龍撃魔法
太陽を駆け抜ける紅炎が如く、収束した炎は小さな球にまでその姿を変えた。
眩い光は、真っ赤に大地を染め上げていた。光が映しだすものは血の海に沈んでいった骸の赤か、それとも溶解したマグマが流れる大河の赤か――
そんな景色の中で、ナハトの瞳はたった一人を映していた。
恐怖に体を震わせていて――
その頬に、今にも零れ落ちてしまいそうな涙が見えてしまった瞬間。ナハトの理性は全て吹き飛んだ。
血管を流れる血液が、熱く、熱く、巡っていって、体を焼いてしまうような感覚にナハトは躊躇なく身を預けた。
「鬱陶しいな――」
再会を妨げるかのように、照り輝く、恐怖の象徴にナハトは忌々しそうに手を翳した。
「――消せ、原初の深闇」
ナハトの纏う衣の闇が、空に向かって広がった。
絨毯のように広がったかと思うと、今度は円を描いて渦になる。
昼が夜へと変わるように、闇の渦は小さな太陽を瞬く間に飲み込んでしまった。
ナハトは闇に乗じて、アイシャの傍に一瞬で現れた。
そしてその頬に伝う雫を指でなぞって受け止めた。
「…………ナ、ハ、ト……しゃまぁああああああああああああああっ!」
「よく闘ったな、アイシャ――もう、大丈夫だ」
アイシャの声を聞いて、少しだけ瞳に理性が戻った気がする。
ぽん、とアイシャの頭を軽く撫でると、名残惜しいとは思うものの一旦アイシャを背において、ナハトは戦場へと立った。
「うぁっと! なんっすか! 何がおこったっすか! 暗いっす、暗いっすよ! あ、明るくなったっす――」
闇が晴れ、竜がそんなことをほざく。勿論答える義理などない。
ナハトは静かに、瞳を竜に向ける。
「貴様が――」
ナハトの言葉が響くと共に、ぐんにゃりと世界が歪む。
この場に満ちていた精霊や微生物に至るまで、すべての事象が、生物が、逃げ出しているかのようだった。
そのせいで、正常な世界が失われた、そんな錯覚さえ感じる。
「な、な、な、な、な、なんっすか、あんたは――」
巨体が震えたせいで大気が震えたのか、風の精霊が逃げ出したせいで大気が震えたのか――音は無く、空が軋む。
ああ、少し嘘を吐いた。
ちっとも冷静ではいられなかった。
その憎憎しい姿を見てしまった後では、ナハトは理性を保つなどできなかった。
「――貴様が、私のアイシャを泣かせたのかああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
怒号というのも生温い。
それはまさしく咆哮だった。
「ひっ!」
お調子者の声ではない。それは恐怖に染まった者の悲鳴。
ナハトはそれを聞き入れない。
魔力はその密度に比例して、物質化し目に見えるようになるという。アイシャの手のひらに夜色の魔力が集ったように。
だから、それは幻ではない。
何度瞳を擦ろうとも、視界の中に確かに映る。
何処までも、何処までも、果てしなく――天を貫き昇る深い魔力の柱。ナハトはこの世界に来て、初めて己の力を全て解放していた。
「世界を象れ――七元世界の宝珠」
ナハトの周りで宝珠が輝く。
「貴様の魂には、私が直々に罪過を刻み込んでやる――」
「ま、まつっす! は、話合うっす――って聞いてないっす――!」
ナハトの宝珠は、一つ一つが固定砲台の役割を持つ。
それぞれが、三次職までという制限はあるが、別々の魔法を自動で使用することができるのだ。
即ちそれは――
竜魔法、
――死を運ぶ風竜
――天より降る雷竜
――越流する水竜
――永遠に住まう氷竜
――圧殺する土竜
――束縛する重力竜
――滅びを誘う闇竜
――魔法使いにとっての最大の隙、魔法と魔法の空白時間が無くなることを意味する。
最初の異変は空にあった。
雲が渦を描いて、消えた瞬間。
「ふぎゅわっ!」
台風が振ってきた。そう表現するのが正しいのかもしれない。不定形な風は竜を象っていた。
竜と竜の交錯は――巨竜が力負けして地に落ちた。
ナハトの連撃は止まらない。
時間差は殆どなく、一切の抵抗も反撃も許さない。
「あぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ――し、痺れるっす……いたいっす……」
雷に打たれた竜が目じりに涙を溜めていた。
竜の目にも涙。
少なくともアイシャを泣かした分だけ、ナハトは竜を泣かすことを決意する。
長く刺々しい水竜が、締め付けるように絡みつき、
そんな水竜を氷竜が、凍えさせ、氷柱となって鱗を抉り取っていく。
鮮血がこれでもかと舞った。
だが、ナハトの手は止まらない。
地面が陥没すると同時に、現れた土竜が動けなくなった巨竜の頭部を押しつぶす。
衝撃のせいか、牙が数本砕け折れて、飛び散った。
そこに、影が落ちると、ズン、と異常なまでの過負荷がかかる。
「わ、……悪かったっす……降参っす……謝るっす…………だから、たす――んぎゃああああああああっ!」
そして最後に、二体の黒竜が翼を貫いて、食い破った。
「アイシャの腕輪は壊れていた――身代わりの腕輪は致命傷を一度だけ肩代わりする課金アイテムだ――つまり、お前は一度アイシャを殺しているに等しい。私のアイシャを、私のアイシャを、私の従者の命を貴様は奪ったに等しい――」
一体、誰がその声を受け止めることができようか。
冷たい、あまりに冷たいナハトの声は、アイシャでさえ聞いたことはなかった。
情け容赦など期待するほうが間違いだと気づいたことだろう。
――許すと、思うてか?
