泡沫の夢
「あーーっ!」
指を不躾に突き出して、小さな子供が大きく声を上げた。
びくっと、ヒユキの体が震える。
(やっぱりばれちゃったっ!?)
地霊祭の真っ最中に姫巫女であるヒユキが街中を出歩けば、騒ぎにならないはずがない。
大騒ぎになってしまう、とヒユキは覚悟したのだが、
「射的の名人だーぁ!!」
響いてきたのは予想外の言葉だった。
「あ、あのお嬢ちゃんは――小さな狙撃手じゃねーか!」
「なにーっ! 二番屋んとこの不動ネコを射抜いたあのっ!?」
ざわざわと人が騒ぎを起こしたのは、ヒユキと手を繋いで歩くシュテルを見て、だった。
「それだけじゃねーぞ! 三番屋の金魚掬いもやられたんだ! 目玉の巨大金魚があっさりいかれたらしい!」
「母親と二人組みでここいらの屋台全部涙目にしたらしいな……屋台殺しの片割れが現れるとは……今日はもう店仕舞いか……」
広がる喧騒にシュテルは満面の笑みを浮かべていた。
「名人、射的してー!」
「名人、金魚とってー!」
「名人、輪投げしてー!」
少しでも足を止めると、小さな子供から大人までシュテルを取り囲んでしまうだろう。
「きょうはデートだからまたこんどねー」
シュテルはそう言って、ヒユキの手を懸命に引く。
シュテルの身長に合わせると、体勢は自然と前に傾いてしまう。人ごみの中をするすると抜けていくシュテルをヒユキは人波に揉まれながらも懸命に追いかけた。
小さな子供に手を引かれる。
保とうとしていた年上としての威厳は、最早どこにも存在していない。なにせ、こんな小さな子供の前で、泣きながら心の内側を吐き出したのだ。
そう思うと、こうして手を引かれているだけで、羞恥に顔が赤く染まる。
「ゆ、有名人なんだね、シュテルちゃん……」
雑踏の中を抜けると、疲れきった息を吐き出して、ヒユキは言う。
「そうかなー、えへへー」
にぱっと花開く笑みをシュテルは浮かべていた。
注目されることが楽しくて仕方ないと言わんがばかりに。
ヒユキも神楽の際は注目されるが、それを嬉しいとか楽しいと思ったことはあまりない。だからシュテルの気持ちは分からないが、彼女が楽しそうでなによりだった。
「でも、ほんとに私がヒユキだって皆気がついてないんだ。見た目はともかく……すごいね、この、変装道具…………」
趣味の悪い帽子、怪しげなサングラス、奇妙な柄の指輪、灰色の服に、真っ黒の靴。
大泥棒の秘密道具、と言うらしいこの五つの道具は、着込むと何故か髪の色が変わったり、目立ちにくくなったりするらしい。
確かに鏡に映る髪の色は変化していたのだが、その効果には半信半疑な所もあった。
だが、今こうして街中を歩いてみても、誰も自分がヒユキだとは分かっていないようだった。
「とうぜんっ! ママのどうぐだもん!」
シュテルに出会ってからヒユキの常識は崩れっぱなしだ。
屋敷を抜け出した時もそうだ。シュテルと手を繋いで屋根の上とか、空を足場に下山を果たした。正直意味が分からないが、ヒユキは既に考えるのを止めている。
この子は何でもありなのだ。
「はぁ~、でも良かった……騒ぎにならなくて……」
「だいじょーぶだよ! それよりこっち、向こうのたこやきのおみせ! ママがおいしいって言ってたんだ、いこ?」
苦労して抜け出して、すぐに戻る羽目にならずに済んだのだ。
良かった、と思うべきなのだろうか。ヒユキは複雑な心境であった。
「おいしいーね!」
はふはふと息を吐き出しながら、シュテルと一緒に一舟のたこ焼きを突っつく。
評判というだけあって、外側はかりっと、中はトロトロで、ソースの大味と蛸の旨味が口いっぱいに広がっていく。
(懐かしい味…………美味しい……)
孤児だった頃は、粉もの料理をよく食べていた。
