新しい朝
朝日が差し込む前の早朝では、少しだけ冷たさを感じる静謐とした夕暮の小鳥亭の中も光のない暗闇に包まれていた。魔石を利用した光源も今はアイシャがぐっすりと眠れるように消していることもあって、二人で泊まるには広すぎるこの部屋も真っ暗といっていいだろう。
そんな光という光が存在しない暗闇で、ナハトの金色に包まれた瞳だけが微かに輝く。
その瞳に映すものは、たった一人の少女だけだ。
ナハトにとって光の有無など関係なく、龍眼ははっきりとアイシャの姿を映していた。
鮮やかな金糸の髪を手に取ると、手には柔らかな感触と微かな熱が伝わる。愛らしい小顔を眺めていると、ついその頬や唇に悪戯をしたくなってくる。そんな衝動を抑えながら、すやすやと眠るアイシャに布団を被せ、髪を梳くように優しく撫でる。
抱きしめれば壊れてしまうのではないかと心配になるほど華奢な身体だ。くすぐったそうに体を揺すって声を零したアイシャから思わずナハトは手を離し、微笑んだ。
『――これはあれですね――運命ってやつですよっ!』
運命という重々しい言葉を軽々しく使っていたかつての仲間の姿が一瞬だが頭をよぎる。
ナハトにとってアイシャはまさに運命の相手と呼ぶべき人物だった。辛く苦しい境遇の中でさえ――いや、だからこそ、その輝きを増した魂の色にナハトは魅了されていた。
失われかけていた小さな命をこの手で救うことができた。同時に、堪えきれなかったあの時の孤独を、世界に一人っきりだと思ってしまっていたあの時の不安を、彼女が埋めてくれたのだと思う。あの日、あの時、あの瞬間こそが、まさしく運命という言葉に相応しいのかもしれない。
名残惜しいとは思いながらもナハトはそっとベットから降りた。
薔薇色の下着だけを身に纏っていたナハトは、ストレージから宵闇の抱擁を取り出し、身に纏った後、各種装備を身につけていく。一分もしないうちにいつものドレス姿になった自分を確かめて一つ頷いた。
ナハトになってから睡眠を取る必要はなくなった。三大欲求の内最も弱いのが睡眠欲なのだ。勿論眠ろうと思えば眠れるが、龍の部分が強いせいか、睡眠を取らずにいても生きていくことは可能なのだろう。人間の部分よりも明らかに強大な龍の力にナハト自身が影響を受けているからだ。無論、それは利点のほうが多いわけで、人間時代の感傷さえ無ければ、常にすっきりとした目覚めでアイシャを眺めることができるのだ。これはこれでいいものだとナハトは思う。
「さて――朝食作りと洒落込もうか――」
誰に言うでもなく一人、呟く。
音を立てない様に扉を閉め、一階の厨房へと足を運んだ。
「おはようございます、お嬢様」
そう言ってナハトに厨房の料理人たちが口々に挨拶をしてきた。朝日が昇る前から仕込みを始める辺り、高級な宿屋として手のこんだ料理を振舞っていることは一目瞭然だろう。
ナハトは小さな火の魔石を利用したコンロと幾つかの鍋が置かれた区切られた調理場に立った。
この場はゲーム時代の特殊な食材と調味料を提供することによって、料理人から少しの間だけ調理場の一角を借り受けたものだ。
と、いうのも、この手の宿の食事は高級ではあるのだが、動物性の食べ物が口にできないアイシャが食べられるものは少ないと言わざる得ない。サラダなどの野菜類は手の込んだ物も多く、アイシャの気に入るものはあったのだが、彼女の偏食を意識している物はない。耳長族は大陸全体でも極少数しかおらず、閉鎖的で人の街に下りてくることなど滅多にないのだから仕方ないと言えば仕方がないのだけれど。
だからこそ、ナハトは自らが包丁を取って、アイシャのための食事を用意する。
そんなナハトにアイシャは、
『ナ、ナハト様のお手を煩わせるなんて従者失格です! あ、明日からは私がやります!』
といつも言っているのだが、アイシャは成長期を終えていないエルフの少女のため、人よりよく眠る。ナハトも彼女の睡眠時間は八時間を目安として確保するようにしているので、起床はかなり遅めだ。朝食を用意する時間などアイシャにはないと言っていい。
それに、作れるのかどうかも分からない。少なくとも、アイシャが料理を覚えるのに時間がかかりそうなことは分かる。
「白銀米にお化け海苔、お味噌汁におひたし、魚はアイシャが駄目だからな……豆腐ハンバーグにしよう…………後はマロン芋を甘露煮にしようか――一応納豆も用意してっと――」
ナハトは懐かしき日本食に近しい食材をストレージから取り出す。三つのキャラクターを操作しているうちに食品系アイテムも店売りからドロップまでほぼ全て制覇している。特に店売りの品は回復薬などと同じで金が余っていれば上限まで無駄に買う派の人間だったので、和洋中、ありとあらゆる料理が作れるだけの食材は持っている。最も、追加効果を齎す料理系技能は持っていないので、ただの料理には変わりないのだけれど。
