一言の忠義
最古の時代、人魔大戦という最も苛烈で、最も凄惨な戦いがあった。
人類史の中では、人間が台頭を始めたのはこの戦いで勝利を収めたからである、と語る者が多い。
また聖竜教会と並ぶ大宗教、人間こそが上位種であるとする神選教の歴史において、古代魔族を衰退させることに成功した聖戦であり、神に選ばれた人間だからこそ強大な力を持つ邪悪な魔族どもに勝利できた、と語られている戦いでもある。
なぜ凄惨だったか。
それは戦争の種類にあった。
古き時代に行われた大戦は総力戦であったのだ。
彼らには一丸となる理由があった。
大儀があった。
目的があった。
差別があった。
蔑視があった。
憎悪があった。
錯誤があった。
未知があった。
常識があった。
嫉妬があった。
羨望があった。
恐怖があった。
親愛があった。
友情があった。
希望があった。
だからこそ、正義があった。
そして何よりも大きな、悪意があったのだ。
魔族という、敵がいた。
人類の怨敵というレッテルがあった。
人類と魔族、その存亡をかけた戦いと選神教が定義したからこそ、封建制が蔓延っていた時代においても、戦う理由ができたのだ。
結局、戦争は泥沼だった。
もしもの話だ。
もしも、あのまま戦争が続いていれば、強大な個の力を持つ魔族が、絶対数が何十倍以上もある人類に勝利したのだろう。
だが、結局そうはならなかった。
終末の孤島。
未だに生物の住み着かない死に溢れた不毛の孤島で、世界の命運を決めた二人の闘いがあった。
唯一無二、神に等しい力を持ち、人を愛した一人の勇者。
強大な力を持つ魔族を纏めることができた、ただ一人の魔王。
初代勇者と災禍の魔王の戦いこそが、この世界の命運だった。
◇
森の中には濃い魔力の波動が満ちていた。
双子月の魔素に満ち溢れるヨルノ森林の深層。その中でも、得に濃い力を秘めた泉は――泉だった場所には一滴たりとも水などなかった。
燃えるように紅い髪が意思を持ったかのように逆立った。
頭部にあった似合わぬほど鋭い一本の角が輝きを増す。
その圧倒的魔力の揺らぎに、天空の使者、あるいは悪魔などと呼ばれ畏怖される大型のグリフォンでさえ震えた。
ふかふかの毛並みを揃えたそれを背に眠る少女の瞳が見開いた。
紫水晶のような瞳はぼんやりとしている今は緩みきった少女のものだったが、意識を取り戻した瞬間に鋭くなる。
それは、まるで別人のようだった。
「おはようございます、お嬢様――お加減は、いかがでしょうか?」
少女に声をかけたのは、一人のメイドだ。
露出の少ないメイド服とスレンダーな体格が特徴のそれを見て、生物ではないと察することのできる人間はほとんどいないだろう。
「うむ、良い感じだ。さて、桜――どれほど集まった?」
その名を冠する桜色の髪が鮮やかに舞う。
桜は恭しく主に告げた。
「オーガ部隊が四つ、リッチ部隊が二つ、飛竜が二匹と喰人鬼が一とグリフォンが一。小国程度ならば落とせるかと」
メイドは機械のように淡々という。
まるで冷たい人形のようだった。
だが、違う。
その瞳は感情の色があった。
そこにあるのは何処までも深い、主人への慈愛だった。
「成程な――よくやった――」
勿論それは桜の力ではなく、魔族たる少女の齎す力だったが、彼女が傷つき眠っている間、すべての魔物を管理し、傍に置いたのは間違いなく桜だった。
「二千と、二百、四十と三年、か――随分と長く眠っていたものだ。今はすっかりと、人の世か――待たせてすまなかった、桜。お前の忠義以上の宝を私は知らない。感謝するぞ――」
桜は流麗に一礼する。
地に落ちた一滴の雫は誰の瞳にも映らない。
魔族の少女、リノアが目覚めたとき、そのすぐ傍の洞穴で眠っていた魔道制御人形桜はコケに塗れ、土に埋もれたまま、ただ瞳を閉じていた。
自然影響への事故修復に当てる魔力を減らすため、洞穴の中で、低位活動状態で座っていた。
それは、永遠に近しい拷問だった。
桜には感情がない訳ではないのだ。
希薄なだけで、魔道制御人形は――災禍の魔王が残した遺物は胸の内に確かな心を備えている。
