頼みごと
薄っすらと立ち込める白い霧を払うように、和やかな朝日が差し込む。
日の光は、庭の池に反射して水面を仄かに照らすと共に、部屋の中に入り込んできた。
地霊祭六日目の朝。
ナハトは畳の上に敷いた柔らかな布団の上で目を開く。
たとえ瞳を閉じていても、半分以上意識があるナハトにとって睡眠時間は愛しい家族の温もりを感じるための時間でもあった。
「んぅ……」
小さな寝息が体に触れる。
広げた両手の上からはほんの少しの重さと、心地の良い温もりが伝わってくる。
最も、左手で眠るシュテルは寝相がやんちゃなので、頭を乗せていたはずの場所に小さな足が乗っているのだが。
いつまでもこのままでいたい、そう感じるほどの安らぎ。
だが、長々と惰眠を貪るわけにもいかず、内心で心を決めると、持てる技量の限りを尽くして、慎重に腕を抜く。
上体を起こして、下着姿からいつもの装備を身につけていき、ぐっすりと眠るアイシャの傍に座ると、その頭をゆっくりと撫でる。
「ん……」
すると、ナハトが伸ばした手をアイシャがぎゅっと握った。
小さな手が、微かな力を入れてくる。
離すのが嫌だと、そう言わんがばかりに。
(昨日は中々に大変だったからな……)
羽目を外しすぎたアイシャは酷く落ち込んでいた。それはもう、ずーんと効果音が聞こえるくらい塞ぎ込んでしまっていたのだ。
責任感が強いアイシャだ。シュテルがいる今は家族としての関係が強いが、アイシャはナハトの従者としての立場も強く意識している。そんなアイシャが酔っていたとはいえナハトに幾度となく暴言を吐き出したのは許せないことなのだろう。
そうして落ち込んだアイシャを宥めるのは本当に大変だった。
ナハトとしてはその程度のこと気にする問題ではない。なにせアイシャは大切な家族で、ナハトの最愛の存在なのだ。
至らなければいくらでも暴言を吐いてくれていいし、もっともっと気安く、近しい関係になることも望むところである。
きっとアイシャもそんなナハトの気持ちを理解している。
理解した上で、それでも納得がいかず自己嫌悪に陥り、そしてまたふさぎこむ事で心配や迷惑をかけてしまっていると責任を感じてしまうのが、アイシャなのだろうとナハトは思う。
今は休暇なのだ。
誰だって、一度くらいお酒で我を忘れるような経験をするものだ。
息を抜いて楽しむための旅行で、気疲れを残すのは本末転倒である。
だから無礼講でいいじゃないか、と。
今は特別だからちょっとくらいはっちゃけてもいいじゃないか、と。
アイシャの意外な一面が見れてますます好きになった、と。
ナハトは本心をこれでもかと告げて。
アイシャはその度に泣き出しそうな顔で謝って。
元気出して、とシュテルと二人がかりで励まして、ようやくいつものように一緒に眠ることができたのだ。
「はぁー。ほんとに、私のアイシャは可愛いな」
普通なら面倒だ、とでも思うのかもしれない。だが、ナハトはアイシャやシュテルからの面倒は喜んで全て引き受ける。
それが家族であるということなのだ。
だが、それでも負い目は消えないアイシャのためにはけじめが必要だった。
だからナハトは折角なので、言っておくことにした。
『じゃあ、いつか何でも一つだけ言うことを聞いて貰おう』
と。
『え、えっちなのは、その、駄目ですからね……』
なんて恥ずかしそうに言うアイシャに何をお願いするのか、これは中々に答えの導けぬ難問である。
ナハトはアイシャの寝顔を堪能十分に堪能して、いたずらっぽくその頬を軽くつつく。
「アイシャ、朝だぞ」
柔らかな頬の感触と共にくすぐったそうに体をよじらせたアイシャが、半分だけ目を開いて、んっ、と声を漏らした。
うちの家族は皆、まだまだ成長途中なので朝に弱い。
アイシャは焦点の定まらぬ目でナハトの顔を見ると、幸せそうな顔で予想外の行動に出る。
