侵攻する軍勢
「グラサス・ウェン・アントーク将軍。遠征軍一万五千を持って、王国へと侵攻しこれを打倒せよ――」
頭を下げるグラサスにエストール王、ベールセールはそう告げた。
響き渡った彼の声は、あまりにも精気の篭らない音色だった。
「かの国は非道な通商を我が国に強要した――これは許されざる蛮行である……よって、情け容赦はいらぬ――立ちはだかる者、一切を蹂躙せよ」
まるで事務作業でもしているかのような言い草だった。グラサスに告げる王の瞳は、かつての優しげな輝きを微塵も感じさせない。
それどころか、何を見ているのかも分からない、光の伴わぬ人形のような有様だった。
「何故! 何故、王国に――かの国と争うことに一体何の――」
――意味があるというのか。
だが、王の命に臣下が口を挟むなど、許されるはずもない。これは正式に将軍へと任じられたグラサスへの王命なのだから。
頭を垂れ、地についた右手が磨かれた床を軋ませる。
噛み締めた口の中から、血の味がした。
「これは決定事項だ、グラサス将軍。理解したか、では私はもう行く――妻が、待っているからな――」
バリっと、何かが割れる音がした。
謁見の間だというのに、不釣合いな怒気が空気を重くする。
王の退席後、人影が消えていき、頭を下げたままのグラサスだけが取り残る。
ややあって、立ち上がり、扉を壊すかのように乱雑に開いた。
廊下に出て、グラサス口の中の異物を吐き捨てた。
「この国は狂ってしまった――いったい、何が起こっているというのだ――」
唾液と血に塗れた歯の欠片が、差し込む光を反射した。
◇
「はわ、はわわ、はわわわわわわわ! 絶対、絶対、放しちゃ駄目なんですからね!」
何時になく余裕のないアイシャが必死になってナハトに言った。
「ははははははは、そう脅えるなアイシャ、落ち着いて見て見ろ、空からの景色は鮮やかで、美しいものだぞ――」
アイシャはナハトにしがみ付き、瞳を閉じたままだった。
風きり音が響き渡る。
この疾走感と爽快感を味わわないなんて勿体無いとさえ思えるのに。
光を飲み込む翼を広げ、風魔法で外界との影響を排除する。
そう高くはないとはいえ、地面から二千メートル程度の上空にいるのだ。ナハトはともかくアイシャは変化した気圧や気温の影響を受けてしまうだろう。
「どうして、急に、こんな……空に……落ち着いて見ろ、なんて無理ですーぅ!」
「どうしてって、普通に国境を通してくれと言っても、誰も相手にしてくれるわけないだろう――強行突破は優雅さに欠ける。なら、飛び越えてしまえばいいと思わないか? 人間の定めた領土など、私にとっては壁となり得ないからな」
「だからって、これ、速すぎます、速すぎますよ!」
そうなのだろうか。
一人で飛ぶときよりは遥かに速度を落としているのだ。
現に今も、時速七十キロ程度しかスピードは出していない。速度を出しすぎるのはアイシャに負荷がかかると思って遠慮していたのだが、まだ配慮が足りなかったようだ。
ナハトはさらに、三十キロほど速度を落とした。
「これで、どうだ?」
「は、い、……ちょっとは、ましになりました……」
アイシャはそう言って、閉じていた瞳を開きかける。
だけど、恐怖があるのか、やはりナハトの胸に顔を埋めたまま離れようとはしなかった。
「安心するがいい――矢が来ようが、魔法が来ようが、嵐が来ようが、竜が来ようが、この手は決して放さない」
お姫様抱っこしたアイシャに告げる。
それを聞いて、少しだけ顔を上げたアイシャが瞳を開いた。
そうして、やっと、アイシャはこの景色を見たことだろう。
無限に広がる蒼穹に、柱のような光が、大きく開いた雲間から降りる。
遥か彼方まで広がりを見せる景色、それら全てを視界に納めることが今はできる。左を向けばヨルノ森林の深い緑が、右を向けば草原を越えた遠方に海色が見えることだろう。正面には隆起した山脈だ。事実上の国境はこの山脈がその役割を果たしているといっていい。
越える手段は三つある。だが、実際に人が使っているのは一つだけだ。
古代魔族が建設した劣化しない大トンネル。
山を魔法でくり貫いたその道は、王国とエストールを結ぶ唯一の陸路だ。
最も、ナハトはこうして空を飛ぶことで、あっさりと国境を通り抜けてしまったのだけれど。
「はふー、た、高い所は苦手です……」
少しは外を眺めたアイシャだったが、すぐにひしと抱きついてくる。
大空から一望する景色は壮観で、清清しいものがあると思うナハトだが、アイシャはどうやら苦手なようだ。
「しょうがない。降りようか――」
そんなナハトの言葉にアイシャは安堵していた。
このまま飛んで、エストールの都にまで行きたかったナハトだが、アイシャが怖がるならば降りるしかないと思ったその時、それらはナハトの瞳に映った。
下げていた高度を再び上げる。
「ふぇ――何で――」
アイシャの悲鳴が微かに零れる。
山脈を越えたその先に、人が連なる長蛇の列。
統一感のある騎士甲冑のほうは、エストールの兵士であることは間違いない。だが目を引いたあの特異な軍勢は、いったい何者なのだろうか。
正体は不明だが、どちらにせよ、このまま降りれば不審者扱いは間違いなしだ。
「もう少し、飛んで行こうか」
「そんなー」
軍に混じり、全身黒ずくめのローブを羽織る集団。