で、あれば――
2243年の孤独を一体誰か耐えれようか。
一体誰が望むだろうか。
ただ、何時かも知れず目を覚ますだろう主を待ち続ける日々に、一体誰が価値を、意味を、見出すことができるだろうか。
桜の思いはたった一つだった。
それをリノアは理解している。
「お帰りなさいませ、我が主――」
たった、それだけ。
ただ一言。
そんな、言葉だけを告げるために、彼女は永遠にも錯覚する時を、今か、今かと待ち続けたのだ。
いや、待ち望んだのだ――
長い。
余りに永い時間だっだろう。
今日は目覚めなかった。
なら明日はきっと。ひょっとしたらもう、主は目を覚まさないのかもしれない。
でも、それでも――彼女がもしも目覚めたときに傍にいられるように、一人にしないために、ただそのすぐ傍で――傍らで見守り続けなければいけない気がした。
もう一日だけ。
もう少しだけ。
そう思い続けて、この日を待ち望んだのだろう。
「さあ、始めようか。お爺様が望んだ理想を――今、ここから始めましょう――」
「仰せのままに、我が主」
グリフォンの背にリノアが飛び乗る。
本来プライドが高く、調教が不可能だといわれるグリフォンが頭を下げて、席を用意した。
たった一人の少女に、心から屈しているのだ。
「では、どのようになさいますか? 近場から、攻めていきますか?」
桜の言葉にリノアは目で合図を送る。
「ああ――だが、その前に――不躾な来客に案内を頼もうか――」
森の茂みが微かに揺れる。
一瞬で逃走を選んだ気配がうかがえた。
「御意に――」
そうして、魔族は動き出した。
◇
ハウスマンは冒険者ギルドに長きに渡って自由交易都市を中心に活躍する冒険者である。
二十四という若さでBランク冒険者へと上り詰めた彼は、間違いなく優れた才をもっていた。
彼には苦手分野というものがなかった。
短剣や剣を使った近距離、槍や鎖鎌、投げナイフなど、癖のある武器を用いた中距離、弓そして魔法を駆使した遠距離。何処を請け負っても一流の実力を発揮できる彼はまさにパーティの万能職だった。
だが、それだけでは駄目だった。
天才の領域。
A級には、どの分野においてもハウスマンは届かない。
彼がA級にあがったのは四十六の頃だった。
これはまた前例がない年齢での昇進だった。普通A級に上がるような人間には年齢など大した問題ではないのだ。まさしく才能が違う。異なる次元で活躍する彼らの前に年や経験は多少必要になる程度なのだ。
クリスタを見れば分かる。彼女は十九の時にA級に昇っている。要した時間はたった二年だ。そして一年後には二つ名を得ている。
まさしく才能の次元が違った。
勿論、強さの次元も。
だが、同じA級としてハウスマンが劣っているわけではない。
無論戦闘能力など比べることもおこがましいが、ハウスマンの努力は、弛まぬ努力は、天才の領域に足を踏み入れていたのだ。
彼はB級に上がった時点で、強さを諦めていた。
自分がこれ以上鍛えた所で、決してA級には上がれないことは分かっていたのだ。
だから、方針を変えたのだ。
目立たなくてもいい。
格好良くなくてもいい。
ただ、自分が生まれ育った街を。
ギルドを。
仲間を。
守れるなら、それでいいと。
その小さな一助になれる力を捜し求めたのだ。
「先生、随分と、多いですね――――魔素も濃い――――」
ハウスマンの隣で歩く少女が言う。
東方出身の少女、フウカは一族の伝統らしい黒装束に身を包みながらハウスマンの後を追った。
「それに、魔物の数も――これは、なにか、嫌な予感がしますね」
カイトもフウカと同意見だった。
二人はハウスマンの後を追う。
どちらも一流の斥候であるにも拘らず、ハウスマンを先生と呼んだ。
「泉を確認次第、すぐにギルドに戻るぞ。ここから先――俺の魔法から絶対に出るなよ?」
「「はい」」
ハウスマンが選んだ道は、戦いではなく偵察だった。
元々盗賊系の技能もそれなりにはこなせた。
万能とはいえないが器用貧乏なハウスマンは自らの魔法をただ一点――隠蔽に特化したのだ。
