初めての友達
涙のせいでぼんやりと霞んでいた視界。
仰向けに倒れこんでいた状態から体を起こして、そんな視界を向けた先に、綺麗な瞳があったのだ。
夜空を詰め込んだように輝く瞳。その光の源泉は、星を象ったような刻印だった。
「……綺麗…………」
思わず、アイシャはそう口にしていた。
だが、そんな瞳が見えたのは、風が走りぬけ、彼女の髪が舞った僅かな時間だけだ。
風に吹かれ移ろった雲の間に星が消えてしまうように、すぐに見えなくなってしまった。
少しだけ、残念に思えた。
髪を伸ばしているだけではなく、視線を下げて意図的に瞳を少女は隠していたのだ。
アイシャの呟きに恥じるように、視線はゆっくりと下へ向かって上がることはなかった。
少女はそのまま、半身を引くようにして横に向き、片方の手で座り込むアイシャの服の袖を掴んだ。
「…………こっち……」
弱い力がかかる。
座り込むアイシャを起こす力はそこにはなかった。
だが、おそらくは好意であろう少女の行動を拒む気はなかった。だから、アイシャは弱った体に少しだけ無理をさせて立ち上がった。
「…………」
少女は無言で手を引いて、アイシャはされるがままに、足を運んだ。
ほんの数歩の距離しかない。
辿り着いた一本の木には、不恰好な遊具が吊るされていた。
紐がかけられて、その下には綺麗とはいえないが、磨かれた跡の残る木の板が吊るされていたのだ。
「…………座って……」
大人が腰掛ければ壊れてしまうのではないか、と不安になる木のブランコにアイシャは座り込んだ。
陽が当りにくいであろう裏路地の小さな広間であっても、不思議と柔らかな温かさをアイシャは感じた。一人から二人になったおかげか、胸を締め付けていた感情の渦が少しだけ、弱くなった。
アイシャが一生懸命に心を落ち着かせようとしている間、少女は一言も喋らなかった。
沈黙の中で、何か話すべきかな、と思っていると、少女はまた小さく口を開いた。
「……初めてなの…………」
どこか達観したような物言いだった。
だからこそ、何故か響きが寂しい。
「何が、ですか?」
おずおずと、アイシャが尋ねる。
「…………私以外がここに座ったのが…………ずっと、一人だったから……」
少女はアイシャを座らせて、その背に立って顔を見せない。
音色は子供のものだ、けれど不思議とその言葉遣いは大人びているように思えた。
「……ここには誰もいないの…………一人で座って、一人で遊んで、一人で考えて、一人で答えを探した、そんな場所。……アイシャも一人、だから特別……」
感情の乏しい声だけが後ろから響いて、どんな気持ちで少女がそんなことを言うのかが分からない。
けど、特別、と言ったこの場所を、初対面のアイシャに貸し与えてくれたことは、きっと彼女なりの精一杯の好意なのだということは、何となくだが理解できる。
それがたとえ体のいい同情だったとしても、好意には変わりがない。
後ろを振り返って、少女を見ると、視線から逃げるように少女は背を向けそうになる。
そんな、少女に興味を引かれ、アイシャは口を開いた。
「わ、私は、アイシャって言います。そ、その半耳長族で二十歳で、人間で言うと多分九歳くらいだと思います。あ、貴方の名前を聞いてもいいですか?」
まるで、初めて自己紹介をしているような、酷く仰々しくアイシャは聞いた。
「…………イズナ……」
一方でイズナは簡潔にそう言うだけだ。
「…………アイシャは、この国の人じゃないよね……」
「ふぇ、どうして分かったんですか?」
確信を持ったイズナの物言いに、驚くアイシャが聞き返す。
「……だって、この目が綺麗なんて言うから…………」
「えっ! でも、綺麗ですよ? ナハト様の瞳と同じくらい綺麗です。どうして隠しちゃうんですか? 勿体無いですよ!」
それは本心からの言葉だった。
一目見たときから、願い事をする流れ星のようなイズナの瞳が美しいと思っていた。
そんなアイシャの言葉を聞いて、少しだけ体を震わせたイズナは、小さく首を振った。
「…………アイシャだけだよ……そんなこと言うの……パパにもママにも、『きれい』とか言われたことなんてない……」