こんなに凝ったものじゃなくて、もっとシンプルで野菜と粉を水でかさましして焼いただけの簡素な料理。
ヒイラギに迎え入れられてからは、口にすることのない味だった。
「次はね、こっち! あしゆ、すごいきもちいいんだって、いこ!」
小さな子供に手を引かれる。
なすがままに街を歩き回り、知っているはずだった知らない街をヒユキは歩いた。
(何だか悪いことをしている気分……)
ヒユキは基本いい子だ。
ミズハで育ったときも、孤児となったときも、ヒイラギの一員になったときも、誰かの言いつけを破ったことなどない。
(大祭は明後日……ほんとは少しでも集中しなきゃ駄目なのに)
でも、
ああでも、
「たのしーね!」
「うん、楽しい」
もう七年以上の間住んでいるはずなのに、目を向けてこなかったクサツという街。孤児の時はそんな余裕がなかったし、巫女になったときも修行の日々で余裕がなかった。姫巫女になってからは、私的な用事で市井に足を運ぶわけにはいかない。
ヒユキは自らが守護する街のことさえ、何もしらなかった。
「ここは、いい街だね」
「うん! けしきはすごいし、おふろきもちいいし、みんなやさしいし、いっぱいゲームあるし、おりょうりおいしーし、ヒユキちゃんはきれーだし、きてよかった!」
それに何より、隣に心を許せる誰かがいる。
そのことがどうしようもなく、心地良い。
「そうだね、ほんとにそう」
そう条件反射で言って、ヒユキは己の過ちに気がついた。
「じまん?」
「断じて違います」
くすっと笑い声が重なって。
二人はまた、歩き出した。
◇
ことことと音を立てる小さな鍋。
抜群の味を誇る豆腐と万能のダシが取れる七色昆布を入れて、煮込んだだけのシンプルな湯豆腐。
それを肴にしながら、ナハトはお猪口に注がれたイズモの酒をゆっくりと飲み干す。
「ふむ、飲み易いな。高い香りと程よい酸味が心地いい」
「イズモ特産の名酒ですじゃ、お気にめしてなにより」
ケンセイとの真面目な話は既に終わり、今は歓談とともに酒盃を傾けあっていた。
ハルカはあっさり酔いつぶれていたが、ケンセイは中々に酒に強い。
ナハトと共にさまざまな酒を味わっているが、酔う様子は伺えない。ナハトはお猪口に酒を注いで、ふと目に入った刀を見つめた。
「いい刀だな、この国の兵は皆刀を扱うのか?」
鞘に収められているが、秘められた魔力の輝きが薄っすらと目に映る。
この世界で生み出されたであろう、特質級の武具だった。
「五百年前の職人が魔力を重ねて打った魔刀ですじゃ。侍は皆刀を扱いますが、魔銃兵、魔工兵、飛竜兵に魔刀兵、まあ、それだけではありませぬが、何も刀一筋というわけではありませぬ」
「魔獣に対抗するための術か。言って良かったのか?」
「市井にまで知れ渡っておる兵科ですじゃ。何も問題はありませぬ。それに――」
ナハトは瞳を揺らして続きを促す。
「和の国は強い。それは変わりませぬ故」
恐れず、弛まず、前を向く老人の目をナハトは楽しそうに見た。
「世は荒れ、混乱は今も広がっているのだろう――いつまでも引き篭もりではいられぬし、国内の問題に囚われるのも望ましくはない、か」
「外は嵐、内は火事、いやはや悩ましい」
ナハトは二つ目の鍋に火を入れる。
豆腐に、昆布、しいたけ、春菊、ねぎ、醤油を加えて味を調える。
程よく煮て、熱々の豆腐をナハトは口に運んだ。
「まあ、軍備を怠るような気質でもあるまい。そうすぐに戦火にさらされる場所でもない。いっそ最後まで知らぬ存ぜぬで通せば、そのうち戦が終わるかもな」
「はは、そうなればよいですな。戦争など一分一秒でも速く止めるべきなのじゃが――分かってはいても戦いに赴くのは、人の業ですかな」
そんなケンセイの言葉にナハトは首を振る。