「えへへ、ナハトさまだぁ~」
寝ぼけているのか、アイシャはナハトの顔に手を伸ばすとナハトの顔を引き寄せてぎゅっと抱きしめてきたのだ。
か弱い力だからこそ、抵抗するのは簡単なのだが、普段は決して見せないアイシャの強引な振る舞いにナハトは思わず力を抜いてしまう。
「ちょ、アイシャ……!?」
顔を真っ赤にしながら脱出を試みるナハトを、
「んにゅ~、ナハトさま~、はなれちゃやっ!」
そんなアイシャの言葉が遮る。
攻めるのは慣れているが、攻められるのは予想外だ。
ナハトの混乱を加速させるように、アイシャはナハトを抱いて離そうとはしなかった。
「ナハトさま~、しゅきぃ~、アイシャはナハトしゃまが――」
アイシャはナハトの頬を手繰り寄せ、ゆっくりと自分の顔を近づけたそんな時。半分しか開いていなかったアイシャの目がぱちりと開く。
「――――んぅー、あれ、なはとさま……ほんもの……?」
「――や、やあアイシャ。おはよう。私は本物だが、いったいどんな夢を見ていたんだ?」
ナハトとアイシャはお互いの吐息を感じられるほど顔を近づけたまま、会話する。
「えっと……あれ、ふぇ? あ、あ、あ、あの! なんでナハト様、あれ、近いような、あれ?」
ぼん、っと真っ赤に噴火したアイシャの顔が羞恥と混乱に満たされる。
「お、落ち着けアイシャ。ちょっと寝ぼけていただけだろう、だから何も問題はないさ」
「そ、そうですよね。アイシャは、何もしてないですよね?」
ナハトは冷静に考える。
ここで、アイシャに真実を伝えることは、昨夜の二の舞になりそうだ、と。
「ああ、もちろん、アイシャは何もしていないさ。私がちょっと、悪戯しようとしたら、アイシャが寝ぼけていた、それだけだ」
「そ、そうですか」
「ああ、そうだとも」
お互いに顔を近づけたまま、ナハトたちは曖昧な会話を続けていた。
すると、
「ママとパパ、あさからなかよし?」
なんて、騒がしくて目を覚ましたシュテルが言ってきた。
心なしか、シュテルが呆れているような、そんな気がした。
「は、離れましょうか」
「うん、残念だがそうしよう」
そして、なんとも言えない空気のまま、新しい朝は訪れた。
◇
「……おはよう、相変わらず朝は遅いのね…………」
ナハトたちが朝食のため広間に向かうと、既に大量の朝ごはんを食べ終えたフィルネリアがお腹をさすりながら挨拶をしてきた。
「おはようございます、フィルネリアさん」
「おはよー!」
「元気そうでなによりだな、二日酔いはもういいのか?」
「……ええ、まあ、ほどほどにね。今は食欲も戻ったわ。いくら美味しいからって食べすぎ飲みすぎは駄目ね……」
安月給の兵役で、森暮らし。
そう愚痴っていたフィルネリアは、今の状況をきっと誰よりも楽しんでいるはずだ。
「もう一人、ダウンしていたあいつはどうした?」
「……ハルカなら朝からなんか動き回ってたわよ、ケンセイ様と一緒に……」
「なにかあったのですか?」
「……さあね。ま、お祭りも終盤だし、忙しいんじゃないかしら……?」
「お前は忙しくなさそうだな。私たちの案内も、和の国との友好関係構築もお前の仕事のうちじゃないのか?」
「……たかが一部隊の参謀にそんな大仕事できるわけないし……最悪問題起こせば私が首になるだけだろうし、物理的に……大人しく、のんびりするのが一番…………というか、魔国行きも止めない? ぶっちゃけエルフの里なんて誰も眼中にないはずだし、手も出さないって……」
さりげなく、ナハトを宥めようとするフィルネリアだがナハトは聞き入れた様子もなく、微かに笑う。
「――それでは私の楽しみがなくなるではないか」
「ナハト様っ!?」
「冗談だ、だがフィルネリアよ。本当にいいのか?」
静かに威圧するナハトの雰囲気に当てられて、フィルネリアの体がびくりと震える。