少なくとも、アイシャと同じ目にあわせなければ、ナハトの怒りは収まらない。
「鳴いて、啼いて、泣き喚け――それがお前にできる唯一の贖罪だ――」
《――輪廻を巡れ。魂を掌りし魂魄龍が告げる。
万象は生を離れ、我が手の中で、死へと向かう。
夜の帳が下りる時、鎮魂の鐘は鳴り響く。再誕の日をただ思え。最後の願いを口にせよ。
最後の祈りを龍に捧げよ――》
ナハトの言霊に惹かれてか、放出されていた密度の高い魔力が徐々に形を変えていった。
象られたものは竜であって、竜でない。
全長は数百メートルではきかないだろう。
黒々しくて、輝かしい。
瞳は金、鱗は漆黒、身体は暗闇、爪は深紅。
「これは……俺っち、マジで死ぬ、かもっす…………」
「――我が名において裁きを下す、龍撃魔法――龍の吐息」
冥府の入り口が如く開いた口に、球状の立体魔法陣が回転していた。
収束する黒。
あまりにも暗い夜。
そんな世界に流れた刹那の瞬き。そんな小さな光が道標となった。
顕現した夜に吞まれ、竜の姿は消え去った。否、竜だけでなく、空も、大気も、大地も、巻き込まれた物全て、形を失い、溶けていく。
後に残ったのは、巨大な穴。
光の見えないその穴がどこまで続いているかは分からないが、それ以降、「竜の奈落」と呼ばれるケパルニア草原の穴に近づく者は誰もいなかった。
最早ここに用はないとばかりに身を翻す。
すっきりとした顔でナハトはアイシャの元へと駆け寄った。
「こ、殺しちゃったんですか――?」
ナハトが近づくと、慌てた様子のアイシャが言った。
「いや、辛うじて生きているさ――止めを刺すか?」
平然と告げたナハトにアイシャがビクリと震えた。今ならきっと、アイシャでも止めが刺せそうだ。
「だ、駄目ですよ――だめ、なん、です……っ……」
だが、何故かアイシャは徐々に声を落としていって――
「…………う……うっぐ、えっぐ――ごめんなさあああああああああああああい」
次第には、泣き出してしまったのだ。
「うわっ、どうしたんだアイシャ。どっか怪我してるのか? 痛いのか、辛いのか、私に任せろ! 課金アイテムの特級ポーションもあるし、万能手当てもあるぞ! だから、安心しするといい、な」
だがアイシャはくしゃくしゃになった顔で、フルフルと弱々しく首を振った。
「わ、わ、私のせいで――ぐす、皆が――えっぐ……皆が……」
ああ、なんだ。
そんなことか。
ナハトにとってはアイシャが無事なら他はどうでもよかった。現に、周りなど今まで気にもとめていなかった。
改めてみると、多くの命が尽きかけている。
全身を焼かれ、もう数時間も持たない命が幾つもあった。
心優しいアイシャは、きっと責任を感じていた。
皆と並んで戦った龍の従者としての責任を。守れなかった命の重みを。
だが、それは本来ナハトが負うべきもので、アイシャが辛い思いをする必要はない。
ナハトはアイシャを抱きしめる。
「大丈夫、アイシャは何も悪くない。悪いのは全部私だ――魔法全体化――癒しの風」
幸い、思ったよりも竜が弱くて、ナハトの魔力には余裕があった。もし竜がレイドボス扱いであれば体力が少なすぎる。だとすれば、あの竜はフィールドボス扱いなのかもしれないが、真偽のほどはナハトには分からない。ゲーム時代の常識は既にあまり役に立っていないのだから。
応急手当を済ませた後、ストレージから千を越える上級回復薬を取り出して、声を響かせる。
「生きている人間にそれを飲ませるがいい――今回は私の責もある、サービスだ――死者以外は助かるだろう」
ナハトの声は戦場の隅々まで届き渡っていた。動ける冒険者は行動を開始していることだろう。
竜の乱入は明らかにナハトを狙ったものだった。正確にはナハトの力を、かもしれないがそのせいでアイシャを無駄な戦いに巻き込んでしまった。
想定が足りなかった。見通しが甘かった。
後もう少しで、アイシャを失う所だった。
背筋がぶるりと震えた。
それは、ナハトとして生れ落ちて、初めて感じた恐怖だった。
もしも、アイシャがここに、こうして無事に立っていなければ、ナハトはきっと正気を保てていなかったとさえ思える。きっと、加減もできず、破壊の限りを尽くしたのだと思う。
「よかった……本当によかった、アイシャが無事で――」
ナハトには全く似合わない、消え入るような細い声。
気づかないうちに、頬に涙が伝っていた。
アイシャは少しだけ苦しそうにしながらも、ナハトにされるがままに抱きしめられ、頬に伝う涙を指で拭った。
「――はい、アイシャはずっと、ナハト様のお傍にいます」
頬に添えられたアイシャの手は、思っていた以上に温かかった。




