試行錯誤
朝、柔らかなベットで目を開くのは少し寂しい。
広すぎるのだ。
イズナにとって、貴族邸の豪奢なベットは広すぎる。
大の字で寝転がったとしても、まだまだ広さには余裕があった。
ふと、横を見ると、傍にいたはずの両親の姿が今はない。
きっと、朝早くから仕事をしているのだろう。
イズナは何度か瞬きを繰り返した後、手櫛で前髪を下ろし、ゆったりとした足取りで部屋を出た。
魔眼の一族、その唯一の生き残り――それがイズナだ。
人族で、魔眼を持つ者はイズナだけだと言われている。少なくとも、エストールにはもう、イズナだけしかいなかった。
夜空のような闇に、瞬きを与える恒星。
魔を拒む呪われた瞳。
エストールの戦術兵器――イズナ・レンドル・グリーンフォール。
グリーンフォル家はただの兵器だった。
最下級の騎士爵を与え、貴族として囲い、戦争に使われる、そんな兵器だ。
戦場の悪魔、呪いの騎士、殲滅のグリーンフォール、蔑称に蔑称を重ねる歴史と広まり続ける風評被害は、イズナが生まれるずっとずっと前から続いていた。
だから、イズナは学校に通えなかった。
通った所で、待っているのは迫害と暴力でしかないのだから。
家庭教師はいない。
誰も引き受けようとしないからだ。その代わりに父と母が勉学を、魔法を、戦い方を教えてくれた。
まだ、八年と生きていない。
でも、イズナは生きていく力を得ていた。
どうして父があそこまで厳しい訓練を課したのか、今になってあれも愛情だったんだな、とイズナは理解していた。
街を歩くことも滅多にない。
石を投げられたくないからだ。
血を流したくないからだ。
だから、裏道を歩いた。
人のいない場所を、探して、探して、歩いた。
嫌われた――
理由なんて必要はなかった。
嫌われた――
生まれた時から、そう定められていたのだから。
嫌われた――
見下された人々の瞳がどうしようもなく怖かった。
嫌われた! 嫌われた! 嫌われた! 嫌われた! 嫌われた!
意味もなく、嫌われて、沈んだ。
真っ赤に沈んだ。
疎まれて、憎まれて、殺された。
エストールも、国王も、貴族も、人々も、人間も、みんな、みんな大嫌いだ。
広い屋敷だ、と思いながらイズナは居場所となった屋敷を歩く。
値段など想像もできない白磁の花瓶に活けられた花が目を引いた。ただの通路もこじゃれていて、意匠がなされてある。
それを見て、これが本物なのだなと思う。
メイドがいて、執事がいて、大切な人がいるそんな場所。
イズナは食卓へと続く扉を、ゆっくりと開いた。
「あら、おはよう――待っていたのよ、イズナ――今日のオムレツは美味しいわよ、一緒に食べましょう」
そう言って、優しげな微笑を浮かべる女性。
イズナに手を指し伸ばしてくれたただ一人の人物だ。
家をくれたり、服をくれたり、居場所をくれたり、食事をくれたり、優しさをくれた、そんな人。
そして何より、父と母に再会させてくれた恩人だった。
「…………おはよう……おねえちゃん……ママとパパは?」
「先に済ませたわ――今はお仕事中よ? 邪魔したら駄目だからね」
「…………うん」
「ふふ、イズナは本当にいい子ね――」
どうして優しくしてくれるのか、そう聞いたことがある。
すると、彼女はこう答えた――
『半分は打算よ、魔眼の力が欲しいから――四分の一は貴族としての義務。エストールの利益になる少女を助けない理由なんてない。残った四分の一は貴方が子供だから。子供を助けるのは大人の役目よ。たくさん甘えなさい、イズナ』
イズナは彼女に利用されるなら、それはそれでいいのではないかと思っている。
何もなかった自分に、全てを与えてくれた彼女の恩に報いれるのなら、それでいいのではないかと思っている。
それでも、彼女は不思議だった。妖艶な髪、ひんやりとした瞳、色香を漂わせる身体。
その全てが、何故か遠い。
壁があると言ってもいい。
好いてはいてくれているけれど、好きではいるのだけれど、何故か心から甘えられず、遠慮する。
それが、アナリシアとイズナの関係だった。
「そういえば――最近帰りが遅いわね、何処で何をしているの?」
いつものように優しい音色だ。
でも、ふと目を見ると、微かな圧迫感を感じずにはいられなかった。
「…………その……と、友達と遊んでて、その……」
自分でも、不思議に思う。
どうして、あの少女と友達になったのか。
