、いつでも会いに来るといい。まだこの里の異常を全て解決していないのだ。しばらくは、アシシャの母の屋敷にいるさ」


「ほっほっほ、それを聞いて一安心じゃ。しばらくは、シュテル様には療養をしてもらう、フローリアのご自宅でだ。皆も異論はないな?」

 グレイスの声に、反論はなかった。

 ナハトは下らぬ談義を耳で聞き流していたので、ぼーっとした意識を切り替えるように視線鋭くエルフたちを見回した。

 そして――ようやくこの場に赴いた用件を告げる。


「――さて、ではそろそろ本題に入ろう。二十年前に、この里で何があったのか、聞かせてもらうぞ」

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