眠れる森の美幼女
エルフの里にナハトが足を踏み入れる頃には、見上げた空がすっかりと茜色に変遷していた。
幾つもの大樹の連なりに、跳ね橋のような木の道が架けられた不思議な街並み。
家そのものが、大樹を加工しているものもあり、まさにファンタジーそのものだ。静かな湖畔や家の傍には小さな光と笑い声。精霊が遊ぶそんな街に、ナハトとアイシャが感嘆する。
「う~む。素晴らしい」
そして何より、往来する耳長美少女達が素晴らしい。
二十年前の事件のせいなのか男女比は7:3程度で女性が多い。女性の多いエルフたちが、物珍しそうにナハトを見ている。いや、見惚れている、というべきか。男女問わず熱っぽい視線に晒されながらナハトは満足そうに微笑んだ。
「ああ――仲間たちに、この光景を見せてやりたいな」
親衛隊が小躍りする姿が目に浮かぶ。
「また、ですか? ナハト様?」
「ち、違うぞアイシャ――断じて違う――私はアイシャ一筋だ」
「はぅ! み、皆様の前で、もう! 恥ずかしいです!」
(どうしろと?)
そんな感嘆を抱きつつ、一歩足を踏み入れる。
その時――
「っ――!」
「ナハト様?」
たたらを踏んだナハトを不思議そうに見つめるアイシャ。
ナハトは静かにアイシャの手を握り言う。
「流されるなよ、アイシャ。意識をしっかり持て――心配するな、お前の傍には私がいる」
「――?」
なんのことかまるで分からないアイシャが疑問符を浮かべた次の瞬間――
『「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃいいいいいいいいいっ!! ――ぅ゛ぅ゛う゛あ゛――ぐる゛し゛い゛、苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいよぅ――い゛や、いやだいやだいやだいやだ――もう、いやだっ!!」』
人の声と呼んでいいのかも分からない。
苦痛の叫びが、津波のように押し寄せるのだ。
「っ――ぅぁああああああああっ!!」
あまりに痛々しいその声にアイシャが叫び声をあげた。
滝のように汗を流し、青ざめるアイシャの手をナハトは握る。
『駄目、諦めないで――誰かが、きっと……助けて……くれる……』
気丈に振舞うその声は、今にも泣き出しそうで。
「だれかぁ――! もう、いいから! 助けなくて、いいから――も゛う゛――こ゛ろ゛して――殺してよ…………」
遅れて響いたその声は、地獄に落ちた罪人でも発することはできないような――この世の絶望が全て詰まった悲鳴だった。
聞えるのは、ナハトとアイシャの二人だけ。
それは、魂の叫びだった。
心配そうにウルスがこちらを見ていたが、ナハトは案ずるなと手で制す。
森に入った時から、ほんの少しだけ響いていたが、里に入ってそれが爆発した。ここまで大きな声ともなると、アイシャにも聞えてしまう。
エストールでの出来事でナハトの力の片鱗を見せたアイシャには、強い魂の声が聞こえてしまうのだ。
ナハトはアイシャの握った手から、彼女の魔力を御し、伝わる悲鳴を和らげる。
幼い少女に、この声は少し過激すぎる。
「ぅえ…………っはぁ……はぁ……」
小さくえずき、肩で大きく息をするアイシャを支える。
「大丈夫か、アイシャ?」
「ナハト様……今のは、いったい…………?」
「誰の声かは知らないが、筆舌に尽くし難い苦痛を感じた誰かが――救いを求めてのことだろう」
枯れた世界樹をナハトは見ていた。
「……たすけ、ないと……ナハトさま……あんなの! あんなの、放っておいちゃ駄目! 助けてあげなきゃだめですよ!」
「ふむ――それは、どうしても、か?」
試すような口調でナハトは言った。
そんなナハトにアイシャは一層詰め寄る。
「あの子たちは……痛いって……! 苦しいって……! いったいどんな目にあえば、魂の底から死を望むのか……アイシャには想像もできません……だから、助けないと――今すぐに!!」
双眸に秘められた、輝かしいまでに強い意志。
そんなものを向けられれば、選択肢など一つしかないだろう。
