小さな奇跡
「行っておいで」
ナハトは少女を背中から下ろすと、女性の手を握らせる形で座らせた。
後は二人次第、ナハトにできることはここを立ち去る準備をすることだけだ。
「さて、待たせたな。次は貴様らの番だ」
ナハトが爪で牢を切裂こうとしたとき、
「あ、ありましたー!」
なんてアイシャの言葉が響いたのだが、残念ながら手は動いてしまった後である。
冒険者を閉じ込めるほうの鉄格子は魔鋼製であり、魔力を吸った鉄の強度は、通常の鉄の十倍とも二十倍とも言われている。
だが、結果は先ほどと全く同じ。まるでバターのようにスライスされたのだから、ガレン達も唖然として言葉を失う他ない。
「あー、ナハト様! せっかく鍵、探しましたのに……」
いや、突っ込むところはそこじゃない。
ガレン、サシャ、アルの突込みが完全に一致した。
呆然とする三人にナハトの手が伸びる。
「くっ!」「はぁ!?」「なっ……」
深紅の爪が一閃されるだけで、分厚い魔鋼がスライスされていく現状に、彼らは何も言えなかった。
三人は瞬く間に自由になっていたのだ。
ナハトは最後に残された美姫を見る。スレンダーな体躯が下着姿だけあって綺麗に映った。そんな美麗な肌に物々しい鎖が幾つも繋がれていて、魔法陣の下で首輪と共に拘束されているので、裸だった性奴隷達よりもよっぽど扇情的だった。
氷のように透き通る青い髪、細い瞳は周囲を威圧するような雰囲気がある。表情全体に感情の色が薄く、裸同然の姿で縛られている今もまるで羞恥を感じていないようだった。
「さて、後はこっちの美女か――下の魔法陣はなんだろうな……?」
ナハトは何の警戒もしないまま、その魔法陣に踏み込もうとした。
「駄目です、それは拘束の魔法で入ったら駄目なんです!」
サシャは慌てるが、魔法への理解がより深いクリスタは何も言わなかった。
彼女は最初から、それこそナハトがこの場に現れたときから、デュランを無傷で倒し、ここに現れたのだと直感していた。だから、恐らく盗賊が仕掛けた魔法では拘束などできないと確信していたのだ。
そしてそれは正しい。
ナハトが足を踏み入れると、バチっと音が響いて、魔法陣が消えた。
ナハトの纏う伝説級の防具、宵闇の抱擁の高い魔法抵抗力に陣が堪えかねて霧散したのだ。
「何だ? 何も起こらないどころか、消えてしまったぞ?」
ナハトにそれを知る術はない。
ただ、何故か魔法陣が消えたとしか思えなかった。
「まあ手間が省けたか。次は首輪の魔法陣か――魔物使い系の支配、隷属に近いな」
リアルワールドオンラインに人を縛れるアイテムは存在しない。
人を一時的に支配、所謂行動不能やフレンドリーファイア状態にしてくる魔法は存在していたが、完全な隷属系統は魔物相手のものしかなかった。
「魔封じの紋だ。魔力が抑制される。貴方の魔力ならば、流し込めばそれだけで紋のほうが壊れると思うが――」
クリスタの言葉を最後まで聞くことなく、ナハトがそっと首筋に触れた。
「ん――」
抑揚のないクリスタの声が漏れる。
ナハトは無骨なアクセサリーに優しく魔力を流そうとしたのだが――
「っ――――! んっ――! ぁ――! まっ、て……もう少し、ゆっくり――」
「ん? そう言われてもな、すぐ壊れるから我慢しろ」
クリスタは少しだけ頬を赤らめ、歯をくい縛っていて、痛みを堪えているかのようだとナハトの瞳には映った。
しかし、実際は違う。
他人の魔力は違和感の塊なのだ。ナハトの魔力が魔封紋を通してクリスタの体を巡るということは、他人に肌を撫で回されたり、くすぐられたり、抓られたりと、そんな感触を齎した。
「なっ! ん、ん、んぅー! ふぁ――――! ――――! ――――!」
ナハトの魔力は膨大であり、その勢いも常人とは比べ物にならなかった。
しばらく苦悶が続いた後、パキリと音をたてて首輪が割れた。
「――――よし、外れた、最後に手枷を外せば――」
ナハトが最後に残った手枷を外そうとしたが、クリスタはそれを手で制した。
そして無表情のまま、どこか怒りをぶつけるように、乱雑に手枷を引っ張る。
ぎちぎちと金属の悲鳴が聞え、素手のままクリスタは魔鋼を引きちぎった。
「…………はぁ、ありだとう、助かったわ……」
あまりに感謝の気持ちが篭っていない声が聞こえた。
釈然としないナハトだが、クリスタはそっぽを向いたままだった。
「クリスタっ!」
サシャがクリスタに抱きついた。
目じりに溜まったサシャの涙をクリスタが手で拭った。
「ごめんなさい、全ては私の責任です。ですが今は、ここからの離脱を――」
