悪だくみと龍の使者
熱狂と共に過ぎ去った三日目とは異なり、地霊祭四日目は人の声が遠くから風に乗って響いているかのような不思議な喧騒に満ちていた。
普段であれば皆、いつも通りの日常に帰る日になるのだ。当然ながら、一週間にも及ぶ地霊祭に全て参加する者は少なく、ちらほらとクサツを後にするも者もいた。
最も和の国に滞在中は息抜きをすると決めたナハトは、朝日が昇ってからかなり時間が過ぎ去っているというのに、未だに部屋の中でくつろいでいるままだった。
微弱な魔力が満ちる青湯がある高級旅館の一室は雰囲気が良く、ただぼんやりと時間を過ごすだけでも、懐かしき故郷を見ているようで楽しいものである。
魔渡大社のハルカが魔導馬車から宿泊施設の手配まで全て手を回してくれているので、ナハトはただ寛ぐだけであった。
そうした憩いの時間を満喫していると、不意にシュテルがうずうずと体を動かし、そわそわとしだす。
「退屈か、シュテル?」
シュテルはフルフルと首を振った。
「ヒユキという少女に、会いに行きたいのか?」
ナハトはあっさりと、核心を突く。
「あい!」
「では、行動あるのみだな。アイシャはおやすみだし、今なら抜け出せるぞ、シュテル」
思い立ったら即行動。
悩むよりもまず動け、ナハトの人生観である。
ナハトとの出会いからアイシャの旅はまさに激動だったのだろう。アイシャはここ最近シュテルに占有されていたナハトの膝上で、すやすやと幸せそうに寝息を立てていた。前世の体験に照らし合わせても休日の二度寝ほど心地いいものはないだろう。
「……ぅぅ、だめ……かってにでかけたら、またパパにしかられるもん…………」
昨日の今日、問題を起こしたばかりで、また繰り返すとアイシャの雷が今までにないほど降り注ぐことは間違いない。
シュテルはきちんと反省して、二度同じ轍を踏まないように自制していた。
もしも、この場で目を開けているのがアイシャであらば、シュテルを誉め、別の手立てを考えるだろう。ハルカ辺りに連絡を入れて手を回して貰えば時間はかかるだろうが接触することはできるとナハトは思う。
だが、シュテルの目の前にいるのはナハトだ。
傍若無人を体現したかのようなナハトが、そんなまどろっこしい消極的な方法を選択するはずがなかった。
ナハトはアイシャが目を覚まさぬよう風の魔法を使って、音の伝達を支配する。
「ふふふ――問題ない。アイシャが起きたら私から伝えておこう。だから、シュテルは勝手をするわけじゃないさ」
それどころか、辛うじて残っている娘の理性と自制心、その枷を外そうとするのがナハトであった。
生まれ変わったばかりで、まだまだ幼いシュテルが悪魔の誘惑に抗えるはずもない。なにせ、最も信頼する大切な家族の一人が、シュテルの行いを肯定しているのだから。
「で、でも…………またさわぎになったら……みんなにめいわくをかけちゃう……」
アイシャの説教はよっぽど怖かったのか、シュテルは未だに二の足を踏む。
「いいか、シュテル。私のいた世界にはこんな言葉がある――」
ナハトは柔らかかく、長いシュテルの耳に口をそっと近づけた。
「――バレなきゃ犯罪じゃないんだよ」
シュテルの体が、稲妻に晒されたかのようにびくりと震えた。
昨日アイシャはシュテルの行いをこう咎めた。
『いいですか、シュテル。私たちはナハト様と出会ってすごくすごく強い力を与えられました。でも、それを軽々しく振るって、他者を抑圧して、好き勝手をし続けたら皆がシュテルのことを嫌いになります。誰も心を開いてくれなくなります。そんな世界は、きっと凄く寂しいとアイシャは思います』
であらば、ナハトがシュテルに教えるべきことは適切な手段と力の使い方である。
「誰にも見つからなければいい。シュテルならそれくらいできるさ。そうすれば問題は起こらないし、シュテルは誰にも怒られないさ」
都合の良い言い訳、こじ付けとも言うけれど。
だが、これなら怒られるのはシュテルにいらぬことを吹き込むナハトだ。
「ほんとに、いいの?」
シュテルの目は輝いている。
ナハトと同じ、楽しみで楽しみで仕方がないと言わんがばかりの瞳だ。
「安心しろ。私とシュテルはこれで共犯だ。問題が起こったら、この私が悉く薙ぎ払ってやろう」
もしもの時の責任は、保護者であるナハトが取ろう。
「さあ、行っておいで――私たちを阻む壁などこの世界に存在しないと証明してくるがいい!」