それに、アイシャの母の故郷を救うのは、最早決定事項である。世界樹の異常に関わるのも、遅いか、速いか、それだけの違いしかない。
「すまんなウルス――野暮用ができた。先に世界樹の下へと向かわせて貰う」
アイシャの手を引いて、ナハトは歩き出す。
「――泣いている子を助けようではないか」
「はいっ」
そう言って、歩き出すナハトたちの前に、ウルスが立ちはだかった。
「待ってくれ! 世界樹のもとへ通すことはできない」
ナハトは細めた瞳をウルスに向けた。
「ど、どうしてですか!? あの子たちは今も泣いているんです! 苦しいって言ってるんです! 助けてって叫んでるんです! 一刻も早く行かないと――」
「私に貴殿らを見殺しにしろというのか!!」
落ち着いた隊長というイメージのあるウルスがいつになく強い語気でそう言った。
「駄目なんだ、アイシャ殿――別に意地悪で言っているのではない。あの場所は死んでいる――人が近づけるような状態じゃないんだ! 貴殿らをみすみす殺す訳にはいかない!!」
「どういう、ことですか……?」
「二十年前の襲撃で、世界樹は呪われたんだ。族長と共に朽ちていった――葉は消え、枝は折れ、根は腐り、生命の息吹が消えた。周囲は毒沼のように汚染され、族長――オリヴィエ様を救おうと近づいた二人のエルフが、ただ近づいただけで命を落としたんだ――! だから我らは……っ! 亡き族長を弔う事さえできぬままでいる…………」
胸に襲い来る過去の痛みを押さえつけるように手をあて、握り締めながらウルスが言った。
目は血走るように充血していた。だがそれでも、鋼の意思で己が無力を押さえつけていた。それは決して容易いことではない。
遊撃隊の隊長は伊達ではないと改めて思った。
「だから、ここをお通しするわけにはいきません」
歯を食い縛って、その隙間から声が漏れでた。
ウルスの意を受け、遊撃隊の面々が道を塞ぐ。
アイシャはどうにかしようとして、それでも善意を向けてくるウルスたちにしどろもどろになる。
やがて不安そうに見上げてきたアイシャに、目だけで、大丈夫、とナハトは伝えた。
「生きているぞ」
「――――は?」
言っている意味がすぐに理解できないのか、そんな声を零したウルスに、もう一度言う。
「お前たちの族長はまだ生きている。と言っても、いつ、命の灯火が消えてもおかしくはないが――族長と世界樹は生きている」
「……ま、さか……そんな…………バカな……」
死んでいた、と認識していたのだ。戸惑うのも無理はない。
ウルスは震えながら頭を抱え、それでも何をどうしていいのか分からないのか、思案したまま黙り込んだ。
「道を開けろ、ウルスと愉快な仲間たちよ――アイシャがそこを通ると言っている。退かぬなら、押しとおるぞ?」
ナハトはただ立って、言葉を吐き出すだけ。
それだけなのに、痛いほど強い――物理的な威圧が生まれる。
「は、はったりかもしれねぇ――」
誰かがそう言った。
いつの間にか人もそれなりに集まっていたようだ。
「長老の方々に相談を――」
「よせ」
そんなエルフたちの声を、ウルスの声が遮った。
「責任は俺が持つ、ナハト殿に道をあけろ」
「でもよ、ウルスさんっ! こんな得体のしれねー――」
「聞えなかったのか、俺は通せと言ったんだ」
鋭い声が、一切の意見を切り捨てる。
黙りこんで、ぞろぞろと道を開ける群衆の間をナハトは抜ける。
「ナハト殿! どうか、どうか族長を――オリヴィエ様をお救い下さい……!」
「はは、何も心配する必要はない――ついて来てもいいぞウルス――何、安全はこの私が保証してやろう」
懸念など微塵もない、そう伝えるように自信満々にナハトは言った。
◇
緑の絨毯が一面に敷かれたような森の一角から、黒とも、紫とも言い難い、淀んだ煙が立ち昇っていた。
地面がマグマのようにドロドロと溶けている。そこから、毒々しい気泡が上がっては、異臭を放っていた。
凡そ、現実の光景とは理解し難い惨状だ。
自然とできた境界線の向こう側はまるで地獄だった。
生物は皆等しく息絶え、腐り果てた肉塊となって、沈んでいた。
歩くべき場所も、進むべき道も、存在しない。
だが確かに――