魔法技――魔素隠れ。
自らの周りに自然と同じ魔素を含んだ領域を発生させ、周囲の景色と一体化する術と、
風魔法――音の消失
この二つを組み合わせ、独自の歩法や気配の殺し方を探求し、A級――天才の領域にハウスマンは足を踏み入れた。
少なくとも、このレベルで気配を消せば、同じA級の者ですらハウスマンに気づくことはない。
整備の行き届いていない、足場の悪い森を駆け抜けた。
深層に入ると、森の色が変わった。
深く、不気味な気配が漂う。
ハウスマンも滅多に立ち入ることのない領域だった。
皆が皆、体が重くなったような錯覚を覚える。
しばらく、進んだその先で、強化された視覚はそれを移した。
「止まれ――!」
小声で、それでもハウスマンガそう言った。
足を止め、茂みに隠れる。
「グリフォン!!」
見えたのは巨体だった。
獅子と鷲の体を持つ、高位の魔物。
人里に出現することは滅多になく、人を襲うことも滅多にないが、プライドが高い、天空を舞う孤高の王。
Aランク冒険者パーティを中心に、複数の冒険者で囲えば、撃退が可能とされる魔物だ。
フウカとカイトは、その存在感だけで気圧されていた。
「いや……そうじゃねー…………」
確かにグリフォンに目を奪われるが、問題はそこではなかった。
「封印の泉が……枯れている、だと…………!?」
そう、泉が何処にも存在していないのだ。
元、泉であった場所にグリフォンが寝そべっているのだ。
だが、寝そべっていたのはグリフォンだけではない。
その背がまるで枕だとでもいいたげに、小さな少女が眠っていた。
「ま、ま、ま、ま、ま、さ、か……」
カイトが声にならない声を上げる。
ハウスマンも嘘だと言いたくなる。
だが、未知の事態に陥っている今、慌てている時間など一秒もないのだ。
「一人か、いや二人だな……」
ハウスマンが冷静に呟く。
同時に――三人は信じられない光景を見ることとなる。
グリフォンが少女に向かって頭を垂れたのだ。
孤高の王が、
天空の悪魔が、
臣下の如く頭を下げた。
それが現す意味は――
思考はそこで中断された。
薄く、淡い敵意が一瞬発せられたかと思うと、鋭い視線が茂みに向いた。
「「ひっ!」」
フウカとカイトの声が重なる。
「行けっ! ここは抑える――!」
ハウスマンが即座にそう言った。
「先生!?」
「都市に――ギルド長に伝えろ!! 早くしねーかっ!!」
「でも――!!」
少女の絶叫がハウスマンに届く。
だが、それを聞いている時間はない。
「足手まといなんだよ! お前らがいちゃ、俺が逃げらんねーだろうが!!」
ハウスマンは強く叫ぶ。
「やぁ! 先生も一緒に……!」
「カイトぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 連れてけぇ!!」
無言でカイトはフウカの手を引き走りだした。
二人の影が一瞬だが視界に映る。
二人の弟子に背を向けて、ハウスマンは背に担いだ剣を抜く。
怪しく光る森の狭間の陽光が、刀身の鈍色を覚悟と共に白銀へと染めた。
そして数秒後、それはハウスマンの目の前に現れる。
「殊勝な心がけだな――弱者を守るか、人間よ――」
悠然と、ただ一歩。
周囲の生き物が、草木に及ぶまで道を開けるかのように、風に揺られた。
まるで死神のような気配を持つ、小さな少女がそこにはいた。
瞳に映る一本の角。
それを見て、ハウスマンは覚悟を決めた。
「お前らには、分からないさ――」
精一杯の皮肉だった。
ハウスマンには守るべきものがある。
それは家族だ。
肉親ではない。血の繋がりなど何処にもない。
それでも、共に生きて、共に歩いた、仲間こそが、先生と慕ってくれた弟子こそが、自らの命さえ投げ打ってでも守りたい宝なのだ。
少女はただ笑みを浮かべていた。
そして一言。
「分かるさ――」
それは悲哀に満ちた呟きだった。
毒気を抜かれる、儚げな瞳だった。
「お爺様の気持ちを――この私が、分からぬはずなどないっ! だから人間よ、我等の礎となるがいい――」
それが、開戦の合図だった。