「あいっ!」
シュテルは元気のいい返事と共に、駆け出そうとした。
と、その時、
「また悪だくみですかっ! …………むにゃぁ……」
「うーむ、寝言で突っ込むとは流石は私のアイシャだ…………」
シュテルとナハトは二人仲良く冷や汗を流すのだった。
◇
「二人仲良く悪だくみですか――うふふふ、いけないお人ですね、ナハト様?」
昼前になれば、すっかり眠りこけていたアイシャも目を覚ます。
部屋にシュテルがいないことを確認したアイシャは何故かその他一切の可能性を考慮せず、ナハトが悪であることを見抜いていた。
「い、いや違うんだ、アイシャ。シュテルはちょっと遊びに行っただけだ、うん」
「ナ、ハ、ト、さ、まっ!!」
般若のお顔なアイシャにナハトは素直になる他ない。
「はい、すみませんでした…………」
「全く、普段は過保護なナハト様がシュテルに危険なことをさせるなんて、反省してください!」
「はい、ごめんなさい…………だが、不穏な気配がないではないが――少なくともこの里の住人にシュテルをどうこうできる奴はいないさ。何なら今からでもレヴィに監視させようか?」
「…………ぶっちゃけレヴィさんのほうが危険ですよね……?」
「奴が本気で暴れれば、和の国が地図から消えるかもしれないな」
「そんな人を使いっパシリにしないでくださいっ! もっと他にマシな人はいないんですか!?」
「いるにはいるのだが……アスタロトは呼びたくないしな…………かと言って、サタナキアの奴は論外だ。あいつはアイシャとシュテルには近づけさせん! 絶対にだ!」
強烈なナハトの言葉にアイシャがびくりと震える。
「えっと……つまりナハト様の悪魔は使えない、と……」
「戦力としてなら使えるが、性格に難があるな。レヴィは比較的大人しいほうだぞ」
元々魔法職であるナハトが単独で戦闘をするときの壁役が欲しかっただけなのだが、もう少しまともな奴を探して配下にすればよかったと今でも後悔している。
「悪魔召喚の技能は封印しましょう」
きっぱりと断言するアイシャの言葉にナハトは頷く。
屈服させたとはいえ、悪魔にナハト以外が頼ろうとすることは危うい。基本的に、あれらは人の負を望む存在なのだ。最も、ナハトが危惧するのは二者の耐えがたい性格難であり、彼らの力ではないのだが。
「そうだな。まあシュテルには五時までに帰ってくるように厳命したし、大丈夫だろう。娘の成長を信じようじゃないか」
と、口ではシュテルを放任しているように言うが、過保護なナハトはその動向を魂感知で逐一把握している。何かあれば十秒もあれば駆けつけることができるだろう。
「悪い方向に成長させないでくださいっ! 帰ったらお説教ですからね、二人纏めて!」
「覚悟しておくよ」
叱って貰える相手がいるというのは、幸せなことだ。
ましてこの世の絶対者と言えるだけの力を持ったナハトを、正面から説教できるものなどアイシャ以外に存在しないだろう。
そのことが、その事実が、ナハトにとっては酷く心地よかった。
「――はぁ、どうせナハト様のことです…………シュテルのためなんですよね――」
「やりたいことを、やりたいだけやらせるのが私の愛だからな」
「単に甘やかしているだけじゃないですか」
「私が飴でアイシャが鞭、適材適所さ」
「それって、アイシャが嫌われる役ですよねっ!?」
ナハトは楽しそうに笑う。
シュテルは聡い子だ。アイシャが注ぐナハト以上の愛を感じないはずがない。
シュテルがアイシャを嫌うことなど未来永劫あり得ないとナハトは確信を持っていた。
「それに、シュテルを行かせた理由はそれだけじゃないぞ」
ナハトはアイシャにぐっと近づく。
唐突に距離を詰めるナハトにアイシャはまるで反応できていなかった。
「ふぇ? な、ナハト様……?」
暖かく、柔らかいアイシャの手をナハトは握る。
ただ手を重ねただけだが、それだけでナハトの心は大きく満たされていた。
赤く染まるアイシャを抱き寄せ、愛しい耳に口づけを落とす。
「二人っきりになるのは久しぶりだろう? 私は我儘だからな、アイシャとの時間が無性に欲しくなる時もあるのだ」
シュテルがいる時はなるべく母として振る舞っているからこそ、アイシャとイチャイチャできる時間はナハトにとって貴重なのだ。
その機会を作る意味でも、シュテルを遊びにいかせたナハトである。
全ては巧妙な計画なのだ。
