巫女と英雄
それは古い言い伝えであった。
――和の国の危機に、英雄あり。かの英雄、扉より出で、災厄を祓わん。
凡そ二千年にも及ぶ過去の伝説、故にその伝わり方も様々だ。
巫女の祈りが英雄を呼んだ、だとか。
魔渡大社には別世界へと繋がる門が隠されている、だとか。
全てを喰らい、飲み込む最悪の魔獣を英雄は拳一つで薙ぎ払った、だとか。
今ではもう、ただの伝説。
庶民の間で、面白おかしく脚色され、酒の肴と化していた。
だが、姫巫女たちは知っている。
それらは、脚色された物語などではなく、ただの事実でしかないことを。
だから、巫女は恋焦がれる。
最後の姫君――贄の姫として死ぬはずだったヒミコを救い、暴食の森を駆逐して、神願祈祷術式を残し、破滅の運命にあった姫を巫女へと変えた伝説の英雄、レンジ・シノハラその人に、憧れるのは仕方のないことなのだ。
姫巫女である者は、きっと、皆そう。
彼女たちは孤独であるのだから。
自分だけが、世界を治める姫巫女だから、誰かを頼ることも、縋ることもしてはならない。
そして、ここぞという時には、民のために、血を流すのは当たり前のことなのだ。
でも――
それでも――
――助けて、と。
そんな言葉を、物語の中にくらい、ぶつけてしまいたいのである。
◇
呆然、と呼吸を失う。
なぜ、どうして、こんな所に、いるのだろう。
いやそもそも、どうやってこの場所にたどり着いたのか。
ヒユキはただただ混乱していた。
秋水殿の奥深く、姫巫女の間、と何の捻りもなく名付けられたその場所は、巫女の私生活は勿論のこと、祈祷や修練に使われるような空間も存在している重要な場所であるので、おいそれと立ち入れるものは少ないし、侵入するなどまず不可能だ。
なのに、ヒユキの前に彼女はいた。
ちょこん、と立つ小さな子どもは、精一杯格好をつけているのか、決めポーズと大人びた口調でヒユキに語り掛けてきたのだが、なんと反応していいのか分からず、時が止まったかのような沈黙だけが場を埋めているのだった。
まるで最初に出会ったあの瞬間を、繰り返しているようなそんな感覚。
ヒユキは戸惑いながらも、小さな子供を無視し続けるわけにもいかず、声を発する。
「えっと…………あの時の子よね? 確か、シュテルちゃん、だっけ?」
そう、ヒユキが言うと、
「はぅあ! な、なんでバレちゃったの…………?」
仮面の奥から驚愕の声が返ってきた。
どうやら彼女は和の国で売られている木製のお面一つで、完璧に変装したつもりだったらしい。
これはこれで、実に子供らしい反応だと言えるのかもしれない。
「どうして、ううん、どうやってここに来たの?」
ヒユキの言葉に幼女は観念したのか、ローブ脱いで、顔を覆い隠していた竜の仮面をゆっくりと外した。
黄金のように美しく、太陽のように明るい髪が小さく靡いた。
ピンっと飛び出る小さな耳。
それは耳長族の持つ特徴である。寿命が長く魔法に優れる彼らは、鎖国前に和の国に定住していたものが少数ながらいて、里の一つとして纏まっているので、珍しくはあるが決して異物といえる種族ではなかった。
仮面の奥深くから覗いたのは、小さくて愛らしくも、目が眩むほど美しい顔だった。
見惚れるな、というほうが無茶である。
オロオロと戸惑う仕草を見ているだけで、心の奥底から何とも言えない庇護欲が湧いてきてしまう。
「うーんとね、走って? かな?」
(―――――は?)
なんとも曖昧なシュテルの言葉をヒユキは全くというほど信じられなかった。
(ここって、山の上だよね!? 秋水殿だよね!? 警備とか、今は特に物凄いはずだよね!?)
