黒幕の真意
冷たい空気が足元から這い上がってきたかのようだった。
ティナは今さらのように何かを語りかけてくる魔族を油断なく見据え、腰溜めにいつでも抜刀が可能なように構えた上で口を開いた。
「ど、どういうことですか?」
「――ほんと人間ってバカね、少しは自分で考えたら? ――理由のない正義が存在しないように、意味のない悪なんて私が知る限り存在しないのよ」
ティナの言葉を心底バカにしたようにアナリシアが言った。
「私は貴方という道具が欲しかった――正確には貴方の肩書きがかしらね、火竜の巫女さん」
ティナは向かい合ってみて、毒気を抜かれるような気分になった。
アナリシアはお茶会にでも参加しているような口ぶりでティナに語りかけてくるのだ。
「でも失敗しちゃった――支配の呪は通じない、命を対価にしても応じてくれない――なら最後は誠意を持ってお願いしましょう」
順序が逆だ、逆、と言いたくなってグッと堪える。
代わりに胸に押し寄せた不満をぶつけた。
「今さら何を――! 貴方が今まで何をしたのか分かっているのですか!?」
責めたてる様なティナの物言いに不機嫌そうにアナリシアは視線を寄越した。
「何をしたか、ね――強いていうなら趣味と実益を満たそうとした、かしら――ねぇ、ティナ貴方はいったい何をしたのかしら――エストールが誇る火竜の巫女さん」
語りかけるようにゆっくりと。
言葉が静かに場を埋める。
「まあいいわ――それはそうと、貴方は小さい頃教わらなかったかしら? 物は大切にしなさいって――」
「…………」
何を言わんとしているのか理解できずに、ティナが口を噤む。
「――私はあるわ。というより、私が幼少期に受けた言葉の中で価値のあったものはそれだけ。ねぇ、知ってるかしら――この世の生物は生まれたその時から常に闘争の中にいるの」
彼女の元に、二つの人形が降り立った。
中年に差し掛かった男性は、老いなど全く感じさせない壮健さを見せ付けるかのように屹立し、その傍に淡い金糸の髪を携えた女性が寄り添う。
「これはね、私の父と母だったものよ――今はもう、ただのお人形だけどね」
「ッ――! 貴方は――!」
一瞬、呼吸が止まった。
それほどまでに、信じられなかったのだ。
彼女の操る人形が、実の父母だとそう告げた事実が、ではない。
ティナが真に驚愕したのは、まるで玩具でも見ているように、冷静に、淡々と、そう告げた人間性の欠如した口調だった。
全身が無意識に震え上がった。
暴力とは違う、根本的な心の闇に意味の分からぬ恐怖を感じた。
ティナは孤児故に実の両親を知らないが、育ててくれた教会の神父は今でも父親のような人であるし、共に育った子供たちは家族同然の存在である。
自らの命よりも大切にしたい者達なのだ。
それを、こうも無関心に、人形にしたと。
生きた肉を弄くって、自分の物だと自慢げに言う目の前の存在が、理解できなくて恐ろしい。
とても理性を持った生物と思えなかった。
「こっちの男――普段は髪の奥に隠れているけど、よく見ると、ほら」
言われるがままに視線を向けると、何かが切り落とされた後が頭部にあった。
「角……?」
「そう、私のことを貴方は魔族の女と思っているようだけれど――そうなるように王子に情報を渡したけれど――でも正確に言えば私は人間と魔族のハーフよ」
「……嘘……貴方が人間…………?」
他の事は頭に入ってこなかった。
それは今日一番の衝撃をティナに与えた。
残忍で、暴虐な女魔族――それがアナリシアのはずなのだ。
「失礼ね、でもいいわ。貴方には全てを話してあげる――納得して、理解して、協力しなさい――」
そこに果たして共通の常識があるのか。
会話の先に妥協があるのか。
見解の一致が見られるのか。
不明なまま、ティナは話に耳を傾けた。
◇
生れ落ちて三年、自意識が生まれた頃に最も印象に残っているのは、醜く媚びる母の姿だ。
淫蕩の中に落ち、姦淫に絶叫する母の声が妙に印象に残っている。
母はエストールの貴族だった。
そんな母が、婿に向えた男は身分どころか出身さえ不明な平民の男だった。
だが、男には飛びぬけた魔法の才があり、母の強引な要望が通り二人は結ばれ生れ落ちたのがアナリシアであった。
貴族としての名はアナリシア・レィンフィル。
男の才は凄まじく、魔法ではエストールで右に出るものはいないと言われた。
だが、それも当然なのだ。
男は人間ではないのだから。
彼は人を惑わす淫魔であり、魔界から人間の世界へ派遣された諜報員であり、エストールに辿り着いた最初の侵略者であった。
最も、職務にそれほど忠実な人間ではなかったのだけれど、彼の能力は諜報に向いていた。