「ひゃ、あ……ま、待ってください……その、あの……ま、まだお昼時です……よ……ナハトさま……」
「大丈夫だ、アイシャが想像したようなことはしないさ。ただ少し耳を触るだけだ。いつでも触っていいって、アイシャは言っただろ?」
「ふぁ……あの時はつい口が……今はダメ、ナハト様、やめっ……あ――――」
そうしてナハトはアイシャの耳と二人だけの時間を満喫するのだった。
◇
「はぁーぁ……疲れたぁ…………」
普段使っている座布団を枕代わりにしながら、ぐでーっとだらしなく寝転がったヒユキはため息を吐き出した。
姫巫女は地霊祭の主役であり、象徴でもあるが、実務や運営に駆り出されることはまずないと言っていい。神楽を舞って、祈りを捧げ、修行をこなす、普段と変わらぬ日々であればヒユキは疲れ果てることなどなかった。
だが、今日は非公式な打ち合わせがあった。
ヒユキの使命を果たすための重要な会合。そこで、会いたくない人に会って、色々と文句やら愚痴やら良く分からないものをぶつけられ続けたのだ。
どれほど罵声を浴びせられようと、ヒユキが姫巫女であることはもう決まったことなのだ。ぐちぐちと不満ばかり言いやがって、と思わずにはいられない。
(年下の癖に…………)
生まれついた魔力によって、白に染まった美しい髪も今はただ色素が枯れ、萎れた草花のように項垂れていた。
大祭まで後三日。
そう思うと憂鬱にもなるし、気分も沈む。
『認めないっ! あんたなんかが姫巫女だなんて、私は絶対に認めないからっ!!』
「代われるなら、代わってあげたいのに……」
養子として、義母と契約しただけのヒユキには武家としての誇りなど存在しない。それどころか理解さえできない。
魔力と霊的資質が物を言う姫巫女の位、その多くは和の国の才気溢れる名家から生まれることが多く、故に巫女の頭には姫の号が与えられる習わしだ。
――和の国は武家の血によって治められるべし。
和の国の伝統は、大陸貴族のあり様に例えられることが外の世界では存在するようだが、それらは大きな勘違いである。
武家の血とは血脈という意味合いではない。
文字通り流した血、そのもののことを指すのだ。
魔物討伐の最前線に立ち続ける現将軍家、タチバナを筆頭に三界の姫巫女も特権と地位に相応しいだけの血を流し、豊かで、それ以上に過酷な島国に住まう民を守護してきたという誇りがあるのだ。
だが、ヒユキにはそれがない。
だから嫌だし、怖いし、逃げ出したい。
それでも、そんなことはできない。
今の自分が生きていられるのは姫巫女の位があったからこそなのだから。
だからヒユキは切なさを、不安を、恐怖を、それら全てを希望にできるように舞い踊る。
(…………違う……ほんとうは……怖いのを誤魔化してるだけだ……)
私は才能がある。
大丈夫。
ハルカ様もちゃんと生きてる。
死んじゃったりしない。
ここ六百年で死者は一人もいないじゃん。
大丈夫。
みんな力を貸してくれてるから、大丈夫。
一人じゃないから…………
(ほんとうに……?)
言い聞かせて。
言い聞かせて。
言い聞かせて。
それでも消えないから、ヒユキは目元を袖で隠したまま寝転がる。
目を覚ましたらきっと今が変わっているはず、と自分に言い聞かせて目を閉じる。
太陽が、空の頂に座り込み、煩わしい日差しを無遠慮に注ぎ始めた正午過ぎ。ヒユキはすっかりと閉じ切っていた瞼をうっすらと開いた。
目は少しだけ赤みを帯びて、陽の光を受け入れるだけで、刺すような痛みが襲ってきた。
最悪の目覚めであった。
結局現実逃避に意味なんてなくて、悪夢に魘され目を開けば、誤魔化していた現実が夜襲をかけてくる、そんな感じ。
眠ったところで、何一つ変わらない。
そう、変わらない――――はずだった。
「――だいじょーぶ?」
誰もいないはずの、一人だけの部屋に声が響いた。
いつか、いや、つい最近聞いたばかりの声だ。高く、舌足らずな幼女の声。
「こわいゆめを見ちゃったの? だったら――」
背丈も、髪の毛も、愛らしい手足も、昨日見た子供のものだとヒユキは思う。
最も、肝心のその顔は、祭りの屋台で売られている竜のお面で覆い隠されていたのだけれど。
だが、その姿と声は痛烈な印象として刻まれている。だから、きっと、眼の前の誰かは、彼女なのだろう、とヒユキが確信したその時だ。
「――龍の使者が特別にお話を聞いてあげますよ?」
彼女はまるで舞台の主役を張るように、気取った声でそう言った。




