龍の逆鱗
一体何を間違えた?
ローベルトの問いに答えるものは誰もいない。
一流冒険者にも劣らない屈強な騎士が、泡を吹いて気絶している。
そんな姿が羨ましいとさえ思う自分がいた。
だが、目の前の少女はそれを許してくれない。
恐怖に心が耐えかねて、意識がふっと消え去ろうとした瞬間、魂が引っ張られる感覚とでも言えばいいのか、強制的に意識が戻る。
既に、この場は拷問場となっていた。
一体何を間違えた?
そんな質問だけがぐるぐると頭の中を回り続ける。
ローベルトは大貴族といえるレンヴェル家の家臣だ。下民が勝手に口を利くことは許されないほどの身分と、力を持っている。まして、今回はエレオノーラの名代としてきたのだ。その権力は、下級貴族を問題としないほどに大きく、ちょっと力のある女と、開拓村の下民など笑みを浮かべて従うはずだったのだ。
決して間違えた対応はしていない。
大貴族の使者として相応しい振る舞いを行ったはずなのだ。
なのに、何故、こうなった。
目の前に化物がいる。
伝説に謳われる古代魔族なのか?
それとも、神と同格とされる竜なのか?
ローベルトは何かを言おうとして口を開こうとするのだが、顎が外れるんじゃないかと思うほど震えて、唇や舌を噛むだけに終わる。何もされていないのに、膝が崩れそうになったり、口の中が鉄の味で染まったり、脳ミソが思考を止めたりと、もうローベルトにできることは何もなかった。
「随分とふざけた事をぬかすな――アイシャが一体誰のものかだって? そんなものは決まっているだろう――」
一切の反論を許さない鋭い言葉が静寂を切裂いた。
「――私のものだ」
ナハトの中ではアイシャ自身のことをもの扱いもしていないし、アイシャの権利を縛るつもりもさらさらない。
だが、そんな当たり前のことを今さら口にする必要などないのだ。
そんなことは理解したうえでアイシャは、
『ああ、私の主様――アイシャは貴方様に、永遠の忠誠を誓います』
と、口にしたのだから。
そうであるなら、主であるナハトがその言葉を否定するはずない。
アイシャが望む限り、アイシャはナハトのものである。
だからこそ、誰の命令であろうと受け付ける義理はない。
誰からも指図を受ける必要もない。
アイシャは例え貴族の前だろうが、王様の前だろうが、竜の前だろうが、神の前だろうが、頭を垂れる必要はなく、命令を聞く必要もない。
それを認めないというのならば、ナハトが認めさせて見せよう。
ナハトが知らしめてやろう。
唯一無二の龍の従者の価値を見せ付けてやろうではないか。
「クハハハハハ、頭を垂れろとはまた面白い冗談を言う――」
「ひっ――! わ、私は、エレオノーラ様の、の、の、だ、代理、でありますのでその――」
無意識に悲鳴が零れた。
それはもう反射のようなものだった。自分が何を言っているのかも分からない。様々な交渉ごとを勤めていた経験があるローベルトも今回ばかりは何が正解なのか分からない。
金色に包まれたナハトの瞳が動くたびに、心臓を握られているかのような錯覚がローベルトを襲っていた。
「――愚かな貴様に分かりやすいたとえ話をしてやろう。今、貴様の前には竜がいる――――」
ナハトはただの威圧だけでなく、技能竜の威圧を全開にする。
デュランは打ち破って見せたが、目の前の男が威圧を乗り越えれるとは微塵も思わない。
「さて、頭を垂れろというか? 跪けというのか? ましてその所有物を無理やり奪おうと企み、何よりも大切な宝を私の元から奪おうとする。随分と勇敢なことだ――だがな、賢いとはいえないぞ?」
ローベルトは千切れるほど頭を縦に振っていた。
愚かな自分にも、その気配を全身で浴びて、理解することができた。いや、理解させられたというべきか。
何もかも、最初から最後まで全て、間違っていたということを。
最早ナハトの言葉を肯定する以外に選択肢などない。
「すみませんでした、すみませんでした、すみませんでした、すみませんでした、すみませんでした――」
延々と頭を下げ謝罪するほかないのだ。それ以外の正当など一つもない。ただ慈悲にするがるようにローベルトは口から悔恨を吐き出した。
そんな姿を見て、ナハトはようやく威圧を解いた。
小さな部屋だけでなく、交易都市に張り詰めていた空気が緩む。
「帰って貴様の主に伝えよ。力で臨むならば力で応対しよう。礼を尽くすならば礼を持って応対しよう。権力を振るうのは貴様の自由だが、己が分を弁えよ、とな」
ナハトは言いたいことは言ったとばかりにアイシャの頭を撫でて窓から街の外を眺めた。
ずっと、己に向けられていた憤怒の視線がなくなって、ローベルトは安堵の吐息を漏らす。
己の命が助かったのは奇跡ではないか。そんな生の実感を感じる。
ナハトという目の前の少女は得体が知れないが、Sランク冒険者や古代魔族、そういった伝説レベルの御仁であることは間違いがなかった。デュランを退けたという報告が今さらになって正しかったんだと実感する。
「で、では――私は失礼いたします」
一秒でも長くこの場にはいたくなかった。
許されたならば、すぐにこの場から逃げ出したいのだ。ローベルトは倒れ伏した騎士など見捨てて、一目散に逃げ出そうとした。
だが――
「まあ、待て――」
ナハトの声が厳かに響く。
従いたくはないが従う他ない。まだこの地獄が続くのかと思うと、いっそ死にたいとすら思ったが、今は先ほどの威圧がなくなったためローベルトも少しだけ余裕があった。
「な、何か――?」
ナハトは窓の外を見ながら言う。
「北東にある大きな屋敷、華美な金の装飾がされた屋敷がお前の主の屋敷でいいのか?」
「は、はぃいっ! その通りでございます」
「ははは――そう脅えるでない――流石に無礼の代償に人の命は奪わぬよ――」
そう言って、ナハトは振り返りながら、嗜虐心が溢れているであろう笑みを浮かべる。
「だが、私に喧嘩を売っておいて、代償が何もなしというのは、少しばかり虫が良すぎるとは思わないか?」
「そ、それは――」
嫌な汗がローベルトの全身から噴出した。
ナハトは残虐だった笑みをさらに深めた。
「代償は支払って貰おう――――竜魔法――天より降る雷竜」
交易都市の人々に聞けば誰もがこう答える。
その日は、雲一つない快晴だった、と。
にも関わらず、空に影ができたのだ。
ふと、空を見上げた瞬間。雷の竜が降ってきた、と。
耳が破裂しそうになるほどの轟音が響き渡った後、レンヴェル家目掛けて一直線にそれは落ちた。
レンヴェル邸は、その三分の一が消滅し、地面には風穴が開いていたにも関わらず、一人の死者もでなかったという。
ナハトの手によって引き起こされた一つの魔法は、後に竜の消えた影響として、竜災の一つとして数えられることとなった。




