出陣
重力を感じさせない軽やかな足取りで、ナハトは外壁の上を一人歩いていた。
高さ七~八メートルはありそうな外壁の上から、ナハトは躊躇なく身を空へと投げ出した。見張りに立つ兵士からしたらそれは飛び降り自殺も同然だった。
だが、ナハトに常識など当てはまるはずなどなかった。
背から広がる夜色の翼が、ナハトを空へと舞い上げた。
陽光を背にナハトは一直線に加速する。別々の景色を撮影したカメラのフィルムが如く、場面が流れて切り替わっていった。
僅か数秒で、背においた交易都市が小さく映るまで離れてしまった。そっと、背を振り返ったのは、いつも隣にいた少女の不在をナハトが寂しがったからだろう。ほんの少しナハトは交易都市へと目を向け、すぐに前を向きなおした。
ヨルノ森林は交易都市の南東に存在している。そこへと繋がる道は、一面草の敷かれた草原だった。
ケパルニア草原の南東はヨルノ森林へと続く道が、南西には隣国であるエストールに続く道が整備されている。道沿いには穀倉地帯として開発された村が幾つも並んでいた。
だが、そこに人の姿はない。冒険者ギルドや騎士が中心となって、避難するように勧告が出ていたのだろう。静けさに包まれたままナハトは飛翔する。
しばらくの間大空を飛び、遥か上空から眼下を見下ろした。
ナハトの真下には、先遣隊が築いた陣があった。正午にもなれば、ここに本隊が集まることだろう。
そしてその先には、魔物の軍勢が存在していた。
ナハトの龍眼には米粒のような魔物達が正確に映しだされていた。ヨルノ森林に背を向ける形で佇む軍勢の数は、凡そ、二千から三千と言った所だろう。
それは、交易都市の冒険者から見れば、不思議で、不可解極まりない状況だった。
小鬼族や豚鬼族などの低位の魔物が、本能のまま行動することなく、軍隊の如くまばらに集まり、整列しているのだから。魔物が軍勢になるときは、爆発的に繁殖した上でその種族の長が率いるものだ。過去にも、豚鬼族の繁殖と進化の影響で、二千に及ぶ軍勢となった例があるが、それは全て豚鬼族の軍勢だ。決して、今のような混成軍ではない。
百程度の下位魔族を、トロールやリッチなどの中位魔族が率いているように見える。そしてさらにそれらを、魔族となった鬼が率いていた。そこには、人のような知性を感じられた。
ナハトは、敵軍の上空までたどり着いていた。
がやがやと騒ぎ立てる、三千の敵意を目の前にして、なおナハトの余裕は微塵も揺らぎはしなかった。
足音が、鎧や武器の金属音が、魔物の雄叫びが、明確な物量が、普通の人間ならば間違いなく恐怖となることだろう。
だけれど、ナハトにとってそれは少し五月蝿い雑音に過ぎなかった。
ナハトはただ、悠然と空を飛んで、彼らの頭上を飛び越える。
だが――それを是とせぬ者がいた。
魔物の軍勢を率いる立場にある一体の魔物――人の肉を喰らう鬼。その過程で高い知性と流暢な言葉を操ることで悪く有名な極悪鬼。喰人鬼と呼ばれる特A級指定魔物こそが、この数千の軍勢を率いる頭だった。
三メートルはあるその体躯は引き締まった筋肉に覆われていた。顔全体を覆う白い髪と魔族となって強大となった二本の角。大きく開かれた口に肉を喰らいとる鋭い牙が、何本も、何本も生え揃っている。内在する魔力の量からも別格であることは間違いないだろう。
上空を飛ぶナハトを見た喰人鬼は二匹の飛竜に命じた。
「アノ、不届き者ヲ、喰らえ」
と。
刹那、上空が庭だと言わんばかりに、加速した二匹の飛竜がナハトへと牙を向けた。
その体躯は五メートルを優に越える。大きく開かれたその顎に、小さな少女は喰らい尽くされるはず、だった。
「竜のなり損ない風情が、私の道を塞ぐとはいい度胸だ――どれ――」
ナハトはその右手を飛竜に向けた。
そして、一言。
――おすわり――
さながら、聞き分けのない犬に命じるが如く、ナハトはそう言いつけた。
確かな強制力を持って。
重力魔法――重力場生成。
ナハトの前方に出現した絶対的な強制力を持つ重力場が、容赦なく二匹の飛竜を飲み込んだ。
がくん、と。
大空を羽ばたいていたはずの飛竜は、見えない力に引き摺られ、望まぬ急加速を余儀なくされる。
抗うことすら許されず、垂直に落下した二つの巨体は、真下にいた魔物を巻き込みながら、地面に深くめり込んでいた。半ば小さなクレーターと化したその場所で、頭を垂れる二匹の飛竜を目にし、ナハトは満足そうに頷いた。
「これ以上、獲物を奪うのは余計なお節介という奴か――」
何せ、彼らは自らの意思で剣を取ったのだから。
悠然と立ち去るナハトを前に、魔族がただ呟いた。
「ナンなんだ、あれハ――!!」
その問いに、答えるものは誰もいない。
◇
「本当に、良かったのか?」
南の空をを見つめるアイシャに、クリスタが声をかけた。
その瞳は、幼い少女のものではない。
葛藤の中に、強い意思を秘めた瞳だった。
だから、クリスタも強くは尋ねなかった。
「はい、ナハト様の傍にいても、きっと私は役立たずのままですから――これからも、あの人の傍にいるために、私は強くなりたいです」