幼い頃のアナリシアが憶えているのは、呪いのような言霊だった。
「良いこと、アナリシア――貴方はお父さんに相応しい女に成長するのよ」
「お前が女に成ったら、お父さんが最高の快楽を与えてやろう」
そう、言われて。
それだけが、二人の注いだ愛情の正体だと知って、恐怖したのは五歳頃の話だった。理解した瞬間、胃の中の物を全て吐き出したのを今でも憶えている。喉を焼く熱さも、口の中を生めた気持ちの悪い感触も、鮮明に記憶している。
そんな両親の言葉が、アナリシアの最初の闘争だった。
タイムリミットは5年か、それとも六年か。
初潮が訪れるまでに両親を殺す。
何としても、どんな手段を使っても、殺さなければならない。
でなければ、この身が汚されるだけではない。
あの母のようにされてしまうのだ。
考えることさえ投げ打って、絶叫を上げるだけの玩具に成り下がるのだ。
そう思うと、心の底から恐怖した。
恐怖して、恐怖して、恐怖して、恐怖して、恐怖して、それでもアナリシアは戦うことを選んだ。
強迫観念に突き動かされ、狂ったように魔法を覚え、知識を漁り、禁書を盗み、武術を学び、独自の技能までも得た。
十一の年を数えた頃、アナリシアの寝所を訪れた父を、罠に嵌めて殺した。
そんな父を、技能によって人形に変え、母を殺した。
「あは――――あははははははははははははははははははははははは、いひひひひひひひひひひひひ、ひはははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
笑った。
生まれて初めて、心から笑った。
鮮血の中で。
事切れた二つの人形を愛おしそうに見つめながら。
そうして初めて、アナリシアは自由を得た。
生まれて初めての自由を手にした。
だけれど、彼女に平穏が訪れることはなかった。
「あっれー? これって、どういうことなんだろ?」
と。
声がかけられて。
酷く幼く、鬱陶しい女がアナリシアの前に現れた。
魔族の女。
人々が伝説と恐れ、忌み嫌う古代魔族。
古き、偉大なる魔族の源流。
亡き魔王の血脈、緋色姫がアナリシアの前に立っていた。
「なんだ、あんたが殺しちゃったの? ふーん、まあいいけど――じゃあ貴方が今日から変わりをお願いね」
拒否するという選択肢はなかった。
まだ、死にたくはなかったから。
魔族としてのもう一つの貌、それがアナリシア・レーゲンだった。
◇
「古代魔族が伝説? 随分と笑わせてくれるじゃない。現実逃避も大概にして欲しいわ。ちょっと歴史を紐解けば、容易く理解できるはずよ。人がどれ程残忍に彼らを迫害し、責任を押し付け、奪い取り、繁栄を遂げてきたのか――選神教は全ての魔族を駆逐したと伝えているようだけれど、事実は違う。彼らは支配領域を捨てて南方へ逃げ去った――断裂した大陸の彼方へと」
アナリシアは無感動にそう言った。
そこに感傷など存在しない、そう言いたげに。
事実を伝える、ただそれだけだとティナにも口調から理解できた。
「さて――ヒントはもう十分かしら? でもその顔じゃ、まだ分かっていないようね――ならもう少しお話しましょう。人間の領域を追われた魔族は、二千年もの間何をしていたと思う?」
ごくり、と。
音をたてて喉が鳴る。
それは最悪の光景だろう。
古代魔族の悪名は、そしてその強大さはティナも嫌というほど聞いている。
「牙を磨いていたの――憎き人類の喉下を抉るための牙を、ね――もうすぐ人類の時代は終わる」
竜と比肩するとも言われる太古の魔族。
それが人に向うとするならその先にあるのは破滅であろう。
「じゃ、じゃあ、貴方はやっぱり私たちを滅ぼすために――」
それは、ティナが想定していたよりも一層性質の悪い現実であった。
だが、そんなティナの言葉をアナリシアは否定する。
「ぷっ! あっははははははははははははははははははははははは、それこそ勘違い――言ったでしょ、私は人間とのハーフだって――当事者でもないんだから彼らのように憎しみを抱えている訳じゃない。同情もしない。当時は人類の方が賢くて、強かった、それだけなんだから」
「じゃあ、何で!?」
「決まっているでしょ? 貴方はこれから迫害される人類と魔族どっちにつきたいかしら?」
それもまた事実を告げているように淡々と響いた。
「私は私の物を大切にするの――誰かに奪われるなんて考えられない――エストールも、貴族としての身分も、この屋敷も、充足した生活も、作ってきた人形も、捨てるには惜しいとは思っているのよ――」
それはアナリシアにとっての本音だろう。
ここまで来て、嘘を吐いているとは思えない。
だがだからこそ、疑問だった。
