アイシャの葛藤
アイシャは父の隣を歩いていた。
歩幅の違いのせいで、必然的にアイシャのほうが少しだけ遅れ気味に歩いていると、自然とそれが目に入った。
いつかと変わらぬ大きな背中。
アイシャが憧れた父の背中だ。
(はぁ…………)
嬉しいはずだった。
楽しいはずだった。
なのに、何故だか心ははずまない。
心にかかる霞の正体は、分かっていた。
去り際に残した主の吐息と、冷たいひとみだ。
そんな光景が頭から離れてくれなかった。
(ナハト様に……嫌われちゃったのかな……)
ギュッと、服の上から胸元を握る。
だけど、心を締め上げている寂寥感はちっとも癒えない。
ナハトに必要とされることだけを願って生きてきたアイシャにとって、別離の言葉はあまりにも重かった。
「さっきの子、アイシャの友達か?」
見知らぬ街を案内するかのように、前を歩くローランドが言った。
「ううん、もっと――もっと大切な人」
そんな大切な人が横にいてくれたらどれだけ幸せだろうか。
温かな父の声を聞き、敬愛する主が傍にいる。
そんな理想の世界を夢想して、アイシャは静かに首を振った。
(違う、そうじゃない――ナハト様はお父さんを偽物だと言った。それはきっと正しい――なのに、時間をくれたんだ。私が考えて、整理して、見極める時間を)
きっと、心から父に甘えられない理由はそれなのだ。
本当は、手を繋いで歩きたかったし、今すぐ抱きついて泣き出したい。
お父さんがいなくなって、こんなに苦労して、寂しかったんだよ、って弱音を吐きたい。
でも、それは目の前の父がアイシャにとっての父である、と確信が持ててからなのだ。
「可愛かったな、ありゃ将来いい女になる」
「駄目だよ、お父さん! ナハト様は――」
思いのほか、強い声が出てしまっていた。
いつものように、気のいい冗談と受け取れなかったのだ。
「ははは、まあ俺には愛するフローリアがいるからな。不貞はしないさ。母さんに嫌われちまう」
ローランドの目は少しだけ寂しそうだった。
辛そうで、苦しそうで――でもそんな感情は笑みの中に隠されていて、アイシャといえどそう簡単に気づけるものではなかった。
だけど今は――
父を見極めようと必死になるアイシャには、はっきりとそんな父の寂寥感を感じることができた。
「アイシャは……母さんが嫌いか?」
アイシャの体が、ビクンと震えた。
父は不安そうに、そう聞いてくる。
昔のアイシャならきっと、
『分かんない! 覚えてないもん……』
そう言っている。
素直に嫌いと言いたくて、それでも父を慮ってそう言って、すぐにこう続けるのだ。
『でも、お父さんは大好き! 世界で一番大好きだよ?』
気恥ずかしいとは思わなかった。
それがアイシャの本音だから。
貧しい生活も、父の傍だから耐えられた。たまに取ってきてくれる森の果実が、お米と豆のお粥が、一緒に取り囲む食卓が、楽しみだったから生きられた。
隙間風に震える夜も、大きな背中に引っ付いて眠れるから、耐えられた。
水汲みも、畑仕事も、父が傍にいたから――二人だったから、乗り越えられたのだ。
幸福ではない生活だった。
生きることに必死になった日々だった。
辛く、苦しかった。
でも決して、不幸ではなかった。
自分を恨むことはあっても、アイシャはそんな生活を呪ったことなど一度もなかったのだ。
それは、遠く、儚い、過去の話だ。
だからこそ、アイシャは口を開く。
何度か、声を出すことに失敗して、でも、それでも口にしないと先に進めない気がして、アイシャは意を決して喉を震わせる。
「――――あのね、お父さん――私ね、成り行きだけどお母さんを探してここに来たんだよ……あの時、お父さんが死んじゃって、ナハト様に助けて貰って、苦労して、ここに来たんだよ……」
どんな答えが返ってくるのだろうか。
目の前を歩く父に投げかけたアイシャの言葉は、きっと彼を否定するものだ。
今、アイシャの前を歩く父を否定したのだ。
だが、それでも言わなければならなかった。
アイシャが答えを見出すために。
父の足が一瞬、止まった。
そして、そんな父は小首を傾げて、アイシャに言う。
「……? 何言ってんだ? 俺はここにいるぞ? 『でも、アイシャがちょっとでも母さんのこと、好きになってくれたなら父さん、嬉しいな』」
