主従契約
汚い死体を地に返し、ナハトは腕の中に抱いた自分よりも小さな少女アイシャを見る。
元々は綺麗な容姿をしていたことは、土と垢、埃などの汚れに塗れた今でも面影から十分に伺えた。
ぼさぼさになってしまった金糸の髪は月の光を受けて幻想的に輝いていた。
今は閉じられてしまった、琥珀のように透き通った双眸。
痩せ細り、肉を失ってなお美しい体躯。
そして何より、その魂の輝きがナハトを魅了した。
「おい、少女よ――起きないか、おい」
この世界に来て、初めての知的生命体との接触で心が躍るが、少女は病に伏せたかのように、ピクリとも動かなかった。
「……これは、かなりまずい状態か?」
思わず、気のぬけた声が零れる。
随分と衰弱している印象は受けたが、リアルワールドオンラインのようにステータス表示が行えないので、HP、MP、SP、FP、状態異常などを読み取ることができない。
なので、何をどうすればいいのか、まるで検討がつかなかった。
「呼吸が弱い……おい、貴様、このまま死ぬんじゃないだろうな――」
少女を横たえ、心音を聞く。
今にも消えてしまいそうな鼓動は、生にしがみ付いている最後の足掻きの思えてならない。
声には出さないものの、内心では随分と動揺してしまっていた。
「――駄目だ、こんな所で終わらせないぞ――」
ナハトには彼女を救う手立てが二つあった。
どちらも一長一短だが、ナハトは自らが感じた運命を、感覚を信じる。
心臓がトクンと大きく跳ねた。
意識すればするほど、頬が赤くなる感覚が分かる。
だが、迷ってはいられないのだ。
逡巡は一瞬だ。
ナハトは少女をゆっくりと抱いた。力なく下を向いていた顔を少しだけ強引に上げ、土に汚れた桜色の唇に顔を近づけて――
「――ん」
重ねた。
同時にナハトは種族技能である龍の従者を発動させた。ゲーム時代において、それは勧誘可能なモンスター、NPCに使う技能だ。
職業に龍騎士、あるいは龍の巫女、を与え、全ステータスの強化、また魔物使いの従属と同じく、成功時にレベルアップと同じで全ステータスの回復を齎す。
ゲーム時代では、よく祝福と呼ばれている現象だった。
普通ならば、現実に存在するはずの人に使うことは不可能なはずだが、なぜかナハトにはそれが効力を発揮するだろう、という確信があった。
薄緑色の一陣の風が吹き抜けた。同時に地には幾何学模様が乱立した魔法陣が広がる。
優しげな風に包まれ、光が収まったその時。動きを失っていた喉が唾液を下して、小さく音を奏でた。
変化は劇的だった。
痩せ細っていた腕に、肉が戻った。血行がよくなり、肌に赤みが戻ってきている。痩せ細った死にかけの少女などそこにはいない。
健康体そのものの少女がそこにいて、身に纏っていた汚れさえも光の中へと消えていった。
苦しそうに少女が体を動かした後、ゆっくりと目を開いたのだ。
(あ――――)
内心で焦るナハトだが、アイシャの動揺はそれどころではなかった。
意識を失って、目を覚ませば、幻と思っていた女神に口づけをされていたのだ。
相手は神のような力を持つお方だ。薄汚い自分が触れられていることさえ恐れ多いのに、と意識が浮上して数瞬はそんなことを思いもした。
だが、そんな感傷は、悪魔の口づけにあっさりと流された。
人知を超えた造形、まるで神が産み落としたかのような美貌に蕩け、真っ白になった頭が思考を止め、もっと、もっと、と体を突き動かした。
唇だけでは我慢できず、卑しくも自分から舌を伸ばそうとした、そんな時――
「あ――――」
まるで大切な宝物が失われたかのような喪失感がアイシャを襲った。
正気に戻ったナハトが唇を離したのだ。
「いや、これは、違くて――そう、あれだ! 医療行為! 人工呼吸とか、そういうやつだ! だから断じて、おいしそうな唇を食べていたわけではない! ないんだぞー、あ――」
しまった、これでは自白である。
ナハトがそう思った時には、既に手遅れだ。
アイシャは恥ずかしそうに身をよじり、なんかこう、変態を見るような目でナハトを見ているような気がしてならない。
勿論それは自意識過剰なのだが、医療行為に交えて楽しんでいた自分がいたのもまた事実なので、罪悪感は凄まじいものがあった。
「あ、あの――私は――いえ、貴方様は一体……?」
「いや、だからあれは不可抗力というやつなのだって――ん、何だ? 俺、いや我、いや私かな――私の名前はナハト――ナハト・シャテンだ。ナハトちゃんと、呼ぶがいいぞ」