「な、なら、どうして!? 王を傀儡にしたことも、夢の世界に覆ったことも、私にしたことも、孤児院を襲撃したことも、酷いことを一杯してるじゃないですか!?」
「決まっているわ、必要だからよ。魔族が一番に敵視する物は何かしら? 答えは簡単、それは魔族を迫害した元凶――選神教でしょう。だからまず、この国から選神教を取り除く必要があった。彼らの掲げる救いを奪い取り、洗脳染みた教育を剥奪する。そのために何もしない政治家に代わって開発特区を作った。その副作用が幻の人形。そもそも最初はベールセールとイズナに使えれば十分だったんだけど、残念ながら制御の効かない力だったから開発特区に置いていたお人形さんと遊ぶ人もいたようね――でも、大抵はすぐに夢から覚めて、本当に夢だったと語る人間が大半よ、問題ないでしょ?」
そうアナリシアは断言するように言った。
「人は説明できないものを恐れる、だから宗教は必要よ。でも人間至上主義と魔族への迫害はいただけない。人の都合に合わせた神様なんて要らない、それならまだ実在する存在を神とあがめる方がまだマシかしら? 人々にもう一つの宗教を入れ込むためにはティナ、貴方が必要だった」
「では、あの侵攻は――」
「点数稼ぎ――そもそも王国は元々グリモワール家が治めていた土地だし、彼らに返すのが道理でしょ? 王国は選神教が蔓延ってるし、私が手を出さなくても結果は同じだろうけれど」
「魔眼の少女のことは――」
「いざという時のための戦力、それがイズナ――火竜の巫女ティナ、暗殺ギルドの人格破綻者キリア、宮廷魔術師長レアーナ、貴方たちもこの国で欲しいと思った人材よ。ま、他にも貴族や騎士団、商人の有力者もいるんだけどね――国力を無駄に低下させて、いざという時にに戦えない国なんてお粗末な物でしょう?」
「…………」
「私は魔族が支配する世界になっても、私のエストールが平穏無事でいられるように手を打った――幸い彼らの王は理性的よ。だから、取りあえずは魔族の良き隣人でいられるようにしないとね――」
「で、でも――」
アナリシアは呆れるようにため息を一つ。
「認められないとでも言うつもり? 甘いのよ、どいつもこいつも、甘すぎて苛苛するわ。生きることは貴方が思うほど易しくない! 酷いことをした? 当たり前じゃない! 人は誰もが命を、利権を、その全てを賭けて闘争をしているのよ? 何もしていない愚か者が奪われるのは当然じゃない――貴方は正義を持って私という悪を討つ――でもその後に何があるの? 何も決められない政治に戻り、国民を貧しくし、選神教の往来を許す――そうなれば、待ち受けているの破滅よ?」
「…………」
押し黙るティナにアナリシアが言う。
「さあ、選ぶのは貴方よティナ――私に協力なさい――そうすれば、少なくともこの国の無事は保障しましょう」
差し出された手は近かった。
あれだけ遠かったはずの手が、傍にあるような気がした。
得体の知れなかった何かは、ティナよりもずっと戦って、抗っていた人だった。
貴方は何をしていたの?
今思えば、あの声は彼女なりの糾弾だったような気がする。
相応の地位にあって何をしていたのかと、そう問われたのだと今になって気づかされた。
「私は――――」
何をしたかったのか。
決まっている。
守りたかったんだ。
家族を、小さな幸せを。
そのためなら、この命さえ投げ打つ覚悟まできめた。実際一度ならず二度まで死にかけた身だ。
だからこそ――
「私は貴方に協力することはできません」
はっきりと、そう告げた。
「わ、私はバカだから難しいことは分かりません……でも、貴方のやり方は間違ってる――それだけは分かります」
何が正しいのかティナには分からない。
でも、ティナにはティナの正しさがある。
必要だからと犠牲を強いるやり方にティナはついていけるとは思わない。ティナ自身だけならまだしも、ティナの大切にまで必要だからと犠牲を強いることになれば、ティナは躊躇なく目の前の女を斬り捨てることだろう。
いや、間接的にはもう巻き込まれているのだ。
だからやっぱり、彼女に協力はできなかった。
「そう、少し残念だけれど――時間切れね――さようなら、ティナ」
そう言うや否や、彼女の意を受けて、怪しげに二つの人形が動き出していた。
身構えたティナにアナリシアは背を向けていた。
「へ――――?」
「――この国は惜しいけど、目的は果たしたの。だからさようなら、私は貴方となんか戦わないわよ?」
そういい捨てると、アナリシアは執事服の人形に抱えられ姿を消した。
ガクッと拍子抜けしたティナは握り締めていた柄からそっと手を放した。
「そういえば、ナハトさんも案内しろとしか言ってなかったっけ――」
唖然とした呟きが、寂しそうに響いて消えた。