小首を傾げて、心底意味が分からないと言いたげだったアイシャにイズナがゆっくりと説明する。
「……この瞳は、魔眼――大きな力の代りににみんなを不幸にしてしまうの……」
酷く曖昧で抽象的な表現だった。
「私たちは、昔から嫌われものだった…………パパも、ママも、おじいちゃんもおばあちゃんも、この瞳を受け継いだ人は皆、みんな、嫌われもの。この国で、この目を綺麗なんていう人は誰もいないよ?」
何処までも、何処までも、寂しそうな響きだった。
氷雪の下、大海の底。そんな場所で膝を抱えて語るような物言いにアイシャが覚えたのは、同情よりも根が深い、小さな共感だった。
世界の中で一人ぼっち。
父を失って、ナハトに出会う以前のアイシャはそう思っていたのだ。だからこそ、そんな寂しげな物言いを、何時かの自分もしていたよな気がして、思わず口が開いていた。
「あ、あの、でも、勿体無いですね」
「――え?」
「だって、そんな綺麗な目を隠さないと駄目だなんて勿体ないじゃないですか。アイシャは、魔眼とか不幸とかそんなのはどうでもいいです。イズナさんの瞳は綺麗ですよ、もっと誇っていいと思います!」
「――!」
アイシャは知っている。
一人ぼっちとか、世界に一人だけとか、そんな独り善がりが間違いだということを。
人は生きている限り一人ではいられない。一人だと思い込んでいる人間は見ている世界が狭いだけだと言う事を。
ちょっとした切っ掛けで、手を指し伸ばしてくれる人がいて、勇気を振り絞れば、その手を掴むことだってできる事を、この身をもって実体験している。
そう思うと、何で泣いていたのだろう、とさっきまでの自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
結局自分は勝手に一人になったと思い込んでいただけではないか。
胸の奥に宿った、深く、暗い、それでいて温かな魔力に意識を集めた。
そこには確かなナハトとの繋がりがあって、きっと、今もアイシャが成長するのを見守ってくれているのだろうという実感が湧いた。
「アイシャは今は一人です……でも、何時までも一人でいるつもりはありません。だから――」
少しだけ勇気を借りるようにアイシャは胸に手を当てたまま、イズナに向かって口を開いた。
「――アイシャと……その、お、お友達になってくれませんか!」
「っ! なんで……! 私は……まがんほゆうしゃ、で……それで、皆……アイシャは私と違う……かわいいし、私なんかとは違う……アイシャも、私を騙すつもり!?」
返ってきたのは今までにないほど強い敵意だった。
アイシャは慌てて首を振る。
「ち、違います! 私は、ただ優しくしてくれたイズナとお友達になりたくて! それに、イズナが魔眼持ちだって言うなら、私だって半耳長族ですよ?」
「――――?」
小首を傾げるイズナをみて、アイシャは、彼女がアイシャと同じであることを悟った。
「イズナさんも知らないんですね――王国の村々で半耳長族なんてアイシャだけで、ドジで、物覚えが悪くて、いつまでも子供で、好き嫌いが激しくて、無駄飯食らいの嫌われ者がアイシャなんですよ?」
アイシャはくすりと笑った。
辛いことばかりだったが、今は自然と笑みを浮かべることができた。
「知らない、というのも時と場合によりますけど、いいものですね。余計な先入観を抱くことなく相手を見れて。私の目の前にいるイズナは綺麗な瞳を持った優しい女の子です。だから、お友達になりたかった。私は友達なんていませんから、初めてお友達ができるかもしれないと思ったんです。イズナだから、お友達になれると思ったんです。嫌、ですか?」
「…………いや、じゃない……」
アイシャが手を差し出した。
すると、アイシャよりも小さな手が出たり引っ込んだり、と忙しなく動いていた。
やがて、二人の手は近づいて、指と指が触れ合いそうな距離にまで迫った。
そして、最後の一歩は、アイシャが近づいてつめた。
「よろしくね、イズナ」
「…………うん……」
髪の合間から、ぱっちりとした瞳が少しだけ覗いた。
手のひらが重なり合うその時が、一人だけの場所が、二人だけの場所に変わった瞬間だった。




