傷跡
薄っすらと、立ち込める白い湯気が満ち満ちた空間で、ナハトは得たいの知れないプレッシャーを感じていた。
まるで、幻獣にでも睨まれているかのような冷たい悪寒が背筋を這う。
きっとそれは錯覚なのだろうが、あったかな湯殿がすぐ傍にあるとは思えないほど周囲の気温が低下している、そんな気がする。
「アイシャ、そう怖い顔をしなくても、きっとアイシャの思っているようなことにはならないと思うのだが……」
「むぅー……」
アイシャは不満そうな顔で、これでもかと頬を膨らませている。
そんなアイシャをハルカはニヤニヤとしながら眺めていた。実に楽しげだが、アイシャの不機嫌の原因はハルカなのだ。もう少し、分かりやすく本心を口にして欲しいものである。
「でも、するんですよね」
「いや、それは……」
「マッサージ、するんですよね」
「はい」
頷くナハトにアイシャは正しく表現する言葉が浮かばないほど冷たい顔を向けていた。
「ナハト様のエッチ……」
「いや、だから誤解だって……」
「ぷっ……くくくっ、あはははははははは! はー、おかしい。アイシャちゃんはあれだよね~、結構嫉妬深いよね~」
たまらず、と言うようにハルカは笑った。
「そ、そんなことないです。アイシャは普通です、普通なんです」
「私で~、これならー、もしもナハトちゃんに彼氏とかができたら~、大変そうだよね~」
「っぅ!」
何気なく発せられたハルカの言葉に、アイシャは驚くほど狼狽していた。
「そ、そ、そ、そんな、ナハト様に、か、か、彼氏……がっ……!」
「ナハトちゃんは~、常軌を逸する可愛いさだから~、きっと引く手数多だよ~」
「いや、アイシャ、ないからな」
だが、ナハトの言葉は既にアイシャには届いていなかった。
「駄目です、ナハト様! そんな優男に騙されちゃ!!」
「おーい、アイシャ……?」
「ぅぅ、ナハト様ぁ……アイシャを置いていかないでください……捨てないでください…………」
「ぷふっ、アイシャちゃんはほんとにからかい甲斐があるよね~」
「可愛いだろう?」
「それはまた~、お熱いことで~」
どこか別世界に行ってしまったアイシャを置いて、ナハトとハルカは笑い合う。
「それに、アイシャは嫉妬深くなんてないさ」
「え――?」
ニヤニヤとおちょくっていたハルカの表情が一瞬にして、固まる。
ナハトの口元に浮かべられた笑みは、身も凍るような不気味を体現していた。
そう、アイシャの嫉妬などナハトからすれば可愛いものなのだ。
ナハトが抱える仄暗い独占欲に比べれば、可愛らしいものに過ぎない。それこそ、母親の手を離したくないと甘える子供のようなものである。
「あーいしゃー!」
ナハトは凄惨な笑みを柔らかく変化させ、楽しげにアイシャに飛びついた。
「ふぇ! あ、ナハト様?」
「アイシャはほんとに可愛いな! だが、もっともっともっともっと、自分に自信を持っていいんだぞ、お前は私の従者なのだからな」
「――ナハトさま…………」
ナハトは視線を上げたアイシャと見詰め合う。
全ての雑音が遠のいて、世界にはアイシャしかいないのではないか、そんな気さえしてくる。
二人の距離は自然と近くなっていって――
「すとぉおおおおおおぷ!」
――すんでのところで邪魔が入った。
「ちょっとぉ~、今はハルカちゃんが主役だよ~、主賓のはずなんだよ~! なーのーにー、なんなのこの扱いはー! 二人の世界を作るのは禁止~!」
語尾にマッチしない強めの抗議にナハトは舌打ちを一つ。
だが、ハルカの指摘も最もなので、手早く済ませてしまうためにナハトはハルカを見るからに如何わしいマットへと誘う。
「それ……使うんですね…………」
「ウィルさんの作品だからな、見た目はともかく――高性能なのは確かだぞ」
親衛隊筆頭、怪しいウィルスことウィルさんの作品は見た目や作成目的は邪だが、生み出された道具の質はどれも素晴らしく高性能だ。
ゲームをプレイする上ではどうしても手を伸ばしたくなる、強さ、を放棄して、生産系特化ビルドに走った彼はギルドを影で支える唯一無二の存在だった。ナハトの装備を始め、消費アイテムから代えの効かない道具の数々にはギルインであれば誰もが助けられてきたのだ。
(――――美少女に超絶高性能なスク水を着て戦ってもらうのが夢、だったか――)
