不吉を告げる依頼
母は確かこう言った。
生きて、と。
生きなさい、と。
そして、母はこう続けた。
貴方は悪くない。
ネロはちっとも悪くなんてないよ。
だから、
幸せになって、と。
私のせいで、死んでしまうのに――それでも母はそんなことを言って、微笑んでいた。
その笑顔が忘れられなくて。
どうして笑顔だったのか分からなくて。
少女は少しでもその理由が知りたくて、口元を歪めて見せるのだ。
笑えば幸せになれますか、と。
◇
「ぅえええええええええええ! こんなネロと変わらないちんちくりんが、ミナリア様!?」
ネロの絶叫が無音だった街路にこれでもかと響き渡る。
「かか、いかにも」
「うっそだぁ! おじぃが言ってたもん! ソーラスは危険だ! 一家の前では無理にでも笑ってやりすごせって!」
ネロは自称盗賊である。
知っていても何ら不思議でないだろう。
七国の暗殺一家と言えば、七国内外問わず、その手の仕事を生業とする者には恐怖の象徴ともされるのだから。
特に、その長であるミナリアについては、その名だけが広まり、根拠のない噂が後を追って伝播しているのだ。
齢七百を超えるはぐれ者の耳長族であるだとか。
禁忌の魔術に手を染め若返りを繰り返した老婆であるだとか。
人の世に混じりこんだ魔に連なる者であるだとか。
その名は偽り、東方にて武術を納めた大男であるだとか。
だが、眼の前にいるのはネロと似たり寄ったりの背丈しかない少女なのだ。
疑うのも無理はない。
「己の目で見たもの以外信じるな。暗殺者の基本じゃて」
「だとしたって、子供じゃん!」
「これ、我はこう見えてもおぬしよりもよっぽど長い年月を重ねておる。年長者は敬うものぞ、獣人の娘よ」
「ぅぅう。おじさん……」
ミナリアの視線に耐えかねたネロが助けを求めてデュランを見てくる。
「おばあちゃんとでも呼ぶと良いさ――」
デュランが言うと、ミナリアの顔に皺が寄る。
地雷を踏んだな、とデュランが思い至った次の瞬間。ミナリアの姿がかき消えた。
「――口の悪いガキは、死ね」
「ぐっ――!」
恐ろしく冷えた声と共に放たれた回し蹴りを大剣の腹で受け止めた。
すると、全身が軋む凄まじい衝撃が伝わるとともに、デュランを支える街路のほうが負荷に耐えられず陥没するはめになった。
あの小さな体のどこにこの化け物染みた力があるというのか。
最近出会ったばかりの忌々しい化物といい、目の前の不愉快な女といい、つくづくデュランの出会う少女は異常である。
愛らしい外面の奥に、とんでもない化物を隠しているのだから。
「ふん、牙は抜けたが腕は相変わらず、か。安心したぞ、坊や」
「何をする、クソババア」
「はっ――仕置きが足りんか、老け顔ジジィ」
これで、本人は戯れのつもりなのだから、一層性質が悪い。
隣ではネロが過去の言動を思い出し、いつ自分に暴力が飛んできてもおかしくないと思い至ると、病人のように青ざめていた。
「まったく、街中ではしゃぎすぎだな――」
砕けた街路を見てそう言うと、ミナリアは悪びれずに言う。
「かかっ! 我の街じゃ、どう扱おうと我の勝手じゃ」
随分と自己中心的な支配者である。
この街に住む憐れな住民に思わず同情したくなってきた。
「…………」
そんな二人のやり取りを、すっかりと委縮したネロが見つめていた。
ミナリアは柔らかく笑い、口を開く。
「そう脅えるでない、獣人の少女よ。我は子供に優しいと良く言われる」
「は、はい! お、脅えません」
と、ミナリアに対しては何故か恐怖心むき出しなネロにデュランは疑問を抱く。
なにせ、あれほどまで平然と死地に飛び込んできたネロなのだ。一歩間違えればデュランに殺されるあの場面でも恐怖を抱かなかった少女が震えるのはミナリアの悪評を加味しても些か納得がいかない。
「ビビりすぎだ。あの時の余裕は何処にいった?」
「あの時?」
だが、ネロはきょとんとして不思議そうに首を傾げる。
しばらくして、デュランに刃を向けてきた時のことだと思ったのか、ネロはデュランの疑問を解くように口を開いた。
「ああ、だって、おじぃが言ってたもん。頼りにできる人がいるって! それに――」
偶然でしかないはずの出会いに、ネロの言葉が含みを持たせていく。
「それに?」
「それに、おじさんは優しそうな匂いがしたから!」
優しい?