土鍋で白銀米を炊き、別の鍋で味噌汁の出汁を取る。カツオは使えないので、七色昆布と呼ばれるランク五の万能昆布で出汁をとって、野菜類をふんだんに取り入れた味噌汁を作る。
水切りした木綿豆腐用意し、レンコン、ピーマンなど種類の野菜を刻んだものを玉ねぎと一緒に炒めて、豆腐と混ぜ、つなぎに里芋を使って、卵や肉を使わない豆腐ハンバーグを作る。余った野菜をたれと共にかけてメインの完成である。
ランク六のマロン芋は普通にかじっただけでも抜群にうまい。そこにちょっとだけ工夫をする。下茹でして一旦冷まし、水を加えて、砂糖とスキットレモンを加え、トロ~っと蜜が零れるまで煮込めば完成である。かなり甘くしているのだが、アイシャは甘味を好んでいるのでこれくらいでいいだろうと皿に移す。
最後に、ランク3の炭火納豆を添えて、朝食の完成である。
所詮は一人暮らしの一大学生の調理スキルだ。大した物は作れない。それでもナハトの作る料理は物珍しくはあり、
「ほう、今日もうまそうやな、嬢ちゃんの料理は――」
などと、関心を示す貴族もいたのだ。
ナハトが調理を終える頃には朝日も顔を覗かせる。
まるで頃合を見計らっているかのように、二三日前から顔馴染みとなった禿頭の中年男がそう声をかけてきた。かなり太って、少しだけ人相の悪いこの男は王都ではかなり偉い貴族らしい。
服装はそれなりに整っているが、ナハトと男が二人並べば、どちらかと言えばナハトのほうが貴族令嬢に見えてしまうことだろう。
「ふん、残念ながら私の手料理はアイシャのものだ――貴様に渡す分はないぞ?」
「わはははは、そりゃつれないの――どや? 金貨二枚出すで? これでも敏腕と美食で有名なんやで、わし――」
名前は確か、ランドルフ・ド・ランスティア。名前と見た目があまり一致しない中年の男である。ついでに言えば、見た目と性格が一致しない人物でもある。
ナハトは初対面であろうとその人となりは魂の色で凡そ判別ができる。だからこそ、彼が善人に近しいことを知っているが、実際それが分からない人間からしたら、悪人面の貴族筆頭である。小説で登場すれば間違いなく、奴隷として可愛がってやる、とか言いそうな人相なのだ。
「ははは、この私の愛情を金で買おうとは随分と安くみられたものだ――成金は精々金で買えるもので満足しておくがいい――」
ナハトはばっさりと切り捨てた。
「ひどいなー、あんまりやで――これでもわし、努力してんで? 商人っつうんはどいつもこいつも腹黒で困っとるんよ。そんな商人共が鎬を削っとる世界で戦わなあかんのや。今回も来たくもない交易都市まで足を運んで、旧友と一緒に算盤弾いて予算確保と物資の調達――ちょっとぐらいご褒美があってもええんちゃいます?」
発する必要のないことまでベラベラと喋る男の真意ははかりかねるが、ナハトはランドルフに嫌悪感は抱いていない。嫌悪感を抱かれそうな見た目ではあるが、それは黙っておいたほうがいいのだろう。
「さっきから、なんか酷いこと考えてません?」
さて、なんのことやら。
「いやー、でも嬢ちゃんも毎日毎日ご苦労なこって――ここの飯も一流やで? 普通に食おう思ったら銀貨五枚はださなあかんな――もっともわしとしては嬢ちゃんの見たこともない食材に釘付けやけどな」
じゅるり、と音を立てながらランドルフが言う。
鬱陶しいが、食に対する情熱だけは真摯なものがランドルフにはあった。
「貴様にこのナハトちゃんの手料理をくれてやるつもりはない――」
だけれど、今のナハトは決して悪い気分ではない。
アイシャのために作った手料理をくれてやろうとは思わないが、毎朝の話し相手にちょっとしたお裾分け程度ならばしてもいいと思えたのだ。ランドルフは貴族らしいがナハトの口調を何ら気にすることなく会話を続けていた。単に食い意地が張ってるだけかもしれないが、実力行使に訴えかけない所も評価はできる。
何より、毎日毎日子犬のようにお零れを狙う仕草が鬱陶しくもあったのだ。
「――だがまあ、仕方が無い。これも何かの縁だ。貴様にも天上界の果実をくれてやろう――味わって食べるがいいぞ」
そう言って、瑞々しい果実を取り出して放り投げてやった。これならば、アイシャも食べたことがあり、この男を贔屓したことにもならないだろう。
体格に見合わない俊敏な動きで果実を手に取ったランドルフをみてナハトは満足そうに頷く。
アイシャのために用意した朝食をストレージへとしまうと、眠り姫を起こすために再び階段を昇る。
ナハトがいなくなった食堂で、
「ワシなら金貨二十は出すな――」
そんな呟きが取り残された。




