戦後処理
無数の傷跡が刻まれた森の一角から、光が浮かび上がる。
暗く、だが温かい魔素の光だ。
そんな柔らかな光に誘われ、風や水の精霊が移ろうと、柔らかな風が精霊の祝福を受ける里に向かって走り抜けていった。
エルフの里の戦いは、規模で言えば偶然起こってしまった小競り合い、程度のものでしかなかった。
が、だからこそ、勝った方が全てを得て、万事うまくいく、とはいかない。
実際、エルフの里からすれば、この敗北を期に更なる戦力を投入されようものなら、一国を名乗る魔族の侵略に抗う術はないだろう。
それに、戦争自体もかなり奇妙な帰結となった。
突如として乱入してきた仮面の魔導師に敵方の大将が殺される、という異常事態が起こったのだ。その後魔導師が無差別攻撃を行い始めた時点で、既に両軍は戦争という状態でもなかったと思える。
魔族軍が未だに負けていない、とそう思っているのならばすぐにまた戦が起こる可能性さえ残っている。
だからこそ、戦後処理はエルフ側こそが慎重にならなければならない。
向かい合うエルフの里の長老グレイスと副官ジン、参謀フィルネリアの間には重々しい空気があった。
両陣営共にそれなりの数の死者を出した戦である。
エルフの里にとっては、二十年前の悲劇を乗り越えるための戦でもあった。
お互いに、思うところはあるだろう。
それは、部外者でしかないアイシャやナハトにも十分に分かる。
だからこそ、アイシャは堪えきれずに口を開いた。
「――あ、あの、他所でやってもらうわけには……その、いかない、のでしょうか……?」
そう、今まさに戦後処理が行われようとしているのだ。
ナハトたちが囲む食卓の前で――
「そうは言うがのう、アイシャちゃん、わしらとしても今回の戦の立役者であるナハト殿や族長様の意向を無視するわけにもいかぬ。それに、戦の勝敗をと言うのならば、ナハトちゃんの一人勝ちとも言えるんじゃ。まあなに、こちらの話は聞き流しながら気楽に食事を続けてくだされ」
そう言って、グレイスは穏やかな視線をアイシャに向けた。
だが、アイシャは重度の人見知りで、その心根は小心者である。静かな重圧に晒されながら図々しく食事を取るのは気が進まないのか、手が止まっていた。
たまらず、助けを求めるような視線をアイシャがナハトに送ってきた。
ならば、主として、アイシャの期待に応えなければいけないだろう。
「ふむ――あーん、してあげようか?」
「そうじゃなくてっ! この状況をどうにかしてくださいよ!」
息を荒くしながら叫ぶアイシャに、ナハトは笑って冗談だ、と返す。
ナハトとしては、エルフと魔族の協定に口を出すつもりはなかったのだ。ナハトこそが戦を起こした張本人ではあるが、あくまで部外者として乱入したにすぎない。だから、こうしてナハトに気を使う必要はないと言える。
あの戦いも、シュテルの仇討ちとして乗っかったにすぎず、ナハトの目的も既に果たしているのだから。
「まあ、戦いは既に決した。これ以上の争いは望むべきではなかろう。故に、和睦とまではいかないまでも、停戦はすべきだろう」
問題はその条件、である。
「我々エルフとしては、魔王軍にはこの里より退去して欲しい。陣を引き上げ、扉を明け渡せば損害賠償までは求めん。できることならば、向こう数年の不可侵条約は結んでおきたいが、副官殿にそこまでの権限はないであろう?」
そう問われたジンはどこか呆然としながら口を開く。
「ん、ああ、まあなんだぁ……難しいことは俺はわかんねーからそっちの女にでも聞いてくれや……」
治療はすませてあるがジンの全身には痛々しい傷跡があった。仮面の魔導師の攻撃を受けたジンは瀕死もいい所だった。ナハトの治療薬が無ければ命を落としていた可能性もあったのだ。
だが、その見た目以上に、ジンは傷心しているように見える。
「はぁ……まあ、そっちの馬鹿はほっといていいんで……話を進めますね……まあ、仰るとおり不可侵条約の締結に関しては私たちに権限はないです……こちらとしても耳長族と戦うことは本意ではありません……ただ問題は、立ち退けと言われても今すぐにというのは難しいです…………」
「と、言いますと?」
「……知ってのとおり我々はあの扉を通って、魔大陸からこの地へとやってきました。ですが、あの扉を開くことができる者は限られている…………空間を繋げる扉を開くには膨大な魔力が必要になる……私では論外、勇者や魔王の血統、あるいは竜種級の魔力がなければ扉は動いてくれない…………」
「つまり、今現在貴方方は帰りたくとも帰れない、ということですかな」
「はい、その通りです」
「――ふぅむ」
グレイスは少し視線を落として息を吐いた。
「ちなみに今まではどうやって魔大陸とこっちを行き来していたのだ?」
「最初はあの仮面の魔導師が扉を開いたの……で、その後は気まぐれに遊びに来るエリン様の気分次第ね…………」
ナハトの質問に、フィルネリアがそう答えた。
仮にも軍を名乗る集団が、そんなアバウトでいいのか、と思わずにはいられない。
