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別離

 アイシャは記憶力のいい人間ではない。

 だけれど、自らの思い出を忘れたことはないのだ。

  

 幼少期、村の傍にあった川の辺で、水遊びや釣りをしていると、熱中してよく帰りが遅くなった。

 それは、誰もいない家に、一人でいたくないという願望でもあった。

 アイシャが汚れをつけて、家に帰るとその度に、

『おうアイシャ、随分と遅かったじゃねーか――お帰り』

 父は温かく出迎えてくれた。


 アイシャはそれを忘れたことなど一度もない。

 だから、その言葉を聞き間違えることなどあり得ないのだ。

 だけど――

 

 嘘だ、と。


 誰に言うでもなく、そう零す。

 アイシャの記憶はそれが父だと告げている。でも心はそれを信じきることはできなかった。

 

 未練の尽きない唐突な別れを、アイシャはトラウマにも近い心の傷として経験している。

 悲しかった。

 だがそれ以上に、悔しかった。 

 周囲の侮蔑を受け入れ、衰弱する父を見殺しにしているような自分が、情けなくて、許せなかった。


 だから、あの時は死ぬことがそれほど怖くなかった。

 ナハトと出会う前は、自分以上に許せないものなど何もなかったからだ。

 いや、きっと、それは今でも同じだ。 

 アイシャは自分を許せない。父に甘えて笑っていた自分がどうしても許せない。

 それでもアイシャが今を生きている理由は、自分以上に大切な存在がいて、その存在がアイシャを必要としてくれているからだ。

 生きる意味を、理由を与えてくれた主がいるからだ。

 お前が必要だと、そう言ってくれたからだ。

 価値のない抜け殻に、その言葉だけが価値をくれた。それがアイシャのすべてなのだ。

 

『……ごめんな、アイシャ――父さん、お前を守ってやれなくなっちまったみたいだ――約束、破っちまったな――――お前とも、お前の母さん、フローリアとの約束も守れなかった――――すまねぇ、愛してるぞ、アイシャ――』


 別れは既に訪れた後だ。

 後悔は意味を持ってくれない。何もかもが遅すぎたから。アイシャが無力だったから。


 だから、強くなりたかったんだ。

 もう、弱さに泣くのがいやだったから。

 もう二度と、あんな思いをしたくなかったから。


「何で……嘘……だって、お父さんは……」

 だけど、アイシャはその瞳に涙を溜めていて、心の隙間を埋める父の笑みに釘付けになっていた。

 懐かしい笑みだ。

 失って、何度も夢に見て、消え去った幻が、目の前にあった。


『「おう、どうしたアイシャ――辛そうな顔してっと、幸せが逃げちまうぞ?」』

 その言葉も、

 優しげな笑みも、

 少し子供っぽくて頼りがいのある振る舞いも、

 すべて、アイシャの知る父のものだった。


「お、とう……さん……」

 こんな再会があるものか。

 死は永遠の別れなのだ。

 でも、アイシャはそんな父の姿を受け入れようとしていて、駆け出そうとしている自分がいた。

 だがアイシャの足が動こうとしたその瞬間――再び呼吸を失った。


 アイシャの隣に立っていた、ナハトが発した激甚な怒気を受けて、動こうとしていた足が意思とは関係なく、止まる。

 おずおずと、ナハトを見上げると、いつもよりも厳格な瞳がアイシャへと向けられていた。


 そして、そんなナハトがアイシャの父を見る瞳は、まるで汚物を見るような酷く冷血な瞳だった。

 いや、それだけでは済んでいない。

 この、己の意思とは関係なく、勝手に体が震え上がる恐怖の正体は、殺気であることをアイシャは理解していたのだ。


 刹那、ナハトの姿が瞳から消えた。

 風が吹き、アイシャでは、何が起ころうとしているのかその目で見ることはできなかった。

 だが、それでも、主の意図は理解できた。

 だからこそ、アイシャは声を張り上げる。


「ナハト様っ! 待って!!」

 

 アイシャにとっては、唐突に出現したとしか言えない。

 父の横に現れたナハトの爪が、その首元に添えられていた。

 もう少しアイシャの声が遅れていれば、父の首は宙を舞っていたことだろう。

 

「――アイシャ」

 背筋が震え上がるような、声が響く。

 淡々としていて、それ故に恐ろしい。

 決して、威圧などは混じっていない、ただの声だ。

 だけれどアイシャは、これほどまでに冷たいナハトの声は聞いたことがなかった。まして、それが自分に向けられるなど想像もしていなかった。

 がくがくと、体が震えるのを押さえらない。


(怖い……)

 思わず視線が下を向いた。

 あの優しかった主の瞳を、今は正面から見据えることさえできなかった。


「死者はどんな力を持ってしても、生き返ることはあり得ない。死へと向かった魂は巡る、お前は父の死を愚弄するつもりか?」


 アイシャは何も言えなかった。

 ただ震えて、何かを言おうとその口が開いても、喉の奥に飲み込めないほどの恐怖がつっかえて、言葉が出てきてはくれなかった。

 ナハトの嚇怒がアイシャにも向かったのだ。

 震える以外に、できることなどあるはずがなかった。


「どういう手品を使ったかは知らんが、これはただの人形だ。――――辛いだろう、悲しいだろう、縋りたいだろう、だが――お前の父は死んだ、違うか?」

 ナハトは冷酷に事実を告げる。

 そしてそれは、アイシャにだって分かっているのだ。

 あの日、あの時、あの場所で、アイシャの手を握っていた手は、冷たくなってしまったのだから。アイシャはそれを見送ったのだから。


「……でも、でも…………だって、あの言葉はお父さんの……」

 だけど、アイシャの記憶がそれが父だと言っている。

 一言一句、違えることない全くの同じ。

 こんなこと、赤の他人が造り出した人形に可能だとは思えない。作り物がアイシャを誤魔化せるとは思えないのだ。

 もしも、一%でもそれがアイシャの父である可能性があるのならば――どうして見殺しにできるだろうか。

 

 ナハトに伝えたいことも一杯あるのだ。

 父がどれ程優しくて、どれ程頼りがいがあって、どれ程素晴らしい人か、自慢したかった。

 だから、簡単に切り捨てられる出来事ではなかった。


「もう一度言うぞ――これは、お前の父ではない」

 だけど、ナハトはそう断じる。

 きっと、アイシャには見れないものが、見えているに違いないのだろう。

 でも、アイシャはナハトのように確信が持てなかった。


「――壊せばすぐに分かることだ」

 ナハトの手が、容赦なく父の命を刈り取ろうとする。

 少しでもその爪が食い込めば、抵抗の余地は存在しないだろう。


「待って……ください……駄目……私は……」

 そう口にした時、ナハトの口から吐息が零れた。

 アイシャにはそれが、失意の篭ったため息にしか聞えなかった。


「――そうだな。ならば、時間をやろう。私がこの忌々しい手品の種を暴くまで、ゆっくりと考えるがいい。そしてお前の答えを見つけろ――」

 ナハトは父に突きつけていた深紅の爪を、そっと離した。

 そして、そんなナハトがアイシャの傍に寄ることはなかった。


「ただし、もしもお前がその人形と戯れていたいと願うのならば、お前はもう私の従者ではない」

 

 それはまさしく、別離の言葉。

 ナハトはそれだけを言い残すと、アイシャの前からいなくなっていた。

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