その先には、一本の大樹が倒れこむように存在していた。
「なん……ですか、これ……」
「惨劇の夜、族長とフローリア様が戦った場所です……昔は、一際美しい草花が所狭しと並んでいました、オリヴィエ様のお気に入りの場所です」
今では、見る影もない。
「アイシャ、ウルス――これを首にかけろ」
そう言って、ナハトは二つの首飾りを取り出した。ナハトの知覚で感じれば、この惨状の原因があっさりと理解できたのだ。
神獣の首飾り――アイシャの指輪と同じく状態異常を防ぐ能力を持つ首飾りは、所謂特化型装備というやつだ。
ナハトの原初の深闇と同じような、ある一点に特化した防具である。
首飾りが秘める力は、呪術耐性。
「さあ、行くぞ――」
首飾りを装備した二人を確認して、ナハトが一人先行する。
ドロドロになった足場に、一歩踏み入れた。
すると――ジュウ、と得体の知れない音が足元から上がる。まるで高温に熱せられた火に炙られたような音だった。
そんなナハトを激しく心配したのか、アイシャとウルスが立ち止まったままナハトに言う。
「ちょ、な、ナハト様――」
「……その、大丈夫、なのか?」
「心配はいらん――私にこの程度の、それもただの余波でしかない呪いが通用するはずがない」
未だに一歩を踏み出さない二人に向けてナハトが言った。
地の底から這い上がってくるおぞましい気配を、踏み砕くようにナハトは足音を上げる。同時に、火花が散ったような音がして、ナハトの周囲に漂う黒い何かが霧散していった。
「呪い、ですか?」
アイシャの言葉にナハトは頷く。
「神獣の首飾りは高い呪術耐性を与えてくれる特化装備だ。少なくとも余波程度でどうにかなることはない。安心して進むといいさ」
それを聞いて、アイシャは大きく息を吸う。
ゆっくりと吐き出して、覚悟が決まったのか二人が一歩を踏み出した。
「うっ……」
「気持ち悪い――」
二人が似通ったリアクションを取った。
黒々しいスライムに片足を突っ込んだかのような感触なのだ、不快感を感じるのも無理はない。
だが、その程度で済んでいた。その事実に、ウルスが驚愕していた。かつてこの地に足を踏み入れたエルフは徐々に肉体を腐らせて、三日三晩苦しんで死んだらしい。
幾度も呪いが大地から這い上がろうとするが、淡い光がその全てを悉く消し去る。
「さ、進むぞ――」
この世のものとは思えない、全てが腐敗するように崩れていく世界。そんな世界を歩くのだから、足取りは決してよくはない。
だが少し進めば、大樹はもう目の前にあった。
全長百メートルを超えている巨木の根に、それはいた――
「これは――! アイシャは見ないほうがいいかもしれんな……」
「な、何をです、かっ――!? ――――! ぅぷ――」
それを見た、アイシャが思わず口元を押さえた。
「まさか…………族長、なのですか……?」
疑問を抱くのも無理はない。
倒れ伏すそれを見て、人であると認識する者は少ないだろう。
ふと、それの下を見る。
すると、紫色に変色しクズクズになった肉に包まれた白い物が落ちていた。よく見れば、そこには関節があり、五本の指があるのが分かる。
それは、肩から溶け落ちた腕、だった。
木の根に巻きつかれ、磔になっているように見える子供がいた。
エルフらしい長い耳は、片方がない。
アイシャよりもなお濃く、美しかったであろう金髪はくすむだけでなく、頭皮ごと剥げ落ちている部分が生々しくて、痛々しい。顔から全身にかけて黒い斑点が点在し、立ち昇る瘴気がその命を蝕んでいる。
傍から見れば、死んでいるように見えるだろう。
大樹と同化し、溶け落ちた部分を補っていなければ、とっくの昔に死んでいたとしてもおかしくない。
「オリヴィエ様――っ! オリヴィエ様、今お助けいたしますっ!」
肉塊のような姿になってさえ、ウルスはどうにかして幼女を助けようと手を伸ばす。
「助けなきゃ――」
それはアイシャも同じだった。
ほぼ同時に手を伸ばそうとしたアイシャとウルスをナハトが手で制する。
「触らない方がいい。いくら首飾りの耐性があるとはいえ、迂闊に触っていいほど、これは生易しい呪いじゃない」
