急襲
大樹の根に茨のような草が生い茂る道なき道を、耳長族の集団が駆け抜ける。
足場の悪さなど微塵も感じさせない足取りは、さながら吹き抜ける風のようだった。
「……なんなんだ、さっきの魔力は……また、あの仮面が……?」
呆然と、搾り出すように隊の男がそう零した。
何時にない焦りとともに、声を吐き出した男とそれに追従する四人の精鋭は不安定な感情を隠すために、言葉少なく走り続けた。
惨劇の一夜を彷彿とさせる不気味で、強大な魔力の波動。
あんなものを感じさせられれば、耳長族でなくともすぐに異常を察知できることだろう。それほどまでに次元が違った。脅えるのも無理はない。
「無駄口を叩くな――我等はただの偵察だ――戦うわけではない」
冷静な隊長の声は、あまりにも残酷な現実を伝えていた。
彼はただ認めていたのだ。
最精鋭と言ってもいいエルフの遊撃隊が、戦うことになれば必ず敗北するだろう事を。
立ち向かい、己が命を賭してでも打倒してみせる――そんな儚い幻は、二十年前に嫌というくらい打ち砕かれて、蹂躙されて、悪夢を見せられたのだから。
(ちっ――)
そんな同族たちを見て、少女は不満を内心で吐き出す。
彼らには最初から戦う気概さえなかった。
(――何が精鋭だ――笑わせる――)
内心でそう吐きすて、少女は最後尾にて同族を蔑んだ。
ただ一人、圧倒的な魔力を感じてなお脅えることなく――それどころか口元に浮かぶ歓喜の笑みを押さえきれないとばかりに歪ませた少女は獰猛に笑う。
(嗚呼――ああ、やっと――仇を討てるよ、ユリス……)
憎悪に曇った双眸には、木漏れ日の光さえも、真っ赤に染まって見えるのだった。
◇
「おしっ、いくぞタマ――」
すっかりと懐いて、子猫のようになったタマの巨体をナハトはか細い二本の腕で支える。膨大な負荷がナハトの二本の足を通して大地を穿ち、耐え切れなくなった地面が数センチ陥没した。
「にゃ、にゃおーん」
よ、よし、来い、と言いたげに可愛く鳴いたタマを抱いて、ナハトは全身に魔力を通わせる。
身体強化魔法と膨大なレベルに支えられる基礎ステータスをフル活用し、盛大に力をいれた。
「ナハト式、超高~い高~い――――」
「うにゅああああああああぁああああ――――――――――――――――」
悲鳴のような鳴き声とともに、2メートルを優に超えるタマの巨体が遥か上空へと舞い上がった。
数百メートルは打ち上げられたタマが空を踊る。
鳴き声は空の彼方に消えていき、すぐさま地上に戻ってくる。
「―――――――――――――――――――ぁあああああああああああん」
「ちょ、ナハト様――っ! タマが降ってきますよ、受け止めて! 受け止めて!」
「ふむ、あやつなら受け止めなくとも、死ぬことだけはないだろうな――」
「ふぇ?」
「うにゃ?」
嘘だろ、と言いたげな二人の視線を受け、ナハトは悪魔のように笑む。
「アイシャに襲い掛かった罰として――このままにしておくというのも考えなくもないな――」
「ちょ! あの、ナハト様っ!? た、タマがこの世の終わりみたいな顔してますよ!? わ、私は許しますから、許しますから!」
「ふむ、アイシャがそう言うなら仕方ない――まあ、最初から投げっぱなしにはしないつもりだったが」
そう言うと、重力魔法を起動する。
隣でアイシャが、絶対嘘だ、と言いそうな顔を向けてくるがナハトは気にしない。
自重を失ったかのように落下するタマに勢いがなくなり、やがてゆっくりと落下したタマが地面に足をつける。ふわりと土煙が舞い、タマは安堵したのか肺から空気を吐き出していた。
「なかなかスリリングだったろ?」
「うにゅあーん…………」
悲壮感に溢れるタマの鳴き声がした気がするが、きっと楽しかったに違いない。
「ふむ、アイシャにもやってやろうか?」
「絶対嫌です!」
「そうか…………アイシャはきっちりと両腕で受け止めるぞ?」
残念そうにナハトは言う。
タマはあれほど楽しそうなのに。
「嫌ですからね!!」
高所が苦手なアイシャは念を押すようにそう告げた。小動物のように震えるタマをナハトから庇うようにアイシャは優しく撫でる。
未練がましそうにするとアイシャの機嫌が悪くなりそうなので、仕方なくアイシャの頭をわしゃわしゃと撫でて満足しておく。
「タマも嫌だったら嫌と言って、断っていいんですからね! ナハト様は色々と無茶苦茶ですから」
「にゃおーん」
あれほど怖がっていたタマを気遣うアイシャ。
タマもタマで襲いまくっていたアイシャに毛並みのいい頬を押し付けていた。
すっかり悪者扱いのナハトは露骨に肩を竦めた。
「タマはすっかりアイシャに懐いたな」
「なんででしょう?」
「私の魔力で躾けたからな――アイシャの奥にある潜在的な魔力にも服従しているのさ。動物は賢いぞ、アイシャ。もう少しちゃんとこいつが成長していたら、私に襲い掛かることもなかっただろう」
「なんだかタマは大人しくなりましたね――猫みたいで可愛いです」
そうアイシャが言うと、タマは露骨に媚を売るように甘く、にゃーおん、と鳴くのだった。
◇
「嘘……だろ……? おいっ! 今の……幻獣種だよ、な……」
「空、飛んでったぞ――つか、エルフと……残りは誰だ?」
「クソっ! 幻獣が邪魔で見えにくいな……」
「仮面は見えるか? ふざけた笑い顔の仮面だ」
遊撃隊の隊長が静かにそう告げる。
誰もが必死で監視するなかで、少女はただ、顔を下げたままだった。
「関係ない――」
「おいっ! シルフィー、短慮はよせっ!」
静止の声が耳に入ることはなかった。
臆病者は、そこで震えてろ!