ただの魔法使いとはいえない。何せ、視界までも塞ぐ様に、体中を全てを服で覆い隠しているのだから。
そんな一団の先頭に立つ女がいた。
いや、女と言うべきもの、と言ったほうがこの場合は正しいのだろう。
その瞳は空に浮かぶナハトを見定めていた。
「アイシャ、加速するぞ――」
「ふぇ?」
刹那、大気に皹が入る。
ナハトの残像が残った場所に、炎の弾丸が飛来していた。それらは空を突き抜けるように、雲の中へと消えていく。
二キロ程度は上空にいるナハトを正確に狙った上、攻撃を届かせるとは中々の腕を持つと言っていいだろう。
「ふぇええええええええええええええええええええええっ!」
空で二回転、さらに身を捻るようにして三転、攻撃を避けるナハトに抱かれたアイシャは絶叫マシンなんて目じゃないほど、激しいGと浮遊感を感じていることだろう。
対照的にナハトは大空を飛び回る爽快感を得ているのだけれど。
「ったく、可愛いアイシャが怖がっているではないか。いや、悲鳴を上げるアイシャもまた良いものだな、うん」
「関心してないで止まってくださあああああああああああああい!!」
アイシャの懇願を受けてナハトがピタリと止まった。
ほっと一息つくアイシャに、ナハトは告げる。
「でもいいのか、アイシャ――」
「ふぇ?」
アイシャの瞳にもそれは映る。
眼前に壁のように迫ってくる、炎の柱――
「少し暑いと思うぞ?」
「熱いじゃ絶対済まないですよね! これ!」
瞳を閉じて、覚悟を決めたようなアイシャを安心させるようにナハトは言う。
「では、少し涼しくするか――氷撃魔法――不壊の蒼氷」
橙色に輝く炎が、消える。
炎と氷は確かに衝突したはずなのに、音はなく――まるで、そこには最初から炎など存在していなかったかのように、何の痕跡も残さないまま、消え去ってしまっていた。
空に浮かんだ無数の細氷に、一切の熱は阻まれる。
それどころか、空気を伝って辺りに立ち込めていた熱までも急速に失われ、吐き出す吐息が白く染まる。空に浮かぶ雲まで影響を受けたのか、南方では滅多に見られない雪がぽつり、ぽつりと降り注いだ。
蒼く、美しい氷は、邪魔な炎を薙ぎ払うに留まらず、無粋な攻撃を仕掛けてきた愚か者へ目掛けて降り注ぐ。
下は中々に、悲惨なことになっているのかもしれないが、ナハトの興味が向くことはなかった。
「今ので壊れたか、それとも――」
「ふぇくち!」
アイシャのくしゃみが言葉を遮る。
ナハトはアイシャを抱えたまま、悠々と戦場から立ち去った。
◇
「一体何が起こったと言うのだ! 何故、魔法を放った! クソっ、あの女は何をしたんだ」
グラサスは忌々しく吐き捨てる。
急にあの怪しげな軍団が攻撃を開始したかと思うと、空から見たこともない氷が降り注ぎ、大地の一部が氷漬けとなった。
「攻撃指示など出しておらんぞ!」
それに、あの空を飛ぶ人間はなんなのだ。微かにしか見えなかったが、広げた翼はどうしようもなく似ていたのだ。
伝説に謳われる、竜の翼に。
グラサスは勝手に行動した軍団の隊長に向けて怒声を吐き捨てた。
だが、氷雪に包まれた地にて、佇む指揮官の女は眉一つ動かすことはなく、冷たい微笑を浮かべるだけだった。
「何故勝手な行動を、貴様は――」
「勝手も何も、私はエストールが主、ベールセール陛下の命によって動いております。軍属とはいえ、貴方に指揮権はありませんよ、グラサス将軍?」
そう。
そもそも、そこからおかしいのだ。
一軍に二将などあり得ない。
最も、今回の戦争は、二軍が協力し、それぞれに将が存在すると言うべきなのだろうけれど。
黒ずくめの軍団は、グラサスの兵ではない。何処からともなく湧いて出て、何故か戦争に参加した、未知の兵士だ。それも、王の勅命によってなのだから、グラサスは軍団を率いる身でありながら、命令を出すことさえできない。
「それでも、貴方の軍は傷を負ったようだが?」
「問題はありません。凍結したものを除き、大半が無事でございます――このまま行軍を続けて下さいな、グラサス将軍」
グラサスの軍団は一万五千、王国はこの十倍は兵力を動員できることだろう。彼女の軍団を合わせても計二万。
その差は歴然だ。
最初から、勝ち目などない戦だった。
だが、誰も反論しなかった。
声を荒げてでも王を止めるはずの人間は、皆口を噤んだままだった。以前のエストールでは考えられない。
全ては、一年前から変わったのだ。
政務に励む王が、妻が蘇ったと言いだした、あの日から。
誰かが暗躍しているのは確かだが、その影さえ掴めない。たった一年で、エストールの都は狂いに狂った。
そして今回の戦争である。
誰も制止の声を上げない。おかしいと考えているのは末端の人間だけなのだろう。
突如として軍に加わった黒ずくめの軍団の正体を、将であるグラサスは知らない。ただ、一般兵などものともしない強さと、高い魔法能力を持っているとだけ伝えられていた。
「ご安心を、グラサス将軍――危険があったため応戦した、それだけにございます。本番は王国の蹂躙です――それには何ら問題がない。進みましょうか、陛下のために――」
怪しく光る女の瞳。
戦場に立つには相応しくない、精巧で、精緻で、儚げな、美しい身体を持つ女。
何の確執もなく、ただそれを見れば、女神でも見ているかのごとく感嘆したことだろう。
だけれど、グラサスにはそれが、微笑を浮かべる悪魔にしか見えなかった。