朽ちていく森を見たときから、それなりに強力なものであろうことは推測できた。だが、目の前のそれはナハトの予想よりも遥かに強力な呪いだった。
「ナハト殿、その呪いというのは……?」
「死呪――――私が知る限り、この世で二番目に強力な呪いだ」
レベル百二十を超えるボス級モンスターが扱えるその呪いは、対象を必ず殺す呪いである。生半可な技能や道具で無効化できるものではない。
かつて突発型イベントで、数多の死者を生み出しかけた、『ヘレネスの呪い事件』で誰もが知るところになった。あの時は、ナハトの所属する「異世界喫茶」や超大規模ギルド「栄光の騎士団」、その他数多のトップギルドが、競争を止めて動くことでなんとか死者を出さずにすんだ。
運営は初心者や新規ユーザーを駆逐する気なのか、と愚痴をこぼして駆けずり回ったのは懐かしき思い出だ。
(問題は――いったい誰がこんなものを使ったのか、だ)
可能性は三つ。
一つ目は呪術系の職業を持つ高レベルプレイヤーが使った可能性。二つ目はレベル百二十を超えるボスモンスターが使った可能性。そして最後の一つは、ナハトがまだ知らぬこの世界の高位存在が使った可能性。
魔族は、三つ目の可能性に当てはまるが、果たして魔族にそこまでの存在がいるのかが疑問だった。エストールで戯れたエリンはそれなりに強かったのは認める。だが、それでも――ナハトが戦うほどの相手ではなかった。少なくとも、あいつ程度で死呪を扱うことはできない。
「『――――いたいっ――っ!」』
思考に耽るナハトを、大樹から伝わる絶叫が遮った。
「どうにかするとは言ったものの――さて、どうするか」
「ナハト様でも、無理なのですか?」
不安そうにアイシャが言った。
「私は戦闘職に走ったからな――基本的に回復、解呪などはできない――」
この身がかつてのセカンドキャラクターならば、解呪は簡単だったのに、と思わずにはいられない。
アイシャはがっくりと肩を落とし、目元に涙を浮かべる。
今も声が、聞こえるのだろう。
痛い、
苦しい、
助けて、
殺して。
そんな声が痛いほどに。
悩ましく呻くアイシャの葛藤には、いっそ、殺すべきなのか、そんな逡巡まで見て取れた。
「――だが、アイシャ。案ずるな――ナハトちゃんに不可能はない。だから、そんな顔をするんじゃない」
見栄を張る。
アイシャの前では、不可能などないと示すために。
アイシャの主として、可愛い従者の優しい願望を叶えるために。
「まずは、呪いを解こう」
「え、でも、さっきできないって!?」
「私自身の力では、と付け足しておこう」
共通ストレージから、『万能手当て』を取り出す。
課金アイテム、万能手当ては中身のない課金アイテム、あるいは進化する課金アイテムなどと仲間内で呼んでいたアイテムである。
購入した時には、ユグドラシルの葉、神秘の霊薬、妖精の涙、仙界の秘桃、などなど様々な回復アイテムが入っている。
無論、どれもあり得ないレベルの回復効果を持つが、ナハトの持つそれは特別製だ。
異世界喫茶の薬師と親衛隊筆頭の錬金術師が課金アイテムさえも素材アイテムとして容赦なく使い、調合、錬成された何ランクも上の回復アイテムがぎっしりと詰まっている。
その中の、一つ――この世のありとあらゆる呪いを払う一滴の雫、それがこの黄昏の雫だ。ナハトでさえ、そう何個も持ってはいない特別な道具であった。
逡巡がなかったかと言えば嘘になるが、そのあまりに痛々しい姿を見れば――そして何よりアイシャの泣きそうな顔を見れば、迷いなど吹き飛んでしまった。
腐り果てた、少女の頬に雫を垂らした。
瞬間、
「ぅっ――」
死人のような少女が、初めて肉体的な反応をみせ、微かにだが声を零した。
一呼吸置く間もなく、波紋が広がる。
変化は劇的で、そして一瞬だった。
空気が澄み渡る。
世界樹と少女を覆っていた邪気が幻だったかのように消え去ると共に、ドロドロだった地面が正常で力強い土壌に変貌していた。
溶けてしまった顔や、崩れ落ちた腕はもとには戻らないが、黒ずんだ斑点が消えその体に人間らしい色が戻った。
――その目は、未だに閉じられたままに。
「やはり駄目、か」
「ナハト様――?」
