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追憶のアイシャ

 右も左も分からない、ひどくぼんやりとした感覚だった。

 陽炎を掴み取るかのような、無意味で曖昧な感覚の中で、アイシャはそれを見る。二つしか部屋のない小さな家で、隙間風が吹き抜ける少し古びた家で、懐かしくて涙が出てきそうなそんな家で、寝転びながら父を見るのだ。


 そこでは父が料理をしていて、アイシャはぼんやりとそんな父を見る。

 鍛え上げられた身体には幾つかの傷があって、大きな背中が瞳に映って、アイシャは待ち遠しいとばかりに足をパタパタと動かしていた。

 そんな行動の裏側では、アイシャは少し落ち込んでいた。

 

 本当は手伝いをしたかったのだ。

 でも、アイシャが包丁を握ると父はオドオドしだして、心配そうにアイシャを見るようになって料理どころではなくなる。それは、ただでさえ忙しい父を困らせることになるのだろう。だから、アイシャは大人しく、じっと見ているだけだった。


 少しでも父の力になりたかった。

 でも、料理は駄目だった。包丁を握ると、いつも指を切ったり、食材を粉々にしたり、迷惑ばかりをかける。アイシャにできるのは水汲みなどの単純な作業と、野菜を洗うことぐらい。

 

 ただでさえ迷惑をかけ続けるアイシャは居た堪れなくなってきて、ちょっとだけ頭を下げるのだ。

 悔しくなって頭を下げる。

 目を合わせたくなくて、自分の無力を隠すように顔を伏せる。

 

 きっと、そんな表情を浮かべることこそが父に対しての一番の迷惑だったんだな、と今なら分かるが、あの時のアイシャはただ悔しくて、悲しくて、寂しくて、感情を抑えきれなくて、そうしていたのだと思う。


 アイシャが顔を伏せていると、決まって父は声をかけてくるのだ。


「おうアイシャ、悪いがそっちの食器を持ってきてくれるか? ついでに水を汲む木の器――ああ、大きいほうじゃないやつな、取ってくれ」

 きっと、それは気遣いだった。

 アイシャにもできることをやらして、少しずつ成長していけるように、とそんな気遣いだったのだろう。

 でも、あの時のアイシャはそんな所まで考えは至らない。

 ただ、大好きな父に頼られているのだという実感だけに喜びを覚え、頷くのだ。


「うん、今持って行くね、お父さん!」






 ――真っ白な意識の底へ、柔らかな声が届く。


「――シャ――アイシャ――」


 いつかと同じ優しい声だ。

 心地の良い音は、ぼんやりとしたアイシャではうまく判別できなくて、思考が纏る前に声が先に出ていた。


「んぅ――おとう……さん……」

 寝ぼけていたからそう口にしたのか、それともかつての思い出を夢に見ていたからそう声を発してしまったのか。アイシャは酷く儚げに伸ばしたその手のひらで虚空を掴もうとして――――不意に手に温かさが伝わった。


「……ふぇ、はれ……ナハト様……?」

 薄っすらとした視界に、眩しい光が差し込んできた。

  

「おはよう、アイシャ」

 

「……はい……おはようございます……」

 

 寝ぼけ眼のアイシャは一度目元を擦ると、すぐにぱちくりと瞬きをして、瞳を見開いた。

 視界は徐々に広がっていった。アイシャの家よりも広いのではないかと思う宿屋の部屋で、柔らかく暖かいベットにポツンと座るアイシャ。

 手を握るナハトと、テーブルに並べられた温かそうな朝食を見て、また寝坊をしてしまったと頭を抱えそうになる。

 ナハトを見ると、いつものように楽しそうに笑みを浮かべていて、アイシャは一層の罪悪感を抱いてしまう。それは責任感の大きいアイシャだからこそ感じた心の葛藤だった。


「ど、どうして起こしてくれなかったんですか……! アイシャはまたナハト様に余計な手間を……従者失格です……」

 自分に対する大きな怒りと、ナハトに対する小さな怒り、それ以上に何でもできる主への羨望が大きくなりすぎて、混沌とした感情の渦がアイシャを締め付けた。

 ナハトにはアイシャなど必要ないのではないかと思うほど、彼女は何でもそつなくこなすのだ。

 そんなアイシャの心の内を覗き込んでいるかのように、ナハトは言った。

 

「私はアイシャのためだけに朝食を作っているのだ――そう撥ね付けず、一緒に食べようじゃないか。独りの食事は味気ないものだ。それに、土鍋で炊いた白銀米はアイシャも好きだろ?」

 

 優しく、甘い、主の言葉にアイシャは抵抗しても頬が緩むのが抑えられない。

 お前が必要だ、といつも言葉にしてくれる主にアイシャは涙が零れそうなほどの歓喜を隠し通すことができない。

 でも、このままではあまりに不甲斐なくて、小さな対抗心がアイシャの口を開かせた。


「でも、私はナハト様の従者ですから雑事は私がやります!」

 主であるナハトは交易都市では知らない者がいないほど有名になっていた。先の魔竜紛争での活躍が大々的に公表されると、市民はナハトに対して強い憧憬を抱いていた。ナハトほどではないが、アイシャも英雄の従者として認知されていて、アイシャは従者として相応しく在れるように努力していた。無論、周りの声などは特に気にならず、ただナハトの役に立ちたい一心でだ。