そう、心の内で吐き捨てて、シルフィーは木の上から身を投げ出した。
「侵入者は敵。敵は殺す、それだけだ」
風の精霊の加護を受け、誰よりも速く、シルフィーは大地を蹴り進む。
意識の底から加速した視界が世界をゆったりと流していった。
先ほどまで監視していた木の上から目標までたいした距離はなかった。
一息を吐き出し、二息を吸い込んだ時には既にそれは目の前にいた。
(――あはははははははははははははは、やっと来てくれた! やっと見つけた! あれ……でも、違うっ!?)
目の前にいたのは、あの時の男でもなければ、族長を殺したという仮面の悪魔でもなかったのだ。
そこにいたのは、形容する言葉を探し出せないほど美しい、次元の異なる美少女だった。エルフはみな美形で、老いを知らず、そのため人一倍目が肥えているにも関わらず、シルフィーは息をのんだ。
呆然と、目を奪われたのだ。
まるで自らの存在が霞むような美少女がそこにはいた。
「っ――!」
一瞬にして、二つの視線が交錯する。
耳の短い、おそらくハーフであろう少女を庇うように背に寄せて、さらには幻獣までも下らせて、品定めしてくるようにこちらを見ていた。
自らが強者であるという自信の表れなのだろう。
(関係ない――侵入者は敵――敵は殺す――)
それは、二十年前から紡いできた怨嗟の呪文。呟くと同時に、体を巡っていく血液が冷たくなるのを感じる。
刹那の思考を振り払うようにシルフィーは魔力を巡らす。
大きく吸い込んだ息を力ある言葉に変えて、友に告げた。
「自由の象徴、束縛を知らぬ風の精霊よ――我と共に駆けよ――」
エルフの得意な獲物は弓、それと精霊魔法。だからこそ遠距離が得意だ、と思われがちだ。
無論、それは間違ってはいない。
シルフィーも弓は得意だし、遠距離戦でも二十年前から一度たりとも負けたことはない。だがそれ以上に、シルフィーには得意分野があったのだ。
「ほう――」
閃く二振りの剣閃。
余裕に満ちた生意気な顔を、すぐに血で染めてやる。
白銀の刃が光を浴びて、敵の喉笛に一瞬で迫る。
精霊の加護を受け、加速したシルフィーが振るう短双剣は、剣先が複数に見えるほどに凄まじい速度だった。
瞬速にして、必殺の一撃だ。
避けられるものなら、避けてみろ。
そう思って、弧を描くように振り抜いた短双剣は、今まさに小さな少女の命を奪う――はずだった。
「なっ――」
反射的に、零してしまった声と共に衝突音が耳を打つ。
(――なんだ、この手応えはっ!?)
鋼鉄を斬りつけたかのような感触だった。
手が酷く痺れ、上体が衝撃で流された。
そうして初めて、自らの攻撃が弾かれたことを知る。
(防がれた――あり得ない! 一体何に!?)
棒立ちに近い状態で、一切の武装をしていないのだ。それどころか、魔力を練る気配さえ感じなかった。だからこそ、シルフィーの攻撃を迎撃する手段はないはずなのに――あり得ない。
酷く乱れた上体を、強引に引き戻して体勢を立て直そうとしたその時、眼前に赤い光が見えた。
「っ――! 爪っ――!? 」
死を覚悟させるほど、鋭いそれは、輝かしい赤い爪。
ギリギリで顔の右横を通り抜けたそれは、シルフィーの頬を浅く切裂き、束ねていた髪を髪留めごと切り裂いた。
ひんやりとした感覚が背筋を這う。それは、長らく感じていなかった濃厚な死の気配。
だが――――
(構うものか!)
