撤退戦
果たして、誰がこの情景を思い浮かべることができただろうか。
戦場に、苦悶に満ちた悲鳴が溢れかえっていた。
たった数千の軍勢から、逃げ惑いながら撤退する王国軍の姿がそこにはあった。
前線が瓦解し、指揮系統が乱れていることは一目瞭然だ。
逃げ惑う獲物を追い立る狩人のように、黒ずくめの軍勢が容赦なく進行する。
鉄の骨格に刻まれた幾何学模様、全身鎧のような魔鋼の外装に、生物のような蠢く肉――歪で、異形な人形が、その姿を現にしていた。
ケパルニア草原が血に沈む。
染色された大地に立つ勇敢な騎士の一人が、剣を抜いて殿を勤めるように人形へと立ち向かった。
「ぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
雄叫びを上げると共に鍛え抜いた肉体で、剣を振るう。
豪腕に振るわれた剣は相手が普通の人間であれば、肉を抉り、骨を断つはずなのだ――だが、腕に感じたのは手応えではなく、痺れだった。
がぃん、と。
岩でも殴りつけたかのような感触と共に、鉄の剣が、あっさりと折れた。
飛び散った鉄の破片が騎士の頬を浅く抉った。
同時に、手に持っていた剣を取り落としてしまうほどの痺れが襲った。
「ぐっ、そっ! ひっ! 寄るな、あ――――」
得物を失った騎士に人形が近づき、何の感慨もなく騎士へ腕を振るい、首が螺子切れ、宙へと飛んだ。
血に染まった身の丈ほどある腕を引き摺って、歩を進めるたびに、ギチギチと機械音が響いた。
前哨戦の弓は刺さらず、騎士の剣はまるで歯がたっていない。
ただ、一方的にこちらの被害だけが広がっていく。
見かねた魔法部隊が、前線の撤退を支えるように魔法を放った。
王国の大隊は、基本的に火属性の部隊が多い。
二十、三十と、次々に生まれた火の玉が、人形を焼きつくそうと飛来した。
血に染まった草原が、今度は火に包まれ赤く燃え広がった。
それは、人形に対して初めての有効打にも見えた。
「「やったかっ!?」」
燃え上がる人形の軍勢を見てか、歓喜に満ちた騎士たちの声が重なった。
「…………いや……違う奴ら、くたばってねーぞ!」
人形はその身を火に包みながらも、一歩、また一歩と歩み始めたのだ。
「水膜だと……」
誰かが呆然と口にした。
火の中を進む鋼の軍団は、その身に水の鎧を着込むことで、悠然と歩を進める。
命なき者の行進は、それだけで不気味だった。
攻撃しようと悲鳴は上がらないし、殺戮の中には一切の感情が抜け落ちていて、ただ乾いた瞳で敵を見つめるだけなのだ。
今度はお返しとばかりにエストール軍からの魔法が飛来する。
無論、人形のようにそれを防ぐ術は無く、数百の人間が魔法の餌食となっていた。
「お、お前ら! 引くな、戦え! 戦わんか! 我等は栄光ある王国騎士だぞ!」
そう言って声を荒げる貴族は真っ先に逃げ出している。
指揮官が逃げ出して、何故部下が立ち止まり戦うというのか。
クリスタは微かな焦りを誤魔化すように、失望と呆れの混じる視線で、撤退をしている先頭の軍団を見据えていた。
「虚栄心など捨て置けばいいものを……」
長年平和といえる状態にあった王国は帝国との小競り合いを除けば、実戦を経験している者など殆ど居ないと言っていい。軍団を率いる最高指揮官に任じられたロナルド侯爵も、ただ侯爵という高い地位から貴族の纏め役として軍の最高指揮官に任じられているに過ぎない。
それでも、こちらの軍勢は五万を越える。二倍以上の兵力差を何の障害物もない草原でぶつけ合うのだから、一通りの兵法さえ知っていれば十分だろうという判断だった。
それ故に、予想外の敵兵の攻撃を受け、苦戦の様相を呈すれば――指揮系統の脆さが足を引っ張る。
「ぐっ! どけ、どかぬか! ワシは後方で指揮を取る!」
我先にと逃げ出した貴族は前線で三千の兵を指揮する伯爵だった。
勿論兵は困惑するし、士気も絶望的に下る。
各封建貴族の混成軍なことに加え、無責任な撤退が重なり、各所で混乱が発生している。
初戦はもう、どうしようもないほど敗北といっていい。
確かに、あの驚異的な人形軍団の脅威は大きい。だが、自軍の足の引っ張り合いも酷いものがある。
ロナルド侯爵は撤退指示を出していないにも拘らず、前線の貴族が我先にと逃げ出しているのだ。
これでは、数の優位もまるで活かせない。
だけれどそれは、無理もないことで、貴族にとっては戦う前からこの戦は勝ちの決まっている戦いという認識しかなかったのだ。
兵力を取っても、武器の質を取っても、エストールと王国の差は歴然なのだから。
だからこそ、我先にと手柄を求めた貴族が一番槍をと勢い勇み、無責任に逃げ出して、今の現状があると言ってよかった。