「彼女の肉体はもとより、精神は既に限界だった――アイシャは聞いていただろう、二つの声を」
「は、はい」
「一つは限界を超えた苦しみに耐えかねたこの幼女の声、もう一つは幼女と同化して苦痛を共有した精霊の声だ。彼女がもしも一人だったら、呪いに抗うこともできず、とっくに息絶えていたはずだ。そしてそんな生と死の狭間、そのギリギリの均衡は彼女たちの魂をも傷をつけた――回復薬で治るのは肉体的な損傷だけなんだよ」
「族長は――オリヴィエ様はもう、助からないのでしょうか……?」
ウルスが聞いた。
「少し、迷っている――助けるべきか、それともこのまま安らかに眠らせるべきか」
方法がない訳ではない。
もっとも、今回は一つだけしか手段がないが。
そして本音を言えば、ナハトはそれを使いたくはないのだ。
「ナハト様、アイシャは聞えます――聞えるんです! 助けて、って声が――耐えて、耐えて、耐えて――やっと、助かるって、そんな声が――だから――アイシャは…………」
「アイシャは優しいな――」
少しだけ、そっけない物言いでナハトが告げた。
「ナハト、さま?」
「――だがな、アイシャ。私たちは何でも、それこそ目に映るものはすべて、助けられる、というわけじゃない。私たちの力は決して万能ではない。だからなアイシャ、手をさしのべたその時に、助けた、などと驕ることは許されない」
正直に言って、使いたくない。ナハトにとってそれは、何よりも譲れない特別なのだから。
幾ら目の前の存在が、痛々しいまでに同情を引く姿をしていて、好みのエルフであって、助ける手段が存在して、苦しみを払えるとしても――見殺しにしたいと思うほどに、ナハトはそれに執着している。
「助けた、などと思っていいのは、救われた者がそう思って感謝されてからだ。善行は相手がそう思って初めて善行になり、それ以外は全て偽善に過ぎない。見知らぬ誰かを、意味もなく助けたとしても、救われるのは自分の心だけだ」
「アイシャは――! そんなつもりじゃ――」
「知ってるさ、アイシャの優しさは、その魂を知る私が一番よく知っている。だからこれは忠告だよ。私の力も、決して無限ではない。この方法で救えるのは、生涯で後たった一人だけ――これから先、何百年か、何千年か、何万年か、私たちが生きる時間の中で、助けられるのは一人だけ。そういう力を、友達であるイズナでもなく、アイシャの肉親である母でもなく、目の前の幼女にこそ使うべきだとアイシャは言っているんだぞ?」
ナハトは問う。
果たして、アイシャの選択は本当にアイシャの本心なのか、と。
一時の感情の暴走ではないのか、と。
善意に酔いしれた愚者の施しではないのか、と。
「…………」
それに、アイシャ以外にそれを使いたくなかった。
唯一無二は、アイシャだけでいいから。
ナハトの特別は、あの時に出会ったアイシャだけでいい。だからナハト自身は使うべきでないと考えているのだ。
「それでも――」
アイシャの輝かしい瞳が、強い意志を放っていた。
結局、ナハトの意思を左右するとすれば、それはアイシャの言葉だけなのだ。
「――それでもアイシャは、助けてあげて欲しいです。ナハト様が私を死の淵から救い出してくれたみたいに。龍の従者は言葉を曲げない。今この瞬間に助けないと、アイシャはこれから先を生きていく自信がなくなりそうです」
アイシャが言った。
何処までも、何処までも――ナハトよりもなお真っ直ぐな言葉だ。
ナハトはそれに、くすりと笑う。
面白そうに、子供のように、妖艶に、いつまでも、いつまでも笑う。
「ははははは――全く――アイシャには敵わないな。――確かに私は言ったな、助けてやると」
「はい、いいました」
「そして私には、少女を助ける術もある」
ここで力の希少性などを理由に引けば、それは背を向け逃げ出すことと同義だ。そんなことをすればアイシャは――そしてナハト自身が、自分を軽蔑するだろう。
龍の従者は言葉を曲げない。
無論ナハトも自分の言葉を曲げたりはしない。
「分かった――」
覚悟の篭る力強い声と共に。
ナハトは眠れる森の幼女に近づくと、ゆっくりと唇を重ねた。




