別れの夜に
和の国の海を支配する三界の主、白鯨。
全長三キロにも及ぶ怪物であり、和の国では世界最大の生物と呼ばれ、恐れられる存在である。
怠惰な巨大魚、動く災害、泳ぐ島、呼び名は様々だが、海底で眠るその存在が一度魔素を求めて移動をすれば、津波が港を飲み込み、生態系が変わると言われる和の国の災害だ。ハルカが姫巫女としての使命を果たすこととなった要因でもある。
「……なんか納得がいかない…………」
そんな怪物が、皿の上で刺身になって盛り付けられている様を見て、ハルカはそう呟いた。
「ふむ、赤身も白身もどちらも中々に美味だが、口に合わないか、ハルカよ」
「そうじゃなくて! はぁ……もう、なんか命かけて姫巫女やってた過去が遠い昔のことのように感じるよ…………」
疲れ果てた様子のハルカがぼやく。
「そう落ち込むな、美味い物に罪はないぞ、ほれ、あーんだ」
そう言って、箸につまんだクジラ肉を拗ねるハルカへと差し出す。
ハルカは半分やけくそで、肉に食らいついた。
「…………美味しい……はぁ、ま、分かってたけどね、ナハトちゃんと付き合うことは、こういうことだってことは……」
ナハトにとっては落ち込むハルカを弄る軽い遊びであった。
だが、
「ナ、ハ、ト様?」
アイシャはそう思ってくれなかったらしい。
「…………いや、アイシャ、今のもダメ?」
「駄目です――と、言いたいところですが、アイシャにもしてくれたら許してあげます」
ナハトはクジラの肉の代わりにフルーツを箸でつまみ、アイシャの口へと運ぶ。
もきゅもきゅと咀嚼して、笑顔を浮かべるアイシャを見て、ナハトもほほ笑む。
「アイシャちゃんは、ほんと立ち直りが早いよね…………」
「慣れてますから」
小さな体で、力強く言うアイシャ。
先ほどまでは、なんですかこれは、レヴィさん無茶しすぎです、ほんとにナハト様は、と慌てていたが一分もしないうちに笑顔に戻るアイシャは流石と言えるだろう。
「ほんと……羨ましいな…………」
波に攫われて、消えるハルカの声。
ハルカはそっと無防備だったアイシャの体を抱いた。
「ふぇ……? あ、あの、ハルカさん?」
「ねぇ、アイシャちゃん。ハルカちゃんは~、何番目でもいいからね」
「ふぇ、ふぇえええええええええええ、だ、ダメですよ、そんな――」
慌てるアイシャにハルカは笑う。
「え~、そう言わずに仲良くしようよ」
ハルカは理解しているのだ。
どれだけ、ナハトが甘い顔をしようと、その隣にはアイシャ以外の存在を置くことはない、と。
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、ってね――だからさ、アイシャちゃん、ほら、あーん」
「ちょ、やめ、ナハト様ぁ――」
ハルカは艶やかな微笑と共に、ナハトに言う。
「ハルカちゃんは、諦めが悪いから、覚悟しててね、ナハトちゃん」
◇
星々が彩る春の空で、双子月が身を寄せ合っているかのように、輝いていた。
姫巫女の居城たる春雷殿は広く、客間も余るほどに存在している。
そんな中、ヒユキに与えられた部屋に、侵入者が一人。
「いらっしゃい、シュテルちゃん」
そんな言葉が出てくるあたり、慣れとは怖ろしいなとヒユキは思った。
ぱたぱたと布団を足で叩きながら、まるで自分が部屋の主であるかのようにヒユキを迎えるシュテル。
「えへへ、きちゃった」
なんてはにかめば、もうヒユキにはそれを受け入れることしかできない。
「どうしたの、こんな夜遅くに」
「んー、もうすぐおわかれだから、きょうはヒユキお姉ちゃんといっしょにねむるの!」
明日にはイワテを離れ、明後日にはシュテルたちは和の国から去る。
別れを惜しむように、シュテルは言った。
「それはいいけど、お母さんは許可してくれたの?」
「あい、たっぷりとあまえてきなさい、だって!」
「そっか、じゃあ一緒に寝よっか」
「あいっ!」
元々一つしかなかったヒユキの布団に、シュテルがもぞもぞと侵入してくる。
障子から微かに差し込む双子月の光がシュテルの髪を重層的に照らし、幻想のように映し出した。
掴もうとすれば、消えてしまう幻のような子供。
だが、そんなシュテルは確かにヒユキの横にいて。伸ばした腕を枕にして、嬉しそうに身を寄せてくる。
「――ねぇ、シュテルちゃん」
ヒユキは震えそうになる声を必死に抑え、言う。
「ありがとね」
「――んぅ? なにが?」
「いろいろ」
多くを言うと、言葉が軽くなるような気がして。そしてそれ以上に、込み上げてくる思いを抑えきれそうになかったから、ヒユキはそう言う。
「じゃあ、シュテルもありがとう!」
「なにが?」
「んーとね、いっしょに遊んでくれたり、出かけたり、たたかったり、んーと、いろいろ!」
「じゃあ、お相子だね」
「だねー」
本当は違う。
彼女には救って貰ってばかりで、ヒユキは何も返せてない。
でも、そんな答え、シュテルが欲してないと分かるから、ヒユキはそう言う。
「ねぇ、ヒユキお姉ちゃん」
「なに?」
「また、来てもいい?」
「うん、いつでもいいよ、また遊びに来てね」
「あいっ!」
嬉しそうに言うシュテル。
ヒユキは声になりかけた言葉を、心の奥で呟く。
(――――シュテルちゃんが良ければ、ずっとここに居てもいいよ――――)
なんて、言える訳がない。
彼女はまた駆け出すだろう。
好奇心の赴くままに。
そして、気が向いた時に、思いもよらぬ時に、ぴょこんと現れて、またびっくりするのだ。
「シュテルちゃ――」
声をかけようとしたヒユキの言葉が止まる。
シュテルが、すーすー、と寝息を立てていたからだ。
「ほんと、自由なんだから」
ヒユキは愛おしそうに、シュテルの髪を一度だけ撫でる。
「おやすみ、また、一緒に寝ようね、シュテルちゃん」
疲れていたのか、すぐに寝入ったヒユキは、
「ごふっ…………」
顔面にめり込んだシュテルの肘に起こされた。
「え……シュテルちゃん……?」
シュテルはぐっすりと眠ったままだ。
再び寝ようと瞼を閉じるヒユキに、
「ぐふぅ……」
小さな足がお腹にめり込む。
「わざとじゃないよね、シュテルちゃん…………」
「にゅふふふ、もうおなかいっぱいだよ、ままぁ……すぅ…………」
寝言で答えたシュテルは眠り続ける。
その代償に、ヒユキは一睡もすることなく朝日を拝んだ。
「最後のはなしで…………」
幸せそうなシュテルの横で、ヒユキは悔恨と共にそう言った。