相手が兵士ではなく、五千程度の不気味な軍勢を引き出した時点で、警戒していればもう少し味方の被害は減らせたのではないかと思う。
それに、折角数の優位があるのだ。捨石といっては不謹慎だが、壁役を置いて人形を足止めし、後方にいるエストール軍に魔法戦を仕掛ければ勝機は十分にあるとクリスタは思う。
「平和とは、ここまで刃を鈍らせるものなのか……」
日々冒険者として死線に立っているクリスタはそう思わずにはいられなかった。
圧倒的なまでに、指揮官が足りていない。これなら、貴族全員を除いて、十人長や百人長にもっと大きな指揮権を与えた方が何倍もましだろう。
現に、近衛騎士の率いる小隊は、踏みとどまって戦っている者もいるのだから。
見た目だけはご立派な鎧甲冑を着込んだでっぷりとした貴族は、自分の命に固執しすぎたあまりにこの様である。冒険者堕ち貴族だとか、女だとか、下らぬ理由でクリスタを後方に置かなければ、もう少しまともに対応できたものをと嘆かずにはいられなかった。
「無様なものだ……」
「王国貴族は皆軍略も兵術も学んでいるはずなんだけどね……」
しかし、これはそれ以前の問題だ。
長年――それこそ、生まれる以前から戦争を知らない彼らには、戦う気概そのものがないのだ。
「でも、あの黒い軍団は厄介だね……まさかエストールがあんな隠し玉をもっているなんて……」
クリスタと同じく後方で一個小隊を率いるユーリが言った。
「お前なら斬れるか?」
クリスタが問う。
「まあ、斬れるだろうけど、だから何って感じだろうね……腕が斬れようと、体を斬ろうと平然と動いてるし……一刀両断すれば倒せるだろうけど、武器がすぐに駄目になりそう……どっちかっていうと鈍器のほうが効果的だろうね」
「魔法への耐性も低くはないか……凍結させて、砕けば壊れる気もするな」
悲鳴と怒号の中で、冷静なユーリとクリスタが対策を講じる。
だが、命無き物の猛攻は、それだけでは終わらなかった。
いや、むしろここからが本領発揮と言っても過言ではないのだ。
「化物が、くたばれ!」
前線にいた強力自慢の騎士が持つ鈍器に潰されて、二百近い犠牲の上、ようやく腕が引きちぎれ、頭部が破損し、動けなくなり始めていた人形が数体だが見られた。
「へへっ、どんなもんだ!」
と、意気込む騎士の前に倒れ伏した人形を、他の人形が手を差し伸べたのだ。
ほんの一瞬、助けるつもりなのか、と誰もが思ったその瞬間。二人に抱えられた壊れかけの人形が、自陣深くに向かって投げ込まれたのだ。
「いかんっ! 避けろ!」
暴走するように激しくなった魔力の輝きを察知して発せられた警告は、どうしようもなく手遅れだった。
宙を舞う人形は異常なほどに赤熱し、矢のように上空から飛来すると同時。閃光と共に膨大な熱を吐き出しながら、爆発した。
爆音が、耳を震わせる。
爆心地は深く抉られて、破砕された砂煙が血と共に吹き上がった。
動力となる魔力と、身に纏っていた魔石の魔力を暴走させて、爆発を齎したのだ。
その威力は、絶大だ。
騎士が着込む鎧は忽ち溶け出して、衝撃に潰れた肉片が、真っ赤な花火のように四散した。
「…………」
最早、言葉を発するものはいなかった。
ただ、見たくない現実から目を逸らすと共に、兵士は我先にと敗走した。
無理も無い。
戦う相手が人ではなく人形では、士気が保つことが難しい。
人を斬る高揚感を得られない上、そもそも刃が通りにくく血も吹き出ない。無機質な戦いに、兵士は恐れを抱く。
しかも、折角打倒しても、その場で自爆されれば自らの死に繋がるし、爆弾として利用されるのだから、普通は戦いたくも無い相手だ。
さらに、相手は疲労せず、こちらは一方的に体力を消耗させられる。
休む必要のない人形は、当然四六時中戦える。
一方で、人は必ず休息を取らねばならない。
絶えず戦場に身を置き、常に強大な破壊を繰り返し、倒したとしても自爆され巻き添えを喰らう。
クリスタの氷魔法や、魔法隊の土魔法で足止めを繰り返し、撤退戦をするうちに一週間の時が流れ、五万を越えていた王国軍は、一万に近い犠牲を出した上、度重なる連戦と夜戦のせいで満身創痍となっていた。
◇
昼夜を問わず、グラサスの指揮を離れた何かが虐殺を続けている。
「これが、こんなものが戦争だというのか……」
グラサスはそう口にせずにはいられなかった。
「良いではありませんか――全ては陛下の御心のままに」
人形を指揮する女がそう口にする。
だが決して納得のいくものではない。
「…………」
グラサスはただ無言で、戦場の空を見上げるのだった。、




