別れの時
それは確か、遠い、遠い、何時かの情景――
「ふろー、りあ?」
田畑と、川と、山と、木々の家、それくらいしかないただの村の名称だ。
「おう、この村の名前だ。んでもって、アイシャの母さんの名前でもある」
父が微笑みと共に優しげに言う。
「ママのなまえ!」
まだ三つしか年を数えていないアイシャは、ただ嬉しそうにそう言った。
「ママは凄いぞ! 特に魔法はそりゃあすげー! 何度も助けられたし、あいつのおかげで一足先に開墾が進んだんだ。それに――」
その時、父がどんな顔をしていたかは定かではない。
だけれど、その声は静かで、それでいて覚悟の篭った強い響きだった。
「――ここは、いつか、ママの帰ってくる場所だ。きっちりと、守らねーとな」
「あーしゃもね、ママをまもるー!」
「おう、じゃあ約束だ――」
「うん、やくそくー!」
――いつの日にか、二人で交わした約束だった。
それはきっと、遠い、何時かの情景――
「おう、どうしたアイシャ――辛そうな顔してっと、幸せが逃げちまうぞ?」
「だって、サリアちゃんと……アルナちゃんが……アイシャのことバカにするんだもん……グズだ、のろまだって言うんだもん――」
大きな手が頭に乗った。
父は優しく頭を撫でてくれた。
「いいんだよ、言いたい奴には言わせとけ。アイシャは自分のペースでゆっくり成長すればいいんだ――そしていつか――アイシャは、アイシャを馬鹿にしてきた全員を抜きさって、誰よりも立派になれる! 何せ父さんと母さんの子供なんだからな」
「そう……かな……」
自信なくそう言ったアイシャに、父は迷いなく断言したのだ。
「ああ、そうだ。父さんが保障してやる」
「じゃ、じゃあ――大きくなったら、お父さんにいっぱい、いーっぱい、恩返しするね!」
「はは、楽しみにしとくぜ」
――それは叶わなかった、小さな約束。
◇
開発特区。
商業から学業に至るまで、王都の次世代を担うとされている新たな市場。
そこでの仕事に従事していると言っていた父は、夕刻になって日が傾けば何時も家の中にいた。
アイシャが帰ってくる頃には夕餉の支度を終え、優しげな微笑を浮かべながら言うのだ。
「おう、お帰り――アイシャ」
と――
「…………」
いつもなら笑みで答えるのだが、アイシャはただ沈黙で返すだけだった。
「アイシャ?」
それにも答えないまま、父の姿をアイシャは見ていた。
別れた時は彼は四十二才を迎えていた。
中年といっていいはずのローランドは、童顔のせいか五歳は年下に見えることだろう。鍛えぬかれた肉体も彼の若さを誇張させる要因だった。
アイシャが好きだった優しげな双眸と、楽しそうに笑う父の姿は、今、この瞬間に、確かに再現されていた。
「でも――きっと、私がこうやって黙っていたら、お父さんは取り乱して私を抱きしめながら、痛い所でもあるのか!? 薬草があるぞ、塗るか!? って言うと思うな」
そんな姿が容易に想像できて、アイシャはくすりと笑いがこぼれた。
そしてそんな姿が、アイシャの大好きな人に似通っていて一層笑ってしまう。
戸惑いながらも父は何かを口にしようとしていて、アイシャはそれを手で制した。
「いいの、喋らないで――」
優しく、それでいて強い静止に、それは口を噤んでいた。
「ほんとは――最初から何となく分かっていました――貴方がお父さんでないことを――だから、アイシャは悪い子です。分かっていて、お父さんを求めて、ナハト様も求めて、イズナも求めて、全部全部手に入れようとしたアイシャは悪い子です……」
それは懺悔に似たアイシャの独白だった。
そこに、相槌は必要ない。
ただ、吐き出して、受け止める――そのための、儀式なのだ。
『可愛かったな、ありゃ将来いい女になる』
そう、彼は言っていた。
でも、よくよく考えれば、それは余りにもおかしいのだ。
「言えるはずないんです、そんなこと――ナハト様の殺気を受けて、そんなこと言える人が人間なはずないですよね……」
傍で殺気に当てられただけのアイシャでさえ呼吸が止まって、震える以外には何もできなくなるほどに脅えたのだ。まして、直接向けられたものが、『友達か?』と暢気に質問したり、『可愛いな』などと賞賛したりできるはずなどない。
色々言い訳して、質問して、誤魔化して、それでもいいやと甘えてきたが、結局それがアイシャの父でないことは明らかだった。
一緒に生活をすれば、違和感を感じる部分は多くある。
食事を積極的に取ろうとしないこと、睡眠を取っている気配を感じれないこと、懐かしい匂いを感じれないこと、生理現象が見られないこと、ちょっと目を向ければ誰だって気づく。
きちんと、管理でもしない限り、それがおかしいと容易に気がつける。
『でも、どうしたんだ――今さらそんなとを口にして?』
そんな言葉が胸に刺さった。
優しい言葉は全て過去のものだけだった。
何一つとして、今のアイシャに対する言葉は存在していなかった。
まるで、誰かの意思を反映するように、誤魔化すだけだった。
「ごめんなさい、お父さん――」
謝罪の言葉は、目の前の彼に向けたものではない。
二十年という長い間、アイシャを支えてくれた亡き父への言葉だった。
「お父さんがママを見捨てて村を離れるなんてあり得ないのに、アイシャが旅をしているのに街に居座っているなんてあり得ないのに、アイシャはお父さんを、侮辱、しました……」
優しかった父の幻影に焦がれて。
もう一度その姿が見れるならと、誤魔化して、偽って、甘んじた。
それでもいいと、縋ってしまった。
「本当に、ごめんなさい――」
歪みそうになる顔を必死に抑えて、頭をさげた。
「でも、アイシャには今が大切です。お父さんがくれたたくさんの愛情を抱いて、イズナやナハト様と歩んでいる今が大切なんです」
だから、
もう、
十分です――
過去に浸るのは、もう十分です――と。
そう、告げた、瞬間。
ローランドの容をしたそれが、光に包まれた。
精霊が周囲を飛んでいるかのように、光は円を描くように天に上がって、小さくなって消えた後、木と鉄でできた、不恰好な人形が、アイシャの前に残されていた。
「ありがとう、いい夢が見れました――」
人形に告げたアイシャは、家を出て、すっかりと暗くなった夜空を見上げた。
「守れる方の約束は、きっと守るから心配しないで――」
そうじゃない。
それよりも、もっと言わなければならないことがあるのだ。
涙が零れても、
悲しくて泣き喚いてしまっても、
言わなければならないことが、アイシャにはある。
「今まで、言えなくてごめんなさい――――」
万感の思いを込めて、
「――アイシャを育ててくれてありがとう、お父さん――」
そう告げたアイシャの顔は、かつてないほどに、清清しい喜色に満ちていた。




