VSレイドボス
星月夜の空に向かって、暖かな湯気が昇った。
鼻腔を擽る濃厚な匂い、思わず涎を飲み込んでしまいそうになるスープにレンゲと箸を伸ばし、シュテルが一息に麺をすする。
「ふー、ふー、はむっ、はぐっ――」
「あんまり勢いよく食べるとスープがはねちゃいますよ、シュテル」
「んーっ! だいじょーぶ!」
はねたスープをつけたまま一心不乱にラーメンをすするシュテルの頬を、アイシャが軽く拭う。
何とも和む家族の団欒だったのだが、
「ちょっとっ! なに暢気にご飯なんて食べてるのよっ!」
怒れるヨゾラの声が、無粋に入り込んできた。
「なんだ、お前も腹が減っているのか? 仕方がない、ナハトちゃん特性とんこつラーメンか、野菜マシマシあっさり塩ラーメンか、好きな方を選んでいいぞ?」
「え、あ、じゃあ塩で――じゃなぁーいっ! あんた、自分が何をしでかしたか分かってるの!? 魔獣を迎撃、いやまずは民を避難させないと――何暢気にご飯なんて食べてんのよ!!」
「腹が減っては戦はできぬと言うだろう。それに避難も退避も必要などない。どの道この街に入ることができる魔獣など存在しないのだから」
夜が満ち、夕飯がまだだったシュテルのお腹がすいたという要望に応え、保有空間から取り出した赤提灯がぶら下がる屋台。その奥で、ナハトが言った。
「あ、じゃあ~、ハルカちゃんはとんこつちょうだーい」
「っ! ハルカ様っ!」
「えっと、私はシュテルちゃんと同じものを」
「おねえちゃんっ!!」
「わしはあっさりとした塩を頼むぞ」
「…………とんこつで」
「ケンセイ様に……お母様まで…………」
諦めに満ちた実母の姿を見て、ヨゾラはがっくりと項垂れた。
「…………塩……」
どんぶりを片手にヒユキとヨゾラが囲むテーブルへ、悲しそうに行くヨゾラ。
「ナハトちゃん特性のラーメンが食べられるのだ、もっと嬉しそうな顔をすべきだろうに」
「ナハト様…………」
「あー、ナハトちゃんって、結構ドSだよね~」
呆れるような目でナハトを見るアイシャ。そんなアイシャの心を代弁するかのようにハルカは言った。
ナハトは訝し気に首を傾げながら、自分の器にもラーメンをよそった。
「腹ごしらえも大切じゃが、ヨゾラちゃんの言うことも一理はあるのではないかのう、ナハトちゃんや」
「と、言うと?」
ケンセイの言葉にナハトは続きを促す。
「いざ戦が始まれば、民は混乱します故、あらかじめ理由をつけて避難させておく方が良いとは思いますのう」
「安心するといい、それも想定しているさ。そのために、一人フィルネリアを働かせているのだからな」
ナハトの視線がゆっくりと移ろう。
山の頂で一人仲間に混じれず、忙しそうに魔力を巡らすフィルネリアは憎々しそうにナハトを睨んでくる。
「いざ、事が始まれば、フィルネリアの魔法でぐっすり、というわけだ」
「街一つとか覆える自信ないんですけど…………魔力も絶対持たないだろうし……てか、いい匂いだし、お腹すくし…………そもそも勝手にこんなことして……上司に責任問われたら……非道の限りを尽くされて死ぬんだわ……私、サキュバスだし…………」
「苦労人じゃのう……」
ケンセイの言葉に皆が同情するように頷いていた。
「それって、危険とかはないんですか?」
夢魔であるフィルネリアの魔法を不安に思ったのか、ヒユキが聞いた。
「ちょっと気持ちの良い夢を見るだけよ……別に副作用とかはないわ…………」
「それはそれで問題があるような…………」
「手早くすませよ、フィルネリア――」
「あんた鬼ね…………」
ナハトの要求に、ヨゾラが呆れるように言った。
「――ふむ、だがいいのか、急がなくて? どうにも気が立っているのか、奴は今にも襲い掛かってきそうなのだが――」
「「あんた(貴方)が喧嘩を売ったからでしょ(ですよ)!!」」
仲の良い姉妹の突っ込みにナハトは苦笑して見せる。
険悪な仲だと聞いていたが、実は仲良しに違いない。
二人の言う通り、ナハトは神願祈祷術式を改変する際、地脈の一部を制御して本来フジ大山へと集約するはずだった魔素の流れを軽く遮断してみたのだ。
それは、魔素を糧に生きる魔獣にとって、目の前にあったはずの食事を取り上げられたも同然なのだ。怒るな、という方が無茶であろう。
地が震える。
その震源は、誰もが気配でもって察し、目で見て確認することさえできてしまう。
和の国最大にして最高峰、フジ大山の頂が赤々しく光った。
猛々しい憤怒の気配。