そんな理由で、ゲームを有利に進めるために必須である強さを放棄できるあの人はどうしようもない変態である。
(…………ウィルさんの最高傑作、結局見れず仕舞いになってしまったな……)
欲望の夜はレア度を定めるなら伝説級の道具であろう。
スタミナの限界値を突破させる効果に加えて、体力を常に回復させる高性能な一品だ。非表示設定を看破した先には緊張緩和や痛覚軽減など不必要な隠し効果さえ持っている。
それは本来の使われ方をしなければ健全で、ナハトにとってとても都合のいい診療台であった。
「じゃあ、その……お願いしても、いいかな…………?」
そう言って、ハルカは照れくさそうに肌を隠していたタオルを地に落とした。
「――――えっ?」
隣にいたアイシャが一瞬、息を呑んで。遅れて、驚きの声を上げた。
「あれ? アイシャちゃんは二度目だよね、私の裸を見るのは――」
そういうや否や、あ~、と一人納得した声をハルカは上げる。
「そういえばー、あの時はそれどころじゃなかったもんね~、それにタオルも巻いてたし」
なんてからかうようなハルカの声に、アイシャは声を上げない。
羞恥に顔を染める余裕もなく、ただ呆然と、それを見る。
日焼けに隠れるように、だが隠れきることはなく。まるで雷鳴に晒されたかのような、赤い傷跡。
火傷の様な、何か。
だが火傷のような一面に広がるような傷ではない。
心臓を中心にジグザグと雷が走ったかのように広がる傷跡に連動して、血管が所々浮き出て見えた。
「――んっ」
ナハトの指がハルカの足に触れると、彼女は擽ったそうな声を上げた。
心臓から比較的遠い手足の傷跡は程よく焼けた肌色に隠れて、近くでじっくりとでも見なければまず分からないだろう。
「あはは~、ちょっと醜怪だよねー」
だから、アイシャは気づかなかったし、分からなかったし、理解できなかったのだ。
ハルカが陽気で、朗らかで、くたびれていて、子供のようで、茶化したようなその身の奥に、これほどまでに大きな傷跡を残していることが。
「言ったろ、アイシャ――アイシャの思っているようなことにはならない、と」
「あっ…………んぅ……アイシャちゃんの……えっちぃ……」
「絶対今のハルカさんのほうがエッチです!」
「んっ……でも、これ、こんなに気持ちいいんだね……すごぃ……こんなの……はじめて……」
ハルカは色っぽい吐息を吐き出しながら、声を絞り出していた。
ナハトは軽く魔力の流れを解した所で、一旦手を離す。
「実際凄い事なんだよ~、アイシャちゃん――同じような施術はして貰ってるんだけど~、正直いつもは辛くって~、一時間もしない内にギブアップしちゃうしね~」
歪んだ魔力回路の調整。それは中々の難事なのだ。
ナハトは龍眼によって普通は把握できない魔力回路を正確に捉え、相手を傷つけないように技能によって魔力を完全に同質のものに変えている。
そうしてはじめて、気持ちのいいマッサージで済むのだ。
「……痛むのですか?」
おずおずとアイシャは聞いた。
「心配、してくれるんだ」
ハルカは小さく、だが少しだけ嬉しそうに声を発した。
「そんなの、当たり前じゃないですか!」
誰かが傷を負ったら、アイシャは心配せずにはいられない。
理由とか意味とかリスクとか、そんな普通なら最初に浮かんできそうな感情よりも先に、どうしようもない気遣いがアイシャの心を埋めるのだ。
「でもまあ~、大丈夫だよ~。傷はもう治っちゃてるし~、痛みも我慢できないほどじゃないからー」
なんてハルカは笑う。
実際、それは傷ではなく傷跡だ。痛々しい表面の傷は既に完治している。
問題はその内側。
ズタズタに歪んだ魔力回路は、深刻だろう。おそらくハルカはもう魔法を使えないだろうし、日常的な生活の中でも継続的な痛みを感じているはずだ。彼女は、いつも繕うように浮かべていた笑顔の奥に、どうしようもない痛みを隠していたのかもしれない。
「でも痛むから、苦しいから! ナハト様にマッサージ――じゃなくて、治療をお願いしたのですよね!?」
そんなアイシャの言葉に、ハルカは答えようとして、
「あはは~、ちょっとちがっ――んぅうううぅうっ!!」
失敗した。
ナハト手が再びハルカの体を弄り始めたからだ。
今度は、被害が軽微な手足ではなく、心臓の傍を中心に魔力が流れる。