クリスタの言葉を、ナハトの静かな声が遮る。
「まあ、待て――既に脅威は何もない。それに、まだ戦っている子がいる」
「あれは、何をしたの?」
身を寄せ合う小さな子供と妙齢の女性を見てクリスタが言う。
「繋げたのさ、魂を――きっと、今頃、親子喧嘩するみたいに言い争っているはずさ」
肩を重ねる少女を見るナハトの瞳は、何時にもまして優しげだった。
◇
ラーナはただの村人だった。
幾つあるのか分からない開拓村のうち比較的古い村の生まれで、少しだけ容姿のいいそれだけの人間だった。
ただの村人として生まれた以上、生き方は決まっている。
家の手伝い、十四か十五にでもなれば、村の誰かと結婚、また家事に勤しむ。それだけだ。
別に不満だったわけではない。食べていけるだけ幸福だとさえ思っていたのだから。
だけど、ただの村人なりに夢くらいは見る。
竜と同じくらい希少な清廉潔白な貴族に見初められるとか、超絶イケメンの王子様に告白されるとか、逞しい冒険者様につれらて王都に住むとか、そんなあり得ない夢くらいは見た。
勿論夢だと知っている。
現実は何も変わらない、変わったときは危険が及び死ぬときぐらいだろう、そう思っていた。
そんなラーナの転機は唐突に訪れた。
夢は夢、そう諦めていたラーナに声をかける男がいたのだ。
「一目惚れだ! 結婚してくれ!」
決して、格好の良い男ではなかった。顔の良い男でもなかった。逞しくもなかった。少しだけ裕福だったが、貴族や王族などと比べることはおこがましい。
夢に見たのとは違う、汗臭くて、情熱的で、真っ直ぐな、そんな男だった。
名は、フレン。
開拓村の村長の息子で、学が少しだけあり、商人の下で修行を積んで、今は開拓村を回る行商人をやっていた。
理想とは懸け離れていて、冗談にも好みとはいえないそんな男に、初対面でいきなりプロポーズされるとは夢にも思っていなかった。
「頼む、幸せにする! 絶対だ、俺はお前と生きて、生きたい!」
何度か断わったにも関わらず、村を訪れるたびしつこくそう言われて、先に折れたのはラーナのほうだった。
愚直なまでにバカ正直で、裏表のない笑みに、知らず知らずラーナは惹かれていたのかもしれない。
行商でよく家を留守にするが、帰って来たときはいつも五月蝿いくらいに愛を叫ぶ男だった。
思えば、最初からずっと、そういう男だったとラーナは微笑を浮かべた。
娘ができ、それなりに幸せな生活を送る中で、フレンはある日提案をした。
「家を交易都市に構えようと思う。俺も一端の商人だ。自分の城を持って、お前にもニーナにも幸せな暮らしを送らせてやりたい」
ラーナは夫と娘との時間を優先して、村から都市へ引っ越すことにした。
それは、かつて望んだ幸せの形に少しだけ似ていて、きっと幸せに違いないとラーナは確信していた。
あの日、あの時、あの瞬間、夫と、愛する娘を殺されるまでは――
馬車でおよそ七日の距離、それがラーナの故郷と自由交易都市との距離だ。
事件が起こったのは、雨が降りだした四日目の夜。
ラーナにとって一生忘れることのできないあの日の時間は、たった数分の出来事だった。
馬車を囲む護衛が盗賊の気配に気づき、戦闘が始まったが、ラーナはその様子をよく知らない。小さな娘を抱きかかえ、馬車の中で震えていたから。
ただ、今でも記憶に焼きついて離れない光景は――
「……げほっ……逃げろ、ラーナ。ここは、俺が――――」
夫の腹部から飛び出した、血に塗れた剣だ。
盗賊共の薄汚い笑い声と言葉が、胸を切裂く刃だった。
夫の倒れ伏す姿が、ラーナの心を壊す鈍器だった。
そして、悲劇は加速する。
凄惨な光景を目にしたからではないだろうが、まだ小さな子供だったニーナが泣き出したのだ。
声を上げて泣き喚く幼子が不快だったのか、盗賊は容赦なくラーナの前で剣を振って――――ニーナの首が宙を舞った。
その瞬間だったのだろう。ラーナの中で何かが壊れてしまったのは――
悲鳴を上げた。
殴られよと、叩かれようと、蹴られようと、刺されようと、犯されようと、何をされようと、ただ慟哭した。
天に、地に、己の怨嗟が少しでも響くように。
神に、竜に、己の憎悪が少しでも届くように。
無意味と知っていて、無価値と知っていて、それでも命を削って叫んだのだ。
声が潰れて、血反吐が零れて、涙が枯れて、死に瀕するまで、ただただ、人を、この世界を、呪い続けた。
喉が潰れ、声が出せなくなると、もう言葉の発し方も忘れそうになった。
牢屋に放り込まれ、気まぐれに訪れた盗賊に体を汚される毎日に、死のうと幾度も思った。