それは何時か父が言っていた言葉だ。
でも、アイシャは違和感を覚える。会話の中の歯車が噛み合わないのだ。
きっと、それはアイシャの妄想でしかない。
だが、確かな確信がある。
もしも、あの時、別れの言葉を口にした父が生き返っているというのなら、アイシャを労って、抱きしめて、再会を喜んでくれると思うのだ。
「お父さん…………アイシャは、もう一度お父さんに会えて、嬉しいんだよ……? ……忘れ、ちゃったの……? お父さん、凄く凄く辛そうだった。私を置いていってしまう自分を悔やんでた。見守れなくて、ごめん、って謝ってた。弱っていく自分よりも……私のことなんかを考えてくれていた! だから! もう一度お父さんに会えて……アイシャは――こんなに、こんなに嬉しいんだよ……!?」
無意識に言葉を発していた。
「アイシャ……?」
「お父さんがいなくなって、一人で眠るようになって辛かった! 森の奥に追いやられて、一人歩くのが辛かった! 何度も何度も死にそうになって、でもそれは自業自得で、でも、それでもお父さんに会いたかった、会いたかったんだよ!?」
見えない幻影を追って、それが辛くて、同じ場所で死にたいとさえ願った。
なのに、
それなのに、こうして再会をしたアイシャを抱きしめてくれない父にアイシャは言葉をぶつけた。
きっと、アイシャの知るローランドという偉大な父なら、この不満を、葛藤を消し去ってくれると信じて。
「どうしたんだ、アイシャ? きっと疲れてるんじゃないか? 家に帰ったらゆっくり休むといい」
だけど、返ってきたのはそんな言葉だ。
どこかで聞いたことがあるだけの、そんな言葉。
嫌な予感がした。
アイシャは恐怖に震える声で、尋ねる。
「ねぇ、お父さん。お父さんとアイシャは小さな村で暮らしてたよね? 隙間風の入る家で、宿屋の部屋よりもちっさな家で、二人支えあって、生きてきたよね……? ……憶えてる、よね…………?」
父の姿で、父の振る舞いで、アイシャの前に立つ男が、アイシャの知る父じゃないとしたら――自分は何をやっているんだろう、何を聞いているんだろう、そう思えて、恐くなる。
「ああ、勿論憶えているよ――アイシャはよく川原で遊んで、帰ってくるのが遅かったな~。ずっと注意してやってたのに、いっつも日が暮れるまで遊んでたな」
父は思い出を覗き込んでいるかのようにそう言った。
アイシャと同じ時間を父が生きていたことを実感して、安堵したのも束の間。
「あの頃はアイシャにも苦労をかけたな――でも、どうしたんだ――今さらそんなとを口にして?」
続けざまに発せられた言葉が、アイシャの心を凍えさせた。
酷く突き放すような口調だった。
(……今、なんて…………)
脳が処理を拒んだのか、未だに理解ができず、言葉だけが反響する。
(……そんなこと…………?)
アイシャにとって父と過ごした日々はあの時間だ。
それなのに、父はそれを否定しようとしているのだろうか。
「あの頃のアイシャは小さくて可愛かったなー。どうだ、昔みたいに一緒に手を繋いで歩くか?」
そんな父の言葉は耳から抜けて行くだけだ。
まるで、この街で過ごすことこそが、アイシャとローランドとの関係だと言わんがばかりの物言いだった。
優しさに満ちた微笑が、どうしてか歪んで見えた。
そんな微笑と共に差し出された手を――
望んでいたはずの手を、アイシャが掴み取ることはなかった。
◇
エストールには一年前から、スラム街や浮浪者の漂っていた区画が整備され、開発特区が置かれていた。
集合住宅を中心に建設された幾つかの施設は、一定期間衣食住を保障する代わりに国への労役を課すという条件で、人々に貸し与えられている。教会などとは別個に教育を施す場や、騎士団として訓練を施す場が設けられ、街の治安はたった一年で大きく改善された。
最も、国によるその行動を疑問視する人間もいた。
まず、その資金が何処から調達されたのか、という問題がある。自分の利益を求めて日々政争に明け暮れる貴族が、弱者救済をするために資金を解放することなどありえない。それは有力な商人も同じであろう。
