少女、二人
柔らかな絨毯が敷かれ、目を引く調度が作り上げる道をアイシャは静かに歩いていた。
視線は迷うことなく前だけを見据え、微塵も移ろうことはない。
目指す場所へただ真っ直ぐ、アイシャは歩を進める。
頭の中は一人の少女のことだけでいっぱいだった。
二人を結びつけたものは、それはもうなんてことはない、ただの偶然だった。
特別な理由なんかない。
そんなもの必要とさえしない。
ただ出会って、温かな手を差し伸べてくれたことをアイシャは昨日のことのように憶えている。
あの日の出会いがなければ、アイシャは前に進めなかったと思う。
だから、イズナには感謝してもしきれない。
でも正直に言えば、アイシャは友達になって欲しい、と誰かに頼み込んだことが何度もあった。
孤独が辛くて、勇気を出してそう言った。
だけれどその度に、嫌そうな顔をされた。
無理やり繕ったであろう笑みで手を差し出された。
一緒に遊べていた時もあったけれど、そんな水面の上に張られた薄氷のような関係はすぐに瓦解して、馬鹿にされて、いじめられて、一人に戻った。
アイシャと遊んでくれた誰かは、喜んでくれなかった。
アイシャと会話してくれた誰かは、楽しんでくれなかった。
笑って……くれなかった……。
そうして気づかされたのだ。
ああ、なんだ……。
彼らは皆、最初から友達じゃなかったんだな、と。
アイシャは初めから一人ぼっちだったんだな、と。
空しくて、悲しくて、帰り道小石を一人蹴飛ばした。
イズナのように驚いて、戸惑って、それでも差し出した手を優しく握り返してはくれなかった。
困っていると知ると、真摯になって考えを巡らしてくれたりなどしなかった。
だから――二人で過ごしたちっぽけな時間は、アイシャにとっては掛け替えのない宝物なのだ。
もう一度。
どうしても、もう一度。
会って、その名前を呼びたかった。
たった一人だけの友達の名前を。
「――――イズナ」
返事はなかった。
薄暗い部屋に置かれた燭台の蝋燭がやんわりと光を運んだ。
仄かに照らされた広い部屋の中心に置かれた天蓋付の寝台が、翳るように少女の顔を蔽い隠そうとしているように見えた。
少女の周りには、二つの人形。
話す事を止めた二つの人形は、少女の瞳から零れる雫を受け止めるように、両の手でぎゅっと少女を抱きしめていた。
「…………貴方に……出会わなければよかった……」
顔は伏せられたままだった。
イズナはその瞳をアイシャに向けることなくそう言った。
「……イズナ…………」
「…………帰って……!」
「イズナ、話を、聞いて――」
「…………帰って! アイシャの顔なんて見たくない……!」
愛おしそうに人形に身を預け、差し出された手に己の手を重ね置き、イズナは苦しそうに言葉を吐き出す。
「…………私は……お父さんとお母さんと一緒にいられればそれでよかった……お姉ちゃんと一緒にここにいられればそれでよかった! アイシャなんていなければよかったんだ…………」
力を失った二つの人形は、どこか冷たい面持ちだった。
そうなってさえ、イズナは人形に縋りつき身を預けていた。
闇の中から現れ出でた瞳の下は、真っ赤になって腫れていた。
口から吐き出した吐息が何時になく弱々しい。その肩は何時にもまして小さいように感じ取れた。
「アイシャは、イズナと出会えて嬉しかったです。あの時アイシャのことを特別にしてくれて、本当に嬉しかったです」
アイシャは穏やかにそう言った。
だけれど、それだけではいられなかった。
「でも、さっきの言葉は嘘です。イズナは――ずっとずっと嘘つきです」
「何を、言うの……?」
「何がお父さんとお母さんといられればいい、ですか……! 何がお姉ちゃんと一緒にいられればいい、ですか! なら、どうして!? どうしてイズナはあの日、あの場所にいたんですか!?」