たが、死ねばそこで終わってしまう。
憎悪が、怨嗟が、復讐が、そこで潰えてしまうのだ。
だから、この薄汚い盗賊共が死に絶えるまで、ラーナは死ぬ気にはなれなかった。
だからこそ、人形と揶揄されるまでに反応がなくなったラーナは、ただただ生にしがみ付いた。
そんなある日、珍しい新人が連れて来られた。
幼くも美しい、薄い金髪の少女。
生きることが不幸でしかないであろうそんな少女に、ラーナはかつての娘が成長した姿を重ねた。
だからだろうか。
声の発し方を忘れたラーナが、
「貧相な娘の相手をして、そういった趣味なのか、お前ら? 私の相手が足りないようなんだが?」
自然と言葉を発してしまったのは、きっとそのせいだったのだろう。
涙をこぼす虚ろな少女に、ここでの生き方を教えた。
夜眠るとき腕を貸してやった。
早く行為を終えるためのテクニックを教えてやった。
こんなものはニーナには教えられないな、そう思いながら少女の心を支え続けた。
そして、長く、苦しい悪夢に終焉が訪れた。
現れたのは一人の少女だ。
一流冒険者ですら適わなかったここの全てをなぎ倒し、翻弄し、惨殺したであろう、少女が皆を助けた。
言葉の使えない少女も例外ではない。
彼女はまるで神のようだった。
口を開かずともすべてを理解しているように見える。
ああ――
やっと、見届けることができた。
因果応報――
少なくとも神は、いや人の世は悪人に死を与えられる程度にはまともだったと、そう思えた。
だから、ここが――この瞬間こそが、止まっていた生の終着点なのだ。
ラーナは小さな神の前で瞳を閉じた。
そして――
「駄目だよ、お姉ちゃん!」
終焉のときは、訪れなかった。
◇
そこは魂の世界だ。
生物の根幹であり、人の容を、意思を決定付ける、始まりの場所。
真っ白の部屋は、酷く薄暗い。
いたる所に影が落ちて、耳を劈くような悲鳴が幾度も幾度も木霊している。
終わりなき怨嗟の循環。
一度声が響けば、後から、後から、呪言が飲み込んで、途切れることなく響き続ける。やがてそれは壁にぶつかって、飲み込まれ、反響して、繰り返す。
小さな来訪者は、そんな声をも打ち消して、出なくなった言葉を心の奥で叫んだのだ。
「駄目だよ、お姉ちゃん! 死んじゃったら、駄目! そんなの、そんなの、エマは悲しいです」
これでもか。
まだ足りないか。
必死で、必死で、言葉を荒げた。
「……あんた…………喋れたのね……」
にもかかわらず、そんなラーナの答えに、エマはずっこけそうになった。
そもそも、エマの声を、といっても悲鳴だが、ラーナは聞いているはずなのだ。
「そうじゃないです! なんで、なんでですか……! せっかくナハト様が助けてくれたのに、なんで死んじゃうんですか!! そんなのひどいです! そんなのあんまりです! 私は、お姉ちゃんに助けられたのに…………!」
少女は冷たい牢獄の中、体を包んでくれた温かさを胸の中で思い出し、宝物のように抱きしめた。
「はは、ちみっこが生意気を言うのね。でも――私はもう終わっている。生命を留めてまで訴えた怨嗟は今、報われた」
だから、もういいんだ。
今度はそんな声が反響する。
「むずかしい言葉は……わかんないのですよ……」
「あんたはこんな所までくる必要はなかったんだ。私はもう、十分だ。お前は精々幸せに、は難しいか――――だけど、まあ、長生きしなさいよ」
諭すように瞳を閉じたままのラーナが声をかけた。
だが、エマは閉じられたラーナの瞳を見据えて、涙をこぼしながら首を振った。
「むり、ですよ……私だって、もう、十分にこわれちゃってますから……一人で生きていくなんてむりですよ……!」
エマが言葉を失って、消えそうになった精神を辛うじて繋ぎとめれたのは、傍にあった暖かい手のひらと、小さな慈愛のおかげなのだから。
閉じかけていたラーナの瞳が、泣きじゃくるエマを小さく映した。
「私は、もう、一人っきりです。ここを出れても、一人ぼっちです。生きられるはず、ないじゃないですか!! 私は、あなたがいたから生きられた! お姉ちゃんが、失ったお母さんみたいに思えたから生きられたのに――なのに、一人にしないでよぅ! お願いだから……なんでもするから……だから、一人にしないでよ!!」
「エマ…………」
「あなたの不幸は知っています。この場所が教えてくれました。だから、あなたが過去を清算して、役割だったことも終わって、今を生きる理由がないことも知ってます。
だから――
――私じゃ、駄目ですか?