なるべく恐怖心を抱かれないように、というより好感度を下げないように言う。
「いえ、そんな滅相もない! あ、あの、助けて頂いてありがとうございました! わ、わ、私は、アイシャって言いますです!」
「そう緊張されると、こっちも困るんだが……」
「いえ、その、してないでふ!」
がたがたと震えるように言葉を発するアイシャを見て、今さらのようにナハトは思い出した。
彼女がこうも平伏しているのは、受動技能竜の威圧と龍の波動が発動していたからなのだろう。
低位モンスターを近づけないための威圧スキルで、龍の波動にいたっては抵抗に成功したとしてもレベルに応じて一定確率で相手に虚弱と沈黙のバットステータスを付与するのだった。
ナハトは発動していた威圧を切る。
すると、張り詰めた空気が緩み、アイシャが安堵したかのように大きく息を吸い込んだ。
「大丈夫か? 落ち着いたらゆっくりと話をしよう」
ナハトは、トントンと大地を二回足で叩いた。
すると、土が形を変えて二人分の椅子を象る。
手を合わせ、パンと音を鳴らすと、どこからともなく机が現れる。
土系統魔法、人形創造の応用である。本来は低レベルの人形を壁として用意する技能だが、その応用性は異世界に来て広がっていた。慣れてくれば、マッサージ完備の椅子も作れそうだった。
「座って」
ナハトは遠慮しがちなアイシャに座るよう促した。
「は、はい!」
威圧感はなくなっているはずなのだが、初対面の印象が強すぎたのかアイシャは緊張した面持ちを崩さない。
「もっとほら、気楽にして――私としては仲良くしてくれると嬉しい、君はこの世界で巡り会った初めての人だ、それでいて私の相棒でもあるのだから」
「ふぇっ! それって、どういう……」
アイシャが体をビクリと震わせて、また恐縮してしまっている。
「まあ、それは詳しく話すさ。それよりも、もう少し、仲良くしよう。お互い初対面じゃないか、自己紹介といこう」
「は、はい……でも、その……ナハト様は神様なんですよね? そんなお方に、出来損ないの私が仲良くだなんて恐れ多いです…………」
そう言うや否や、また小さく縮こまってしまった。
「神様って……少なくとも私は君と似たような存在だぞ? 半分は人間で、もう半分はちょっとおっかない化物だけどな」
ナハトは少女の過大評価に頭を抱える。勿論尊敬の眼差しは優越感に浸れるので甘美ではあるが、身内は別である。
身勝手とは知っていて、それでもナハトは少女を仲間として扱いたかった。
「君も半分は人間だけれど、もう半分は――エルフ、なのかな?」
「あ、はい。その……半耳長族です…………」
なぜか恥じるように言うアイシャ。
ハーフエルフ、またエルフは美形キャラが多く、ゲーム時代も人気の高い種族だった。まして中身まで女性プレイヤーのエルフは絶滅危惧種とまで言われていたのだ。
毎年開催されていたミスリアルワールドコンテストでも、入賞を果たしていたのは大部分がエルフだったはずだ。ちなみにナハトも一度だけ選ばれたことがあるのは密かな自慢である。見た目を変化させるアバターだけで二桁の諭吉を飛ばしたかいがあるというものだ。
だからなのか――
「綺麗な耳だな――」
リアルで見た尖った耳をナハトは賞賛していた。
思わず口から零れてしまっていたのだ。
「ふ、ふぇ……? 綺麗……? 皆と違うのに……?」
「ん? だって、エルフなんだろ。皆の者、エロフ様だぞ耳を舐めろ、のエルフ様だぞ! そりゃあ、可愛いに決まってるじゃないか。それに皆と違うっていうなら、一番違うのは私だろうな」
この世界の住人ですらないのだから。
そんな言葉をナハトは飲み込んだ。
「可愛い…………わ、私が……ふぇぇえええん……ぐす……」
「な、何故泣く! わ、私が何か、気に触ることでも言ってしまったのか……?」
「ふぇぐ…………い、いえ、違います……お父さんにしか褒められたことがなかったから、嬉しくて……私、嬉しくて……」
それを聞いて、思わず安堵の吐息を漏らした。
人気のない森を一人彷徨っていたあたり、アイシャが色々と抱えていることは、ナハトも容易に推測することができた。
「そっか、できれば色々と聞かせて欲しいな。アイシャがどうしてこんな所に一人でいたのか私は気になる」
暗がりの中、二人だけの対談が静かに開かれるのだった。