次に、住宅を建設したであろう労働力を何処から持ってきたのか、という疑問もある。今、開発特区にある建物の数は百を越える。専門的な知識を持つ者が百人、労働力が千人を超えたとしても、そんな数を揃えることは難しいだろう。仮にそれらの人員皆が一致団結して、不眠不休で働けばたった一年で、進展するのかも知れないが、あくまでそれは夢想に過ぎない。
一体誰が、どうして、エストールの都を発展させたのか、それは分かっていないが、国政と成っている以上それは国王、ベールセールの功績なのだろう。その他にも、横領を正したり、民への福祉を充実させたり、と様々な善政を国王は行っている。
市民は、取り留めのなかった王を見直すことになった。
きっと、一年前と比べて、都は綺麗になったのだろう。住みやすく、豊かになったのだろう。
だから、王国との小競り合い程度で、大きく反感する者はいないのだ。
開発特区の中に、集合住宅とは別の小さな家があった。
ローランドはアイシャに、ここが二人の家だと言った。
さあ、入って、と。
そう、言った。
でも、アイシャの足は動かない。
心の葛藤が、見知らぬ家を拒絶する。
この場所も、その家も、アイシャが過ごしてきた村にあった家よりも綺麗で、整備されていて、だからこそ違っていた。
「ごめん、お父さん――ちょっと、遊んでくるね。夕方には帰るから――」
そう言って、アイシャは駆け出した。
最愛の父に背向けて、分けも分からず駆け出した。
開発特区の整備された道を駆け抜けて、雑多な小道を右往左往しながら走り抜ける。
胸を塞ぐような苦しみを、少しでも誤魔化すように、息を切らせて、苦しいのは走っているせいだ、そう思い込ませるようにただ走った。
意味が分からないのだ。
何もかも、理解を超えていて、咀嚼しきれない。
母を追って旅をして、何故か死んだはずの父と再会して、ナハトがそれを殺そうとして、偽者だといわれて、ナハトと別れることになって、父に縋ろうとして、失敗して、独りになった。
もう、何もかもが分からない。
何が正しいのか、分からない。
余裕を失って、冷静さを無くしたアイシャの思考は、泥沼のように混濁して、堂々巡りを繰り返す。
こんな時、支えてくれた父はいない。
こんな時、頭を撫でてくれた主もいない。
走って、走って、やがて足元がおぼつかなくなって、そのまま、裏道にある小さな広間にアイシャは転ぶように倒れこんだ。
忌々しいほどに蒼い空を見上げて、アイシャは一人、涙を零す。
「――――っ! ……………えっぐ…………ふぇぐ……」
服の袖で、拭っても、とめどなく溢れてくる雫と共に押し殺していた嗚咽が零れた。
終わりのない孤独が胸を蝕んで、空に向かってただ泣いた。
枯れることのない泉から、幾度も幾度も水を汲み取るが如く、アイシャは何度も何度も目元に袖を当てた。
そんな中、不意に聞えてきたのは、ギシりと何かが軋む音だった。
次いで、パタンと地面に降り立つ音が聞えた。
そんな音の方に視線を向けると、そこには、一人の少女がいた。
驚くことに、こんな殺風景で、木が一本しか生えていない裏道の先の広間に、アイシャ以外にも人がいたのだ。
「…………かなしいの……?」
耳を澄まさないと、聞き逃してしまいそうなほど、細く、弱々しい声だった。
それでも、小さな音色は透き通っていて、不思議とその言葉がアイシャの心に落ちていった。
一人から、二人になった安堵からか、アイシャは少しだけ冷静さを取り戻した。
同時に、自らが大泣きしていた事実を思うと、羞恥が心に押し寄せてきて、必死にそのひとみと頬を拭う。
「…………さみしいの……?」
長く伸ばされた髪が少女の目元を覆い隠してしまっていた。
アイシャと同じか、少し幼いとも思える少女は、気遣うような、思い遣るような、それでいて脅えるような声でそう言う。
うまく表情を捉えることができなかった。
だから、彼女がどんな顔をしながら口を動かしているのか分からない。
「……誰も……いなくて……皆いなくて……アイシャは……アイシャは――――」
気づけば、声にならない弱音をアイシャは発していた。
きっと、弱りきった心がそうさせたのだろう。
「……同じだね…………私も、そうだったから…………」
風に揺らいで舞った髪の隙間から、星を象ったかのような紋様が刻まれたひとみが覘いた。
「……綺麗…………」
燦然と煌く瞬きに、アイシャは無意識にそう口にしていた。