私じゃあ、貴方の生きる理由になれませんか? その価値はありませんか? 代わりなんかじゃなくて、新しい貴方の娘に、私じゃなれませんか?」
子供らしい、それでいて子供らしくない小さな願望。それは生への意思だ。
言葉も禄に喋れない。
体も、汚液に塗れてしまった。
心も、決してまともとは言えない。
だけれど、それはお互い様なのだろう。
だからこそ、エマにはラーナが必要なのだ。
「まだ、何もお返しできてません! いっぱい助けて貰ったのに、何の恩返しもできてません。なのに、貴方は私の前からいなくなろうとするんです。そんなのあんまりですよ……私は、貴方に助けられた命なのに……」
エマは持てる全ての力を使ってラーナを助けるつもりだった。
でも、今はただ心の弱さを吐露するしかできなかった。
瞳から溢れ出る雫をとめることなど、できなかった。
「エマ、貴方」
「お母さんって、呼んじゃあ――だめ、ですか……?」
ラーナは小さな少女を見つめた。
くしゃくしゃの顔で、心配そうな顔で、情けなさそうな顔で、何を勘違いしたのか、生きる屍相手にそんなことを言う数奇な少女だ。
だが、全てはエマの言う通りなのだろう。
ラーナはただ、ニーナの代わりをエマに求めただけだった。
愛情を与えたのも、親切心が湧いたのも、助けようと思ったのも、あの日失った娘の代わりが欲しかった。そんなラーナの心の弱さがそうさせた。そでないと生きていけなかった。にもかかわらず、満足したら道具のように手放した。なんとも汚く醜いエゴだ。
ラーナに生きる理由はない。意思もない。
なかった、はずなのだ。
家族のいないこんな世界で、生きる理由はなかったはずなのだ。
なのに、こんな女を捕まえて、娘になりたいなどとエマは言う。
情けない。
なんと、情けないことか。
自らの弱さが招いた事態から逃げ、挙句こんな小さな子供を泣かせているのだ。
「はは、お前は変わっているな……私など母にしても、幸せにはなれんぞ?」
それは何時かと同じ理由。
ただ、エマの泣き顔を見たくなくて、それだけが理由で口が勝手に開いていた。
「っ! そんなこと、ないです! 絶対ないです!!」
「ニーナよりも、六歳くらい年上だな。じゃあ、エマのほうがお姉ちゃんか」
「…………い……はい……!」
「フレンは甘やかしすぎてたからな、私はそれなりに厳しく育てるぞ?」
「…………はぃ、…………!」
涙に溺れて、喉から言葉が出てこなかった。
代りにエマは、何度も何度も縦に首を振った。
「おがあざん! お母さん! エマの、エマのお母ざん!」
「はは、なんだ。随分と甘えん坊な娘じゃないか」
腕の中で泣く小さな少女の髪をラーナが撫でる。
いつの間にか闇は晴れ、一筋の光が部屋を照らした。
光に混じって、ラーナの瞳から零れた雫が、そっと地面に落ちた。
――ごめんなさい、フレン、ニーナ。そっちに行く前に用事ができちゃった。だから、もう少しだけ、待っててね。
一筋の光を辿り、深い水底に沈んだ意識が浮上する。
薄暗い牢の中、どこか明るい小さな部屋。
そこでもエマはくしゃくしゃな顔でラーナに抱きついていた。
「ぅ、ぁ、ぉ、がぁ、ざ、ん!」
「――はいはい、甘えん坊さんね。私のエマ」
ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
第一章の転換点、半分程度まで辿りつくことができました。
これからもよければお付き合いくださいませ。