アイシャの脳裏には鮮明に、ブランコに座っていた少女の姿が焼きついている。
彼女は最初の最初からずっと誤魔化していたのだ。
辛いのに。
苦しいのに。
なのにそれを言わなかった。
でも事実は違う。
だって彼女は言っていたのだから。
『……ここには誰もいないの…………一人で座って、一人で遊んで、一人で考えて、一人で答えを探した、そんな場所。アイシャも一人、だから特別』
そう言っていた彼女の言葉通り、イズナはいつでも孤独を抱えていた。
あの場所で一人でいた。
どうしようもなく、一人だった。
どうすることもできず、一人だった。
同族だったから、なのかもしれない。
それが、イズナと友達になりたいと思った一因であることは誤魔化しようもない事実だった。
「イズナが一人じゃなかったら、私とイズナは出会ってなんかいなかった! いい加減、嘘で誤魔化さないでくださいよ――! 私は貴方を一人にしておきたくない! 一人になんてしておけないよ! イズナが嫌いって言っても、帰ってって言っても絶対絶対帰ってやんない!! 私は――」
アイシャは目一杯息を吸い込んで、これでもかと声を張る。
「――イズナの友達だから!!」
「―――――るさい」
小さな声が、何故か強く響いていた。
座っていたイズナがベットの上で立ち上がる。
「……うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい、五月蝿いっ!!」
叩きつけるように、苛立ちをぶつけるように、傍にあった枕を投げ付ける。
物静かだったイズナが感情のままに叫んでいた。
「……どうせ! どうせ貴方も…………ナハト様とか言うのが大切なんでしょ……ならどっかいってよ! 私は貴方なんか要らない! パパ、ママ、追い出して!!」
「っ――!」
アイシャに向かって二体の人形が迫る。
回避という選択はない。アイシャより二つの人形は速かったからだ。
なら、受け止めるしかないだろう。
アイシャは刻一刻と迫る脅威を前にしても、落ち着いていた。
そして冷静なまま、深く、深く心を通じさせる。
それが精霊魔法を扱う上で最も重要なことだ。
意思を押し付け、抑圧しただけでは彼らは応えてくれない。
真摯に、対等な存在として助力を請う。
「――風よ、阻んで」
アイシャの突き出した手のひらから巻き起こる風の渦に男の拳が突き刺さった。
「っ! ぐっ!」
重い。
渦となって刃を纏っているはずの風がジワジワと削られる。
その隙を狙って、アイシャに迫ったのは小さな光の玉のような物だった。
(魔法?)
一瞬、そう思って、すぐに間違いだと気づく。
それは発光しているが、魔法のような現象ではなく質量を持った物質であった。
「爆弾っ――!」
正確に言えば、それは臨界点を超え、魔力暴走を起こした魔石の爆発である。
片手で拳を受け止め、もう片方の手にも風の渦を発生させて、アイシャはなんとか攻撃を受け止めた。
髪が爆風に靡き、手に痺れが伝わる。
押し寄せた衝撃に、思わず苦悶の声が零れる。
だが、アイシャもただ受け止めているだけではない。
深く意識の底から訴える呼び声に応えた精霊が小さく収束を遂げる。
吹き抜けるは一陣の風。
それは、アイシャの意思で暴風となって猛威を振るう。
弾き飛ばされた二つの人形が壁に深くめり込んだ。
軋むような機械音が痛々しく響き渡る。
「ぱぱっ! ままっ!」
「違う! 違うよ……イズナ……!」
口にするのも辛い。
だけれど、口にしなければならないのだ。
「そんなのはイズナの両親じゃない。血も流さない、悲鳴も上げない、言葉も発しない……イズナの両親はもう……いないんだよ…………」
「嘘っ! 死んでなんかない! 生き返ったもん! 生き返ったんだもん!」
何を見ているのかわからない虚ろな瞳が辛うじてアイシャの方を向いた。