なのにどうして子供がいとも容易く侵入できてしまうのか、ヒユキが戸惑うのも仕方のないことだろう。
最初から、シュテルという子供が唯者ではないことはヒユキにも分かっていた。
だが、それにしたって、こんな子供がたった一人で山奥の警備が厳しい屋敷に侵入してしまうなど、夢にも思わないことだろう。
凡そ人とは思えぬほど美しかった彼女の母親らしき人もいたはずなのに、子供を一人で出歩かせるなんていったい何をしているのか。
そんな憤りと共にあらぬ方向へと行きそうになる思考を、ヒユキはぶんぶんと首を振って、必死になって軌道修正しようとしたそんな時だ。
「シュテルはね、おねーちゃんに会いにきたの!」
「っ――!」
真っすぐな言葉だった。
純真で、汚れを知らない子供だからこそ、その言葉は酷く酷く、ヒユキの心を揺さぶった。
濁流のように押し寄せる感情の渦、心はシュテルの発したたった一言だけで、ぐちゃぐちゃになった。
そんな心のままに発した言葉は、
「――どうして?」
疑問だった。
それは、彼女とは対照的に、どうしようもないほど醜い、疑心でもあった。
そんなヒユキの言葉を聞いたシュテルは、小首を傾げた。
まるで、そんなことを聞かれることなど、想定もしていなかったという仕草である。
「うーんと、会いたかったから?」
(っ! この子は…………)
大人は行動に理由を求める。
自分の行動を周囲に対して正しいことなんだ、と主張したいからだ。
正当化、したいからだ。
でも、子供はきっとそうじゃない。
だからきっと、シュテルが今心からしたかったことが、自分に会いに行くこと、であることをヒユキは思い知らされていた。
「っ――! ぁ――! ふ、ふーん。じゃあ、シュテルちゃんは、お姉さんに会いに来てくれたんだ、う、嬉しいな!」
内心の動揺をひた隠しにして。
なんとか年上の威厳を保とうとするヒユキ。
まだ十五才になったばかりで、お姉さんなどと言ってはみたものの、血の繋がらない妹にはとことん嫌われているので、姉としての振る舞いなどヒユキには分かるはずもなかった。
「えへへー」
ヒユキの薄っぺらい言葉にも、シュテルは心底嬉しそうに笑う。
その笑顔を見るだけで、己の醜さを見せつけられているかのようだった。
シュテルはそんなヒユキを見つめながらも、無駄に広いヒユキの私室をうろうろとしている。
そして、何かを思いついたとばかりに頷くと、
「おねえちゃん、あそぼっ!」
動揺するヒユキの内心などお構いなしとばかりに、シュテルは言う。
ニコニコと笑いながら、ヒユキの都合など考慮しないシュテルはまさに、天真爛漫な子供であった。
輝かんばかりの笑顔で詰め寄られたヒユキは、真っ白な肌を朱に染めて、横を向く。
「な、なにして遊ぼうか――」
きっと、この笑顔に逆らえるものなどいない、そう思わずにはいられない。
ヒユキはただシュテルの意を組むしかなかったのである。
◇
「……ま、負けました…………」
ヒユキは酷く落ち込みながら、そう呟いた。
未だに、敗北への現実感が湧いてこないほど、ヒユキはあっさりと敗北してしまったのだ。
「ありがとうございましたー」
そんなヒユキとは対照的に、シュテルは嬉しそうに笑みを浮かべていた。
盤の上で戦い合った無数の駒。描かれた戦場は、シュテルの圧勝と言えた。
「つ、強いんだね、シュテルちゃん…………」
軽い気持ちで始めた和の国のボードゲーム、将棋にて、ヒユキはシュテルに惨敗していた。
将棋は市井にまで広がる和の国の伝統競技だ。この国には、その道のプロさえ存在している。
武家の中では、社交の場でも指されることがあるので、ヒユキも当然それなりには指せる。
姫巫女は平時であれば退屈な時間も多く、仲の良い侍女と暇つぶしに興じることもあったので、将棋に関してはそれなりの腕を持っているつもりだったのだが、蓋を開けてみれば、この結果である。
ヒユキは数百局は将棋を指したことがあるが、シュテルはこれが二回目であるそうだ。昨日母親に教えてもらって、せっかくだから今日遊ぼうという話になった。
だからこそ、四、五歳にしか見えないシュテルに負けるとは微塵も思っていなかったのだ。
「シュテルつよい? やったー!」
素直に喜ぶシュテルを見て、ヒユキはなけなしのプライドを放り捨てた。
どの道、目の前の子供が普通でないことはもう十分に理解しているのだ。気にする方が負けである。
「うん、強いと思うよ……私はそんなには強くないかもだけど、シュテルちゃんならプロにだってなれるかもね」
持ち上げているという部分もあるが、間違いなく才能があるのだろう。
彼女が望むのなら、ヒユキのコネでその道のプロを紹介していいと思えるほどには、シュテルの差し回しは無駄がなく、正確に、容赦なく、玉を詰ませにきていたのだ。