きっと、ナハトにそんなことを言えば、
『はは、アイシャは自分のペースでゆっくりと強くなればいい』
と答えるのだと思う。
だけど、アイシャ自身が嫌だった。
ゆっくりとか、自分のペースとか、そうやって言い訳を繰り返したせいで、何もできないまま父を失って、自らの命も失いかけた。
誰かの言葉に甘えるのは、もう嫌なのだ。
アイシャはナハトの従者である。
だけど、そんな価値が自分にあるとは到底思えない。
今のアイシャは、ただの子供だ。
甘える相手を変えただけの、子供なのだ。
だから、せめてあのお方の傍に仕えるに相応しい資格を、力を、アイシャは望んだのだ。
切っ掛けは何気ない主の一言だ。
『よしよし、では褒美として、最も活躍した者には私が膝枕をして頭を撫でてやろうではないか!』
そんな言葉を、許せないと思うアイシャがいた。
醜く、小さな嫉妬が、アイシャの中で覚悟の火を灯らせた。
主の体を誰かに、ましてむさ苦しい男に触らせるなど、耐え切れるものではなかった。
それは錯覚に過ぎない。
ただ、主の傍を取られたという錯覚なのだ。
だけど、それでも――ナハトの従者として、そこだけは譲れなかった。
アイシャの体に魔力が巡った。
それは、クリスタさえも気圧されるほど膨大で――底の見えない渦のようだった。
(とんでもないな――ナハト殿からアイシャを任されたが、私は不要かもしれない)
そんな思いが、クリスタの頭を巡って、即座に首を振る。
想定と実戦は大きく異なる。
いざという時、この身を盾にしてでも、クリスタはアイシャを守るつもりだった。
それが、助力を請うたクリスタの責任の果たし方でもあるのだから。
アイシャと、クリスタのパーティがそれぞれの準備を終え、いよいよ出陣だと、そう思ったとき、クリスタに頭を下げる女性がいた。
「クリスタ様――」
「ん、ああ。うまくやっているようだな、ラーナ。それと、エマ」
クリスタのパーティ、サシャ達が武器の調整をしていた、小さな工房。そこから顔を覗かせたの、かつて盗賊に囚われていたラーナとエマだった。
「く、い、す、た、さ、ま――」
随分と舌足らずで、発音も曖昧な、そんな声と共にエマがペコリと頭を下げる。小さな少女は、少しずつ、少しずつ、言葉を取り戻していた。
「お久しぶりですね、アイシャさん」
以前とは違う、朗らかな笑みだった。
思わず見惚れてしまいそうになるほど、穏やかな女性らしさをアイシャは感じた。
「は、はい。お久しぶりです、ラーナさん、エマちゃん」
そう、アイシャが言うと、二人は楽しそうに微笑んだ。
「お二人は、ここで働いていたのですね」
驚きながらアイシャが言った。
彼女にとっても予想外の再会だったのだ。
「彼女達は先行復帰組みだ――ラーナは商人の夫がいたからそれなりの学がある。読み書き、計算に、一通りの商才も持っているようだったからな、私の知り合いの店で働いて貰っている。ここの小人族の親父さんは腕はいいが、店の経営は今は亡き奥様の方に頼りっきりだったからな。息子さんも自立して店を持っていることからも、働くにはちょうどいい――親父さんも少々頑固だが、情に厚いいい人だ」
アイシャが納得、とばかりに頷いた。
「バルボスさんにはお世話になっています」
ラーナもそう言っていた。
アイシャから見ても、彼女達は幸せそうに日々を過ごしているように見えた。
「いよいよ、なのですね」
交易都市に迫る異変は、ある程度市民にも伝えられていた。
最も、それはただの魔物の騒乱ということになっているのだが、ラーナには慎重に武器を調えるクリスタたちを見て、思うところがあったのだろう。
「ああ」
クリスタも真剣にそう告げる。
そんな中でエマが心配そうに言った。
「らい、じょう、ぶ?」
恐怖の篭った、それでいて慈愛に満ちたそんな声だ。
震える喉で、精一杯の言葉をエマは絞りだしていた。
そんな少女の不安を、アイシャは一蹴するように強く言う。
「大丈夫、です! 何せ、今も、ナハト様が戦ってくれているのですから!」
それは最早確信だった。
疑うことさえ許さない、そんな意思でアイシャは断言する。
「な、は、と、しゃま!」
エマも、自らを救い出してくれた、不思議な人物を思い出して笑みを浮かべる。
「はい、だから何も心配する必要なんてありません!」
ナハトが救い出した命に見送られ、アイシャはどこか清清しい思いで歩を進めた。
◇
「ほう、お前の魔法を見破ったものがいるのか」
森の傍に、木を加工したテーブルと椅子が置かれ、ティーカップを片手にリノアが言う。
「はい、それに――喰人鬼、ウーノからの知らせでは、取り逃した、と」
リノアは深く思案した後、桜を見て告げる。
「念には念を、か」
ことん、とティーカップが皿に置かれた。
「桜、いつものようにお前は消えておけ」
「御心のままに――」
「さて、どのような者かは知らぬが、誰も、我等の邪魔をすることは許さぬ――」