子供が癇癪を起こしているように、叫び散らすイズナにアイシャは言う。
「死者はどんな力を使っても生き返ったりしない! ナハト様にできないってことは、誰にもできないんだよ……!」
「またっ……ナハト…………そんな酷いこと言うアイシャなんて嫌い――大っ嫌い!」
イズナが右手を掲げる。
その瞬間。空間を震わせるほど濃密な魔力が全身から溢れ激しく光を発する。
「――てんがい(天鎧)――しょうかん(召喚)――――」
舌足らずな声と共に振り上げた手を――天を握りこむように掌握した。
少女の持つ魔力が鎧へと変化していく。
それは金属であり、布地であり、光であり、闇でもある。
形容することが難しいドレスのような鎧が、凡そ戦士が帯びるには似つかわしくない神々しさを持って顕現した。
「――せきわん(隻腕)――かんそう(換装)――――」
イズナの右手に魔力が集う。
濃密な光を放つ右手を突き出す前に、イズナは震えた声で言った。
「…………もう、帰って……私は――偽りでもいいから――一人でもいいから……」
「嫌です、イズナを一人にしない」
アイシャは頑なに首を振る。
強大な力を前にしても、鋼の意思は微塵も揺らぐことはない。
「龍の従者は自分の言葉を曲げたりしません」
「――ばか――――」
右手に集った魔力が目に見えて色をつけた。
次の瞬間。
イズナはアイシャを持ってしても捉えきれないほどの速度で懐へと潜り込んでいた。
――はじょうつい(破城槌)――
踏み抜かれた足場が深く陥没していた。震え上がる力の奔流が小さな体を通して解き放たれる。
水面を激しく打ちつけたような破砕音が響き、撃ちだされた衝撃が、華奢なアイシャの体をあっさりと貫通して、屋敷の壁を貫いた。
幾重にも重なる衝撃の嵐。
吹き飛ぶアイシャと共に圧壊した床と壁が爆弾のように破裂する。
「――ぁ――かふ――」
鮮血を吐き出して、乱回転するアイシャは辛うじて意識を保っていた。
打ち抜かれる瞬間、大気の壁を張った。
だけれどそれはあっさり砕かれた。
焦るアイシャはインパクトの瞬間に水膜を作り出し衝撃を奪い取ったつもりでいたが、気がつけば空を飛んでいた。
(…………痛い、それになんて威力――)
アイシャは空で風を纏う。
光と共に流れる緑色の曲線を足場にアイシャは空に佇んだ。
「…………なんで……そんな目にあってまで、私に構うの――帰ってって言ってるのに!」
ナハトは言っていた。
孤独は化物だと。
アイシャもそれを知っている。だから一人になんてしておけるはずがない。
「……人の話はちゃんと聞いてよ…………理由ならもう言った。それでもイズナが話を聞いてくれないなら、力づくで聞いて貰います!」
そう言ってアイシャは風の刃を所狭しとイズナに放った。
逃げ場など探す余地もない。
屋敷の壁や天井を切り刻みながら刃が走る。
どう動こうと、百にも届く風の刃を避けることは不可能だ。
だが――
最初から彼女は逃げる必要などなかったのだろう。イズナは一歩たりとも動こうとしていなかったのだ。
天に浮かぶ一等星のような瞳が怪しく瞬くと、アイシャの渾身の連撃があっさりと消えてしまった。
絶大な威力を持つ精霊の魔法が、霧のように霧散して――光となって瞳に集う。
淡い魔力の輝きは彼女の纏う鎧に還元されているようにも見えた。
「…………無駄……」
「…………」
だが、アイシャにも動揺はなかった。
静かにイズナの瞳を見据える。
それは既に知っているのだ。
敬愛する主が、イズナの瞳の正体を教えてくれていた。
「――破魔の星眼」
元々はプレイヤーではなく敵キャラや味方のNPCが手にしていた技能だとナハトは言っていた。序盤で出会ってしまった魔法職は逃げ一択であるらしい。無論弱点もあるし、それほど強力な魔眼ではないと断言していたのだが、それはあくまでナハト基準であることをアイシャは重々承知していた。