「英雄さまぁ……! まって……! んっ、もっと、ゆっくり……」
異質な魔力が体内を流れると、普通は体が拒絶反応を示し不快感が襲う。ハルカのように内側に傷を抱えていれば、それは痛みとなって現れるだろう。
が、ナハトが完璧に調整した魔力は『不』の文字が取り除かれてしまう。
「あっ……! それ、ダメッ――!!」
ハルカは多量の汗と共に、体を捩じらせナハトの手から逃れようとするが、ナハトはそれを許さない。
羞恥に唇を閉ざし、全身をがくがくと震わせるハルカに追い討ちをかけるようにナハトの指が這う。
素直になろうとしない悪い子には、これくらいのお仕置きは許されるだろう。
「そもそも、アイシャの体にいたずら――コホン。治療を施そうと思ったのはぐちゃぐちゃになって見るに絶えなかったハルカを見たからなんだよ」
「悪戯、今悪戯っていいましたよねっ!?」
アイシャの言葉をナハトは華麗に無視する。
ズタズタに引き裂かれた彼女の体は、身の丈に余る魔法を行使した証なのだ。
ナハトは荒い息を吐き出すハルカを見据え、そして言う。
「――何を使った?」
「…………意地悪……分かってるんでしょ……?」
拗ねるようにそっぽを向くハルカ。ナハトは口が軽くなるようにハルカの体を弄ぶ。
「言葉にしなければ分からないことも、伝わらないこともあるのだぞ――大方、この地に張り巡らされた魔方陣を行使した、そんな所だろう」
「…………はぁはぁ……かくしてる……あっ……はず、なんだけどな……」
「私は魂魄龍の龍人だぞ、それに最高位に近い魔法職でもある――足元にこの規模の魔法が埋め込まれていて、気がつかないはずがないだろう」
「あ、アイシャは……ぅぅ……その……分かんないですけど……」
可愛らしく項垂れるアイシャにナハトは苦笑する。
大規模といっていい魔法の存在にアイシャが気がつけなかったのには理由がある。
クサツの街を覆う魔方陣には一切の敵意が存在していないのだ。
だから、アイシャは気がつくことができなかった。
「んっ……あの……ナハトちゃん……あっ……もう、じゅうぶんだから……そろそろ、やめて欲しいなってハルカちゃんは思うんだけど…………」
いつまでも手を止めようとしないナハトに、ハルカはついに静止をかけた。
だが、ナハトはただ笑うだけだ。
どこまでも、どこまでも、残忍に。
「えっ……あんっ、いやぁ……やめっ……なんで、あ、ダメぇええッ……! えいゆう、さまぁ……これ以上はほんとに、ダメッ!!」
だらしなく口を開いて、必死に手を伸ばすハルカ。
「た、たすけて~……アイシャちゃん……」
すがり付く先は当然ながら一人しかいない。
ナハトを止められるとすれば、それは当然アイシャだけであろう。
「な、ナハト様? あの、そろそろ勘弁してあげたほうが――」
「私は少し怒っている――ハルカ、私はお前に望みを言え、と言ったはずだ――」
「だ、だからマッサージして欲しいって言ったんじゃ――」
アイシャはそう言うが、ナハトは静かに首を振る。
「それは違うな。そもそも、体を治して欲しいのなら、そう言えばいい。ハルカの体はそれなりに傷ついてはいるが、私ならば修復できないほどじゃない。だから、本当に体を治して欲しいのなら、それがハルカの願いならば、私にそう頼めばいいんだよ、アイシャ」
ハルカは視線を下げる。
回りくどい真似をして、言葉を濁した彼女は本当の意味でナハトに甘えてなどいない。
頼り切ってなどいない。
本心を曝け出していない。
だからナハトは、少しだけ不機嫌そうにハルカの体を整えてやるのだ。
「冗談とまでは言わないが、半分以上アイシャをからかうためのお願いだったことは間違いないな」
「ほ、本当なんですか――?」
アイシャの言葉に、ハルカは沈黙し――
「――――え、えへへ」
――誤魔化すように、愛らしく笑った。
「あっ、ちょっと、アイシャちゃん。ごめん、謝るから、だから、あっ! 助けっ――!」
そう、ナハトが口にすれば、ハルカを庇っていたアイシャも最早敵である。
「ナハト様――」
「なんだい、アイシャ?」
酷く冷たい音色で、アイシャは告げる。
「――やっちゃってください!」
アイシャの言葉に逆らうことなどあるはずもなく、ハルカの断末魔は木霊した。