まるで、血を流すかのように噴き出た赤は、地を、空を、紅に染めた。
「…………怪物……」
茫然と、そうコノハがこぼした。
赤き海を泳ぐかのように、長大な何かが、蠢く。
その影は、地霊大社の頂からでも見て取れるほど、巨大であった。
「…………ちょっと……あんたのせいでしょ……なんとかしなさいよ……!」
あれほど強気だったヨゾラが、余裕のない震えた声でナハトに言った。
そんなヨゾラの声を塗りつぶすが如く――
「「「――グルゥウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!」」」
――地を鳴動させる咆哮が、轟いた。
それも、一つではなく複数の音だ。重なる轟音は暴威となって響き渡る。気の弱いものでは、それだけで気絶してしまうことだろう。
最も、ナハトにとっては、ただの煩わしい騒音でしかないのだが――
「ふむ、予定より少し早いな――シュテルのご飯もまだ終わっていないことだ。どれ、少し眠って貰おうか――」
ナハトの体に魔力が巡る。
深く、どこまでも深く続いているような底なしの魔力は、怪物の咆哮も、人々の不安も、ヨゾラたちの怯えさえも飲み込んで、痛々しいまでの静寂を生み出した。
巨体が震えたような気配を感じる。
領域を脅かされた怒りを抱く三界の主ですら、逃亡を選んでしまうほど、ナハトは本気で魔力を練り上げていたのだ。
「――龍撃魔法――氷龍の停止世界――」
重なり合う積層魔法陣が一瞬にして、フジに連なる山々を飲み込んだ刹那。そんな世界の時間が凍る。
青き幻想の光を反射する、神々しい氷。
それは、この世の全てを制止させる氷龍の力に他ならない。
巻き込まれたものは全て、なす術もなく停止する。
赤く染まっていたはずのフジ大山は、まるで氷山にでも変貌したかのような有様だった。
「…………なによ……それ……」
「……幾ら何でもこんなの……無茶苦茶です…………」
「流石のハルカちゃんも……これは……驚いちゃうな…………」
三人の巫女が、現実感のない声で言う。
「…………あり得ないわ…………」
「…………これほどとはのう……」
コノハやケンセイでさえ、言葉を失う。
街一つ、どころか、眼前に広がる山々の全てを凍結させたナハトの魔法がもし和の国に向けられたら、そんな想像をしてしまったのか、冷や汗を浮かべていた。
茫然とした沈黙の中に唯一、ずずず、とシュテルが麺をすする音だけが場違いに響いていた。
「……大物だね、シュテルちゃんは…………」
「うーん、シュテルちゃんもそうだけど……余裕あるね、アイシャちゃん…………」
ハルカの言葉に、シュテルの横にいたアイシャがしみじみと言った。
「深く考えちゃダメなんです、ナハト様は無茶苦茶なので……ナハト様はなんでもあり、ナハト様だから仕方ない、そう考えたほうが心に余裕が生まれますよ」
「……そこは素直に褒めて欲しいのだが、アイシャ…………」
「ナハト様が何も企まないでいてくれたら、考えてあげます」
「…………」
アイシャの前で小さくなるナハトを見て、ようやく和の国の面々は平静を取り戻したようだった。
「なんていうか、もう、全部あんたがやったらいいんじゃないかしら?」
「せっかくのボス戦だぞ? シュテルの出番を奪うなんて無粋な真似を私がするはずないだろう」
氷龍の停止世界は行動阻害に重きを置いた魔法である。故に、攻撃力事態は龍撃魔法の中でもかなり低いのだ。
それに、相手は明らかにシュテルよりも強大なレイドボス級モンスターである。
このくらいのハンデは負って貰おうじゃないか。
「それに、和の国を守るのは武家であるお前の役目じゃなかったのか、ヨゾラよ」
「それはそうだけど……あんなの相手にできることなんて…………」
「そう悲観することはないぞ。レイドボスに挑むためには仲間の存在は不可欠であるし、ギミックの一つや二つ、仕組まれていて当然なのさ」
ナハトの言葉に、落ち込むヨゾラの手を握っていたヒユキが言う。
「それはつまり、私たちにもできることがある、ということですか?」
「勿論だ、友情、努力、勝利は物語の基本だからな――精一杯働いて貰おう――さて、準備はいいかフィルネリア?」
「…………なんとか……はぁ……ちゃんと制御手伝ってよね…………」
「空腹は満たされたか、シュテル?」
「あいっ!」
「では、記念すべき、第一回レイドボス戦を始めようじゃないか」
宣告と共に、桃色の魔法陣がクサツを飲み込み――戦いが始まった。