「うーん、ならいつかはママにもかてるかな?」
ちなみに、その母親と指したときは飛車落ちであっさりと負けたらしい。
曰く、
『将棋というゲームは酷く難解で、その手数は最早、宇宙とも異世界とも呼べるほど多く存在しているが、先に玉を追い詰めたほうが勝つという単純な遊びでもある。私は将棋というゲームには明るくないが、計算処理能力には自信があるからな。百の盤面でも、千の盤面でも、万の盤面でも、容易く読み切ることはできるのさ』
結局、シュテルは母親の言っていた言葉の通り、ただ愚直に正面から、最短で相手の玉を詰ませる手順を模索して、実行しただけであった。
結果、ヒユキは五十数手には、投了するはめになっていた。
「どうだろう、でも、何時か勝てるといいね」
ヒユキは目の前の子供が持つ異様さを感じながらも、あの扉の先から訪れた来訪者ならば、と納得もしていた。
魔渡大社の主である元海の姫巫女、イズミ・ハルカから、義母に扉の先から訪れた来訪者のことは伝えられていた。
昨日の時点では教えてもらえなかったのだが、今日の会合で姫巫女であるヒユキにもその存在は知らされていた。
だからこそ、あの乱入騒ぎも大きな事件にならなかったのではないか、と今はそう思っていたりもする。
「ねぇ、ねえ、次はこれ、しよ?」
そうシュテルが言うと、ヒユキの目の前に得体の知れないものが広げられた。
赤、青、黄、緑、黒、白、の六色の円が規則正しく並べられた白い敷物。それと、何やら音が出る小さな魔道具。
少なくとも、ヒユキはそれを見たことがないし、どういうものなのかもまるで分からない。
「えっと、シュテルちゃん、これは?」
「ついすたーげーむ、って言うんだよ。ママがなかよくなるならこれだって、言ってた!」
と、シュテルは自信満々に言うが、ヒユキは何が何だか分からない。
どうやって遊ぶものなんだろう、そう思っていると、
『――先攻は、右手を黄色』
機械音が響いて来た。
「こうやって、しじされた色のばしょにからだおくの~」
『――後攻は、左手を緑』
「こう、かしら」
ヒユキは指示された通りに体を動かした。
すると、
「でね、たおれたり、ひざとかおしりとかがついちゃったら、まけ~」
シュテルの声がすぐ傍で聞こえた。
指示された色は、ちょうど隣同士であり、自然とお互いの息遣いが聞こえるほどに顔が近づく。
間近で見れば見るほど、吸い込まれてしまいそうになる愛らしさがそこにはあった。
(……やっぱり、かわいい……)
なんて、ヒユキが思ていると次の指示が出る。
指示されたのは右手を黒。
シュテルは無邪気にヒユキの方へと体を近づけ、その髪がヒユキの頬へと触れる。
(はっ! こ、これは……そういうことを目的としたゲームなのね! なんてものを子供に持たせるのかしら!)
ツイスターゲームはあくまでファミリーゲームである。
だが、ヒユキはそんなことを知る由もない。
指示されるごとに体が密着せざる得ないこの遊びは、確かに親しいもの同士や同性、あるいは子供とでないと色々と危ないだろう。
(ふぁ――!)
いろいろと密着するし、意外と肉体的にも厳しい。
口から吐き出す息が少しだけ荒くなり、お互いがお互いの体温を実感できてしまうのだ。
(くっ――! 扉からの来訪者、侮り難し――これは、確かに仲良くなれるわ――!)
ヒユキはそんな感想を抱きつつ、ゲームに没頭するのだった。
ひとしきり、シュテルが満足するまで遊びに付き合っていると、疲れてしまったのか、シュテルはヒユキの膝に飛び込んできて、目を閉じた。
好き放題した後は疲れて眠る。
そんな頃が自分にもあったかなーと思うものの、実際には存在しなかった。
いいなーと思う反面、でも、今更いいか、とも思う。
そうしている内に、徐々に太陽は傾き始め、もうすぐ夕暮れに染まるのだろう。
すると、ヒユキの膝に頭を乗せていたシュテルがぱちりと目を開く。
「んー、そろそろ帰らなきゃ――」
「そっか、一人で帰れる?」
もっとも、一人で侵入してきたシュテルにそれは愚問であるだろうし、帰りだけ人をつけるわけにもいかない。
「だいじょーぶ、じゃ、おねーちゃん――また明日ねー!」
「あ、うん、ばいばい。また、あした……え? あ、ちょっと――」
シュテルを呼び止めようとしたヒユキだが、時は既に遅く、勢いよく飛び出して消えたシュテルの居場所はもうヒユキには分からない。
「なんだったんだろう…………」
結局、彼女が何のためにここまで来たのかは分からないままだ。
嵐のように訪れて、また嵐のように去っていった一人の子供。
(まさか、あの子が、伝説の英雄――――って、そんなわけないよね)
ヒユキは小さな影を追うように、窓の外を眺めながら、
「また、明日、か――」
そう一人、呟くのだった。