だから主のように楽観視はできない。
簡単に思いつく対抗策は二つあった。
一つは吸収できないほど強大な魔法をぶつけることだ。
でも、それはアイシャには少しハードルが高い。
だから選んだのはもう一つの方法だった。
「私に魔法は通じない――」
「違う――少なくとも貴方の力は絶対じゃない」
アイシャがそう言った瞬間。イズナの立っていた場所が落ち込んだ。
風の刃は言わば目くらましの囮であったのだ。
魔法に対して強いアドバンテージを持つイズナの視線を釘付けにするためにわざと派手に攻撃してみせた。
必然的に意識が上に向かってしまうと、注意が散漫になってしまう場所ができる。
アイシャはイズナの立つ足元に仕掛けを施していた。
「っ――!」
床だけでなく、建物を支える地盤までも変形させたアイシャ特性の落とし穴にイズナは落下した。
地の精霊は大仕事に満足したのか、笑いながらイズナを向かえた。
「ぐっ――」
「瞳に映った魔法を、魔素に変換して吸収する魔眼――つまり目に映らない場所で変化を齎せば吸収されることはない――万能じゃないし、化物なんかじゃない!」
落下地点には土の槍が何本も待ち構えていた。
それだけでは終わらない。
全方位の壁からも土槍が無数に狙いを定めていた。空中では身動きは取れない。今度こそ本当に逃げ場所はない。
だが、上手くいったと浮かべていたアイシャの笑みが一瞬にして凍りつく。
「なっ――!」
正面からの魔法はイズナの瞳に映り込んだ瞬間、力なく崩れ落ちた。
それはまだいい。
だが、イズナの纏う鎧は視線の及ばない背後からの攻撃さえもあっさりと弾き返して見せたのだ。かつて戦ったユーリの武技を思い出したアイシャだが、イズナのそれはさらにその上をいっているように思えた。
悲鳴を上げそうになる針地獄の中でさえ、何の脅威もないと言いたげにイズナは悠然と歩を進めているのだ。
(――は、反則です、あの鎧っ!)
余裕のあるイズナとは対照的に、アイシャには動揺が走る。
対等には戦えていたと思っていた。
だが、イズナは予想以上に強いのだ。
鎧はアイシャの攻撃をあっさりと無効化するし、信じられない威力の攻撃はもう二度とくらいたくない。だが、アイシャの今の力では、正面からの魔法はイズナに利益を与えるだけで終わってしまいそうだった。
「…………無駄、アイシャじゃ私に勝てない――」
どうすればいい?
大精霊を呼ぶべきなのか。
彼らならイズナの魔眼に対抗できるとは思う。
だけれど、彼らは一長一短に呼べるものではない上、召喚すべき場所を整える必要がある。
時間がかかりすぎるのだ。
その隙を狙われるに違いない。
「――――逃げてばかりのイズナが私に勝てるわけない」
自らを奮い立てるように言葉を発する。
「――かんそう(換装)――てんまのくつ(天馬の靴)――」
だが、そんなアイシャの決意を嘲笑うかのようにイズナの魔力が溢れ出す。単純な魔力量でさえアイシャに優るとも劣らない。
燐光と共に顕現した羽の生えた純白の靴がイズナの体を宙に上げる。
「――しょうかん(召喚)――――そうきゅう(蒼穹)――」
蒼く、輝かしい一挺の弓。
不可思議なことにその弓には弦が張られてはいなかったし、そこには放つべき矢も存在していなかった。
だが、イズナがそこに細い指を添えたその時。
鐘のような高い音色が響いたのだ。
虚空を掴むようにそっと手を伸ばす。そこには彼女が引くべき弦が――光の弦が存在していた。
燐光が駆け抜け、魔法陣が広がった。
砲塔のように包み込まれた魔法陣の奥に、切っ先を向ける矢がアイシャを真っ直ぐ見つめていた。
「アイシャ…………ないでね……」
引き絞られた弓が彼女の手から放れた時、何の抵抗も許されないまま、アイシャの視界は光の奔流に埋め尽くされた。