薄っぺらい、『友達』などという言葉を信用しているのか、分からない。
心埋め尽くしていた『嫌い』という感情が、何故か揺らいでしまっていて、最近では毎日あの場所で、アイシャと話をしている自分がいる。
そんなイズナを、観察するように眺めたアナリシアが、やはり嬉しそうに言う。
「そう、よかったわね、イズナ。貴方にも友達ができて――今度、私にも紹介してね」
「…………うん」
イズナは幸せだった。
願わくは、この幸せが何時までも、何時までも、続きますように――そうして、少女は停滞を握りこむのだった。
◇
殺風景で光の薄い広間の木陰は、酷く涼しい。
きしり、と木の音色が耳に届く。
音は二つ。
二人の少女は、葉を広げる枝から垂らされたブランコに座り込んでいた。
誰もいない二人だけの世界の中で、イズナは不満そうに口を開く。
「……そんなんだから、アイシャは駄目……もっと上手に甘えれば、お父さんもきっと応えてくれる」
「で、でも恥ずかしいし……」
「……アイシャはもっと積極的になるべき…………今夜は一緒にいたいの、くらい言うべき……」
むふー、と。
どや顔をキメながらイズナがいう。いや、若干口角が上がっていること以外証拠はないのだけれど、きっと彼女の隠れた瞳はアイシャを小ばかにしているに違いない。
「ていうかそれ、意味合いが違ってくると思うのですけど!」
「…………? どういう意味……?」
小首を傾げるイズナに、アイシャは押し黙った。
「――――何でも、ないです……」
「…………?」
訝しそうにするイズナの横で、アイシャは大きくため息をつく。
アイシャがここに来てからの事情を話すと、イズナは何故か先輩を気取るかのように、アイシャにもっと父と仲良くするようにと告げてきた。
そのための話もよくした。
今日も、ここに来る前にアイシャが買ってきたクレープを片手に談笑に励んでいるのだった。
「イズナは両親とは仲がいいの?」
「……無論、いい……昨日も、途中までは一緒に寝てた。パパとママは優しいから」
「そっか……」
アイシャは純粋なイズナの言葉から逃げるように、少しだけ下を向いた。
「……アイシャはお父さんと仲良くしたくないの?」
そんなイズナの言葉に、アイシャ自身どう答えるべきか、少しだけ考えた。
自分はどうしたいのか。
その答えを探すように。
「仲良くしたいです――」
じゃあ、とイズナが言葉を発するよりも先に、アイシャは続ける。
「イズナと、ナハト様と、仲良くしたいです――」
色々と、父との親愛を深めるために二人で作戦を練って、努力した。いや、あれを努力と言っていいのか、アイシャは疑問を抱かずにはいられないのだが。
『頭よしよし、おねだり大作戦』
だとか、
『手作りチョコレート大作戦』
だとか、
『肩叩きで、親孝行大作戦』
だとか。
二人で毎日話し合って、イズナがどんなことをしてきたのか聞いて、何をすべきなのか話し合って、気恥ずかしくなりながら実行した。
無意味であろうと思いながらも色々と試してみて、分かったのは、たった一つの事実だけ――
「――お別れ、しないといけないから。だから、イズナと、ナハト様と、仲良くしたいです」
「……なんでっ! アイシャは、お父さんが嫌いなの!?」
語気の増したイズナの言葉に、アイシャは静かに首を振った。
「好きだった、だよイズナ――私はお父さんが大好きだった――大好きだったんだよ」
「だったら――」
「――だからこそ、違うんだよ! イズナだって分かってるんでしょ……? たった一週間で、私が分かるんだから、イズナが分かってないはずない。私と一緒だよ、分からない振りをしてる」
「違うっ!」
アイシャは静かに首を振る。
「違わないよ。辛いよね、苦しいよね、縋りたいよね――でも、何時までもこのままじゃいられない。私は、ナハト様の従者だから」
理解することと、受け入れることは、明確に違う。
理解するだけでは胸のつっかえは取れず、苦しいままだ。頭で分かろうと心は拒絶する。
だから時間をくれたんだとアイシャは思う。
アイシャはブランコから飛び降りると、寂しさを誤魔化すように微笑んだ。
「イズナのおかげで決心できた。イズナが友達になってくれたから、私は今を見つめることができた――ありがとう、イズナ」
「アイシャ…………」
「また、明日会いましょう――イズナ」
そう言って、アイシャは狭い広間から駆け出した。