頬を切裂かれてなお、シルフィーは踏み込む。
深く、ただ深く。
命を捨てるように、前に――
結果論だが、それは正しい選択になった。
「せぇあああああああああああああああっ!」
裂帛の気合と共に短双剣を振るう。
緑色の光芒を纏った光が、赤い閃光に弾かれては消える。
打ち合うたびに手に重い感触が残った。それどころか、打ち込むだけで逆にこちらの得物が、手がダメージを負ってさえいる。
このままではジリ貧だ。
幸い、相手は受けるので精一杯なのか、それとも遊んでいるのか、自ら攻撃を仕掛けてこないのだ。
二合、三合と斬り結び、僅かに開いた空白を利用して、一歩後退する。
刹那、酸素を取り込み、全身に精霊の加護を走らせた。
「死ねぇえええええええっ!」
閃く剣閃。
素直に急所を狙う振りをして手首と周辺の動脈を狙い斬るつもりだったのだが――攻撃が届く一瞬の合間、加速され引き伸ばされた知覚で、シルフィーはあり得ないものを見た。
動いたのだ。
少女の瞳が、振るわれる刃を追うように。
驚くことに少女はコンマ数秒単位で変動する刃の動きを予想するのではなく、見てから、弾いたのだ。
それは最早、人になせる業じゃない。
目の前にいる絶世の美少女は、少女の皮を被った正真正銘の怪物だった。
「くっ、化け物めっ! 風の精霊よ――!」
接近戦では分が悪い。
そう結論付けたシルフィーは悪手とは知らず風の精霊の刃を飛ばし、土煙を巻き上げ距離を離した。
砂塵が舞う。視覚など役にたたぬほど激しい砂の竜巻が充満した。
そんな中放たれる見えないはずの刃に、再び赤い斬撃が走る。
「終わりか?」
まるで馬鹿にするような声が、土煙の奥から響く。明らかにこちらを見下していて、油断している声色だ。
シルフィーは僅かに口角を釣り上げる。
「まさか――」
明らかに油断している。
そうであるならば、チャンスはあるはずだ。
粋がっている少女を見て、後退すると共に風の刃を放ち、さらにその奥に隠して本命の短剣を投擲した。
砂煙のせいで見えずらく、それでいて風に隠れる冷酷な攻撃だ。うまくいけばこれで倒せる、一瞬だがそう考えてしまったシルフィーの思惑は――余りにも甘い想定だったことを知る。
晴れ渡った景色の先で佇む少女は風の刃を切裂いてはいたが、投擲した刃のほうは避けるでもなく、防ぐでもなく――指と指の間で受け止められていたのだ。
精霊の加護を受けた投擲は、音速の領域に達してもおかしくないというのに。
あり得ない。
むちゃくちゃだ。
このままじゃ勝てない、そんな思考が脳裏によぎる。
圧倒的な戦力差に、逃亡するしかなくなった状況だったが、突如として乱入する声があった。
「シルフィー! 独断専行はよせと言っただろうが!」
小隊長と、部隊の男がシルフィーの横に佇んだ。
残り二人は木の陰で弓を構えている。
これは、唯一無二の好機だった。自らが馬鹿にしていた相手だが、時間稼ぎくらいは任せられる。
「三十秒だ、時間を稼げ」
「ちょ、おいっ――」
声を聞いている暇はない。
ただ意識の水底へ、シルフィーは沈んでいく。
辺りの声も、争う声も――最早聞こえることはない。
どこからともなく、蒼い風が渦になった。まるで突発的な竜巻が生じたような強い風だ。
浄化された清涼な空気が辺り一面を埋める。吹きすさぶ風が重なり合って深い音色を奏でる。
「いいさ、好きにするがいい――」
声にひかれて目を開けば、シルフィー以外の者は皆等しく倒れ伏していた。
目の前の相手は、待っていたのだ。
その気になれば、無防備なシルフィーを容易く殺せたはずなのに。
両手を組んで、全力を出してみろ、とそう言わんがばかりに、少女はただ佇んでいた。
(敵の癖に、生意気な――あの世で後悔しろ――!)
心を乱すのはそこまでだ。
空には彼女を呼ぶ準備が整っている。
中空に生じた玉座を、圧倒的な存在感が埋める。
「無限の蒼穹に住まいし王――汝が意を我が前に示せ――破軍の暴風、無常の鉄槌――汝、名を――」
だが、そこで――空の気配が霧散した。
澄んだ青空も、清らかな空気もなくなっていく。
目の前の少女が不思議そうに小首を傾げているが、シルフィーはそれどころではなかった。
これは、明白な裏切りだ。
「う、そ……なんでっ! なんで力を貸してくれないのっ!」
ただ、呆然と苛立ちを空に向けた。
だが、返答はない。
「答えて! 答えなさい! シルフィード!!」
呻くようなシルフィーの声以外に、響く音はない。
「なんだ――つまらないな」
「かっ――!」
酷く落胆した声が少女の耳に触れると同時。シルフィーの意識はあっさりと途切れるのだった。