「……なにがよ?」
「もし、間違えましたで、アイシャの故郷に手を出せば――」
ナハトは手に持っていた木の箸を、両の手でパンっと潰した。
粉になった木片を、ゆっくりとテーブルの上に置く。
「――私はお前たちと敵対するぞ?」
「…………」
フィルネリアの頬に汗が伝う。
彼女は理解していた。
ナハトが、微塵も偽ることなく、世界に喧嘩を売れる大国と敵対し、滅ぼすと宣告しているその事実を。
フィルネリアは苦々しそうに頭を抱え、ため息を吐き出す。
「……分かったわよ、案内すればいんでしょ…………はぁ、で、いつまでここに滞在する気なの?」
「さしあたっては祭りが終るまで。ああ、だが、シュテルの希望だ。一度海を見てから、のんびりと向かうとしようか」
「ママすきぃー!」
シュテルは自分の要望が覚えられていたことが嬉しかったのか、ナハトに飛びついてくる。
そんなシュテルを受け止め、よしよしと頭を撫でていると、呆れたような表情を浮かべるフィルネリアが言う。
「……海なら魔国にもあるわよ?」
「戦時の国の海よりも、平和な国の海のほうが楽しめるだろう? それに、和の国の海の幸、食べたほうが得だと思わないか?」
「……まあ、いいけど……好きにしなさい、って言わなくてもどうせ好き勝手するんでしょ……」
「よく分かっているではないか――折角訪れたのだ、何事も楽しまなければ損だぞ」
フィルネリアと今後のことについて話していると、
「じゃあ~あ~、ハルカちゃんがまた案内したげるね~、海は私の領分だったし~、期待していいよー」
なんて、どこからともなく乱入したハルカが言う。
「元気そうだな、仕事はもういいのか?」
「おかげさまでね~。そもそもハルカちゃんの今の仕事はナハトちゃんたちの歓迎だから~、ここでこうしているのがお仕事なんだよ~」
「何か、あったのですか?」
アイシャが聞くと、フィルネリアは少しだけ表情を暗くした。
だが、それも一瞬のこと。すぐに笑うと、いつものようにのんびりと口を開いた。
「ま、ちょっとトラブルがあったみたい。でも~、ハルカちゃんは管轄外だし、余計な口は挟めないかな~。まあ、気にしないで、多分大丈夫だと思うから~」
そうハルカが言えば、部外者であるナハトたちが口を挟めることはない。
のんびりと朝食を済ませ、食休みに入るとハルカがナハトの肩に寄りかかる。
「また悪ふざけか?」
「つれないなー。でも、ちがうよ~。前にナハトちゃん言ってくれたよね、助けてくれるって――」
ハルカには色々と便宜を図ってもらった恩がある。
魔族でもなく、唐突に訪問したナハトたちがこれほどまでに和の国を満喫できたのは、扉からの来訪者の歓迎、その任を負った魔渡大社の神主であるハルカのおかげといえるだろう。
「ああ、言ったな」
「だから、お願いしてもいい?」
「え、エッチなことは駄目ですからね!!」
そう、アイシャが言うと、
「ふーん、アイシャちゃんはエッチなことをお願いすると思ったんだー。ねー、どんなことお願いすると思ったのか、教えて欲しいなー」
なんて、ハルカは攻め立てるように、言う。
「ふぇ、それは、その…………」
「アイシャちゃんのえっちー」
「っ――!」
アイシャは顔を真っ赤にして、羞恥に悶えている。
正直、ものすごく可愛い。
「じゃ、じゃあ、いったいナハト様に何をお願いするつもりなのですか!?」
「んーとね――」
ハルカはにっこりと笑って、言う。
「――お風呂場でアイシャちゃんにしてたマッサージ、お疲れなハルカちゃんにもして欲しいなーって」
空気が凍る。
冷たい風が吹いたような錯覚がする中、ハルカだけが変わらない笑顔を浮かべていた。
アイシャは怒りに身を任せて拳を握り、
「や、やっぱりエッチなことじゃないですか!!」
そう、絶叫するのだった。