 勢いに任せてそう言ったアイシャの予想に反して、ナハトも一つ頷いていた。


「アイシャができるようになったら任せるさ――だけど、アイシャはまずよく食べてよく寝て、私に相応しい成長をすることが仕事だぞ――」

 それは意地悪な回答だった。

 アイシャは今色々な努力をしている。一番は強くなること。せめてナハトの旅についていけるだけの強さが欲しいのだ。そのために、本来の自分が持つ力と、ナハトに与えられた力。強大すぎる二つの力を少しずつだが制御しようと努力している。魔法を扱えるように、初級魔法講義とか言う小難しい本を読んだり、できもしない剣を握って三十分で挫折したりと、努力を重ねていた。

 

 魔道書一つ読むためには、中途半端に覚えていた文字を活用しなくてはいけなくて、言葉と文字の勉強からやり直さなくてはならなくなり、それだけで大変だった。一方で、アイシャと違ってナハトはまさに規格外で、見たことないと言っていたはずの人類共用文字をたった数時間で理解しきっていたのだ。アイシャはそのたった数時間で教える側から教わる側へと変わっていた。


 もっと知識を得たほうがいいというナハトの言葉に頷き、算術や歴史、哲学など意味の分からない本までナハトの傍らで読み、学んでいかなければならなかったアイシャが、料理にまで手が回るはずがなかった。

 それに、アイシャは料理に苦手意識を持っている。満足に調理ができない状況でナハトの持つ高価な食材を無駄にするわけにもいかないので、アイシャはナハトの好意に甘えるしかないのだ。

 

 葛藤しているアイシャを見て、ナハトはやはり楽しそうに笑っていた。

 そして、ナハトの好意こうげきはこの程度ではないことをアイシャは知ることになる。

  

「――――と、いうわけで、アイシャ。ほら、あーん」

 そう言ってナハトは箸に銀シャリを取り、アイシャの口へと運んできた。


「ふぇ――」

 戸惑うアイシャに、食欲を刺激する香りが鼻腔を刺激してきた。ぐぅーとお腹が鳴って、頬が羞恥に染まった。

 微かに濡れ、白銀に輝くその米が、ただのお米でないことをアイシャは知っている。

 村では専ら麦が主流ではあったのだが、米も流通していないわけではなく、よく父が出してくれた豆粥の味が思い浮かぶ。

 

 だが、ナハトが用意してくれる米は甘い上に、不可思議で心地よい食感があるのだ。

 その旨みは、アイシャには相応しくないと思えるほど圧倒的な美味は、何度も食べさせて貰っていたアイシャは知っているのだ。

 だから、空腹のアイシャがその誘惑に抗うことなどできるはずもなく、有無を言わさずに差し出された箸に口が勝手に近づいていく。

 子供じゃないんですよ、と言いたかったが、開いた口は別の言葉を発していた。


「……あ、あーん」

 差し出された白銀のお米に自ら口をつけ、咀嚼した瞬間。何度味わっても飽きることのない暴力的な旨味がアイシャの口を蹂躙して、罪責感を吹き飛ばしていった。


「はぅ――」

 後に残ったのは、言葉にできない幸福感だけ。

 主であるナハトに膝枕でもされるかのように寄りかかったアイシャは、失礼だと思いながらも、見る見るうちに膨れ上がった依存心が離れたくないと告げていて、アイシャはそれに従うようにナハトに寄り添っていた。


「美味しいか?」


「おいしいっ!」

 条件反射で口が開き、言葉を発した。


「じゃあもっと食べないとな、ほらアイシャ――あーん」

 どこか淫蕩とした表情を浮かべるアイシャはもう、主のなすがままだった。


「はい! あーん」

 大きく口を開いて、餌を待つ雛鳥のように受身となったアイシャ。

 次々と放り込まれる未知の味にアイシャはただただ笑みを浮かべた。

 たまに、ナハト様もと箸を差し出し、それを食べてくれる主を見るだけで、アイシャは嬉しくなって、もう何でもいいか、と普段の毅然とした責任感を放り捨てる。それはナハトと二人っきりの今だからこそ、アイシャも心から甘えた行動ができていたのだ。


「あーん」

 いったい何度目になるのか。

 アイシャが再び口を開こうとしたその瞬間。がちゃり、と音がして、扉が開いた

 そして介護をされるかのようにだらしなくご飯を口にしたアイシャの瞳と、部屋に入ろうとしたクリスタの瞳が交錯した。 


「…………すまない、邪魔をしたか……」


「――な、な、なっ――――――っ!!」


 声にならない悲鳴を上げるアイシャ。食事に夢中となった彼女の耳には、ノックの音が聞えることはなかったのだ。

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