誰のことを言っているのかは知らないが、目の前の馬鹿は盛大に勘違いしているらしい。
「かかっ! 随分と懐いておるよのぅ~」
「ふん――で、わざわざ一目を避けて接触してきて――何の用だ、と尋ねるべきか?」
先ほどのネロの発言も気にはなるが、それ以上に気にするべきことがあるだろう。
散々と言っても小手調べだろうがミナリアが暴れて、それでも人の影は一切ない。
こうなることは既に予定通りで、人払いを済ませた上でデュランに接触してきたのだ。
過去の経験からもどうしても嫌な予感は拭えないが、このまま耳を閉ざしてソーラスを出て行くこともできないだろう。
だから、諦め混じりにデュランは問うのだ。
「なに、坊やに一つ――依頼を持ってきただけじゃ――」
依頼、という言葉はこれ以上ないほど不吉が篭っているように思えた。
シドニスのクーデターを始め、ミナリアの依頼はまともなものが一つとしてない。
「断わる」
デュランは間髪入れずに即答で返す。
だが、そんなデュランの態度さえもお見通しだったのか、ミナリアは気味悪く笑っていた。
「いいのかぇ? わざわざ我の街に来て、成すべきことがあるのじゃろう?」
そう言って、ミナリアの視線はネロへと移った。
デュランの目的は筒抜けで、脅迫するような鋭い視線がデュランの元へと帰ってくる。
裏で意図を引く、とまでは言わないがデュランがこの街に辿りついたのも、この女の悪巧みのせいなのかもしれない。
「――何をさせたい?」
「かかっ。そう身構えるでない――いつものように、坊やは暴れるだけでよい――」
酷く間延びした声のあと、一拍の不自然な間が開く。
「――ただ、此度は少し大きな祭りになるやもしれぬの」
「此度も、の間違いだろうが」
「かかっ、ならば言い直そう。お遊びは終わりだ、と。時が来た、と。盛大に、祭りを始めるぞぇ」
かつての記憶を思い起こしても、たった一度たりともデュランが垣間見たことさえない凄惨な笑みが浮かんでいた。その不気味な笑みにデュランの勘が警鐘を鳴らす。
これ以上ないほど、厄介ごとの香りがする。
以前のデュランならば、喜々として乗り込んだだろうトラブルに今は僅かな逡巡があった。
そのデュランの逡巡を遮るように、クイっと服の裾が引っ張られた。
視線を下げ、少し後ろを振り向くと、不安げな顔をしたネロがデュランを見上げていたのだ。
「どうした?」
デュランの言葉に、ネロは悲しそうに視線を下げる。
そういえば、デュランがネロのことを村々で押し付けようとしたときも、そうやって俯いていたような気がする。
「…………ネロのせいで……おじさんが迷惑、してる……?」
罪悪感で、潰れそうなそんな顔。ネコミミをしゅんと垂らし、今さらそんなことを言うネロ。
幼き日の自分が少しだけ、頭を過ぎった。
それは子供がしていい顔じゃなかったのだ。唇を歪めて、頬を吊り上げて、笑おうとして、失敗したそんな顔。
もしかしたら、見ないようにしていた少女の顔には、デュランに甘えてくるたびに、言いようのない罪悪感が浮かんでいたのかもしれない。
「……はぁ…………」
声に出して、ため息を一つ。
そうしてポンと大きな手で、乱雑にネコミミを撫でてやる。
子供の頃、デュランがそうされたように。
「にゃっ! にゃはは、くすぐったいよ、おじさんっ!」
「迷惑なんぞかけっぱなしだ。お前に付き纏われると鬱陶しくて仕方ない。街に入るたびに変質者扱いされるし、うかうか戦いにもいけない。いっそどこぞの少女愛玩趣味者に押し付けてやりたいとさえ思ったが――――だが、まあ、子供の頃くらいは我侭言って迷惑をかける――それくらい許されるべきだろう。お前はまだ、十歳なのだろう?」
そっぽを向いて、デュランが言う。
デュランが愛情を失ったのは七歳の頃、捨てられたのは十一になった時だ。同じ道を目の前の少女が歩む必要はない。
横を向いたデュランの視線を追うように、ネロがデュランを見上げていた。
「――おじさんっ!」
全力で、体当たりするかのようにネロが飛びつく。きっとデュランでなければ地に倒れていたと思うほど強い衝撃を体に感じた。
「しがみつくな」
「やっ!」
「離れろ」
「いーやー」
「お前なぁ……」
「甘えて良いんだよね! ネロはおじさんに甘えます。甘えて、甘えて、甘えまくるもんね!」
「おじさんじゃない、お兄さんだ」
投げやりにデュランは言う。
だが、少女の返答はデュランの予想と違っていた。
「うん、デュランお兄ちゃん――」
「っ――!」
旅をするようになって、恐らく初めて見るだろうネロの笑顔に、デュランはただ気押された。
「なんじゃ、随分と楽しそうじゃのう。我にも甘えて良いぞ?」
「プイっ!」
「かかっ、酷く嫌われたものじゃのう」
腰に抱きつくネロを引き離しつつ、デュランはミナリアへと視線を向ける。
「で、今度は何を企んでいるんだ――」
一瞬、ネロを見据え、再びミナリアを強く見据える。
「――色々と、しでかしてくれてるようだが」
肉食獣よりも凶悪なデュランの視線は、見つめられるだけで射殺されるような冷たさを持つが、ミナリアは動じるどころか笑みを深める。
「詳しい話は我の城で話してやるさね――」
ミナリアは含みを持たせて言葉を続けた。
「ただ、まあ、旧友との約束を果たすだけさね――そのためにまず――この淀んだ国々を滅ぼすとしようぞ」
彼女は言った。
まるでそれが、さもなんでもないような事だと言いたげに。