「し、仕方ないじゃない……遠征軍とか諜報とか、全部ひっくるめて最高責任者はあの人だし……はぁ……そのせいで、補給が滞って食料を現地調達する羽目にもなるし……でも魔王の血統に文句なんて怖くて言えないし……はぁ……実家に帰りたい…………」
魔族側の苦労人は公的な場所だというのに、思わず愚痴をこぼしていた。
気分屋な上司を持つと中々に大変そうである、とナハトは自分を棚に上げながら納得する。エリンは色々と抜けている面があったし、情報統制などにも穴が幾つも伺える。
今まで出会った魔族の印象としては、力押しこそ正義という感じなので、仕方ないといえば仕方ないだろうけれど。
「では、魔族の意向としてはこの地を去っても構わない、と?」
確認するようにグレイスが問う。
「…………そうね……少し前だったら、多分もっと必死になってたと思う……色々理由をこじつけて、援軍を呼んだりしていたはず…………でも、今は違う」
「えっと、それってどういう意味なんでしょうか?」
フィルネリアの言葉に、おずおずとアイシャが聞いた。
「拠点の価値、というものは状況によって変化するものなのだよ、アイシャ」
アイシャの疑問には、当然のようにナハトが答える。
「魔王様の声は聞いていたでしょ? 以前までなら魔大陸とこっちの大陸を行き来する手段はこの大規模転移門以外は殆ど存在していなかったの……だから、この地は絶対に死守すべき最重要拠点だった……」
「だが、魔大陸は既に表舞台に出てきている」
他ならぬ、究極宝具の力によって。
「今なら魔大陸には船でも渡れる。この場所は確かにおいそれとは渡せないけど、そもそも扉を開く燃費は最悪だし…………エルフたち以外に扉の存在を知る人もいない……今さらここに拘る必要もない、と思う。判断するのは私じゃないけど…………ああ、でもきっと、今回の失態は私のせいにされるんだわ……責任とって色々と酷いことされるのよ、私、サキュバスだし……」
エルフの里が他国と交流を失って、あまりに長い年月がすぎた。この扉の存在を知るものはまずいないと言っていいだろう。
元々、冒険者すら近寄らない危険極まりない森の中に位置している上に、扉を開くには莫大な魔力が必要になる。仮に、存在を知られたとして、森の中まで軍を進めることはできないだろうし、扉を使って魔大陸に攻め入ろうとするのは困難を極めると言っていい。
最悪は扉自体を破壊してしまっても、現状魔族は困らない、ということなのだろう。
「今さら言っても遅いだろうけど、エルフの里と争う気はなかったの……ガイルザーク将軍も二十年前の衝突は決して意図したものじゃなかった――魔族軍の過激派……いいえ、あの仮面の魔導師の独断だったはずよ……」
「――まあ、感情的な問題はおいそれと解決できぬ…………わしとて思うところがないではないが、少なくとも里は今、ナハト殿の助力で前に進もうとしておる。だからこそ、これからのことこそが重要じゃろう」
「いっそのこと扉自体を破壊するのも手ではあるな、そうすれば最侵攻の恐れはなくなる」
と、ナハトが口にすると、
「だめぇえええええええええええええええええっ!」
昼食のミートパスタに夢中だったシュテルが声高に叫んだ。
「ど、どうしたんですか、シュテル?」
慌てるアイシャにシュテルは叫ぶ。
「シュテルたのまれたの! 勇者さまに、守ってって、言われたの! だからだめぇええっ!」
そうシュテルが口にした時点で、ナハトの中では決が出ていた。
必死になって懇願するシュテルにナハトは微笑む。そうして、柔らかな金色の髪を優しく撫でてやる。
「壊してしまうのはなしだ、だから安心しろ、シュテル」
頭を撫でられたシュテルはにへら、と笑った。
「ママすきぃー!」
「私も大好きだぞ、シュテル」
ひとしきり娘と愛を確かめ合った後、満足してナハトは言う。
「そうなると、一度話し合う必要がある、か――」
「あ、あの……それって、どういう……意味なんでしょう…………?」
アイシャが物凄く不安そうに聞く。
彼女はナハトの内にある感情を正確に察しているのだろう。
アイシャの瞳が物語っていた。
絶対にろくなことを考えてないだろう、と。
そんなアイシャを諭すようにナハトは言う。
「この里は、アイシャの母の故郷だ」
「は、はい」
「つまり、アイシャにとって第二の故郷も同然だろう?」
「は、はい」
「その故郷が、やっとのことで今、先に進もうとしている。そんな小さな故郷が、いつ攻め込まれるかもしれない恐怖に晒されている、そんな状況は望ましくないだろう?」
ナハトの正論に、アイシャは頷くしかない。
「しかし不可侵を望もうとも、フィルネリアでは確約する権限がない。となれば、どうすればいいと思う?」
「えっと……その……偉い人に、来てもらう、とか?」
アイシャの言葉にナハトは笑む。
悪戯を思いついた小悪魔の微笑だ。
「アイシャ、私は待つのが苦手だ。知っているだろう?」
「は、はい……」
「では結論は一つだ」
アイシャは諦めるように、うな垂れる。
「魔大陸に殴り込みと洒落込もうじゃないか!」
ナハトはアイシャとは対照的に、とてもとても楽しそうな笑みを浮かべていた。