「闘争を否定する必要などない。戦は忌むべき業かもしれぬが、闘争は生物の本能だ。そう易々と拒絶はできぬし、するつもりもないのだろう?」
「守るべき国がありますからなぁ」
ケンセイはどこか遠くを見て、ゆっくりと酒盃を傾けた。
「まあ、どの道――大戦など私にとってはただの些事だ。そんなことよりも、アイシャの機嫌を取り戻す方法を教えて欲しいものだな」
ナハトがこぼす本音に、ケンセイは大きく笑った。
「ほーほっほ、ナハト殿からすれば世界の趨勢を担う戦も、ただ見応えのある花火ですかな?」
「そこまで茶化すつもりはない、が――アイシャとシュテルの今以上に大切なものなどこの世に存在しないからな」
ナハトにとっては、それがどうしようもない本音で、事実だった。
(シュテルは今頃お楽しみかな――)
これからどうするか。
それも、愛しい家族の思い次第だ。
「ただ――――少し気に食わないこともある」
「それは――」
そう続けようとしたケンセイの言葉は、止まる。
ナハトの表情が少しだけ、曇っていたのだ。
だからこそ、続きを発する勇気など浮かぶはずもないだろう。
「まあ、気にするな。どちらにせよしばらくは雌伏の時だろう。大戦に関わるなら、この先訪れるであろう使者を迎える準備をすべきか」
大陸の情勢に明るくないナハトが予測できることは高が知れている。
当然、助言と呼べることもあまりできない。
「長く、なりそうですな」
「だろうな、だが、あまり長く続くようなら――」
ナハトは少しだけ笑みを浮かべた。残忍で、凄惨で、暴力的な微笑み。
ナハトがそっと口を開こうとしたそんな時、
「――好奇心、ネコをも殺す。わしはその先を聞きたくないですなー」
なんて、ケンセイが言ったのでナハトは言葉を微笑へと変化させ、
「――喧嘩両成敗、いい言葉だとは思わないか?」
とぼける様にそう言った。
◇
秋水殿の巫女の部屋。
遥かな高みを象徴する小さな部屋から、巫女は城下を見下ろす。
「私、何にも知らなかったんだな……」
初めてだった。
自由に街を出歩くことはヒユキにとってこの上ない贅沢で、どうしようもなく楽しかった。
ほのかに香る温泉の街。
行き交う人は皆陽気で、おいしい食べ物と物珍しい細工物が目を楽しませるそんな場所。
それをこれ以上ないほど満喫する子供がいて、だからヒユキも何も考えないで楽しむことができた。
それは一時の幻だ。
夢のような出来事で、夢のように消えていく。
「そっか……みんな守りたいよね、こんな日常」
巫女は孤独だ。
ヒユキはそんな孤独な日々が日常だった。
だから、今日見た世界は、眩しくて、羨ましくて、それでいて、手を伸ばせば届きそうな現実でもあった。
「あ~あー」
ヒユキは愚痴をこぼすかのように、声を吐き出す。
どこか、楽しそうな笑みを浮かべながら。
「頑張らなきゃだめか」
ヒユキがうーんと伸びをしているそんな時。
「――失礼しますわ」
凛とした言葉響いた。
姫巫女の部屋に立ち入れるものは少ない。
ヒユキの許可なく立ち入れるものは、それこそ、片手の指で数えられるほどだ。
その声は、せっかくのいい気分を台無しにするものだった。
「はぁ……なんの用よ、ヨゾラ」
不機嫌を隠そうともしないヒユキにヨゾラは上品に笑って見せる。
「あら? 姉妹が顔を合わせるのに理由が必要かしら、お姉様」
屈託のない笑顔を浮かべるヨゾラ。
いつも不機嫌そうな顔で、顔を合わせるたびヒユキに罵声を投げかけるヨゾラが良い笑顔を浮かべるのは、何かを企んでいる時だ。
「で、何しにきたの、ヨゾラ」
一時でも早く不毛な会話を打ち切るために、ヒユキは先を促す。
「いえ、そう大したことではありません――」
ヨゾラはにっこりと笑って、
「――お姉様には、退場して貰おうと思いまして」
「えっ――」
ヒユキの意識は、闇の中へと落ちて行った。




