幕開け
暗闇のように影を宿した無数の文字が、一冊の書を覆っていた。
幾重にも連なり、重なり合った文字の鎖が太陽の如く巨大な光に圧せられ、弾け飛んだ。
連鎖していた無数の文字が、解き放たれると同時にその姿を変える。
酷く巨大で、禍々しいとさえ思える獰猛な牙へとその姿を転じていた。
「――時を喰らえ――《天地開闢》――」
長き眠りにあった巨大な力が目に見えぬ何かに牙を突き立てる。
激しい咀嚼音が虚空に響いては、誰に聞かれることもなく消えていった。
同時に光の奥底からは、新たに輝かしい起源の刻印が顔を覗かせていた。
膨大な時を代償に、開かれた数多のページ。
破壊と創造を記したただ一つの書――それこそが、究極宝具、《天地開闢》である。
究極宝具とは、その名の通り力の極限であり、他の追随を一切許さぬ到達点である。
ゲーム時代での通称は、規格外。公平にして厳格なリアル・ワールド・オンラインにおいて唯一、壊れ、と言えるだろう性能を誇るそれはまさに常識はずれの代名詞のような存在であった。
既存するとされる百五十の究極宝具の中でも、《天地開闢》の効果は比較的大人しいほうだ、と言われていた。
最も、この説明は半分が正しく、もう半分は間違いである。
《天地開闢》が掌る力は――地形操作、なのだ。
高位の魔術師が戦闘の邪魔になる地形を破壊したり、錬金術師が建物を分解したり、創り出したりする技能と同系統の力である。
故に直接的な戦闘力に関してだけを見れば、比較的大人しいと言えるだろう。
しかしながら、《天地開闢》はプレイヤーやモンスターの扱う技能とは規模が違う。
既存するマップの永続的変化を唯一為し得る《天地開闢》は、不毛の砂漠を一瞬にしてオアシスに書き換えるなんてのは朝飯前。連続するマップを空間ごと断絶させ他のプレイヤーの侵入を拒むことも可能であったし、新たなマップ、地形や天候の創造さえ可能なのだ。究極宝具の保護を受けていない場所は一瞬にして、相手に都合よく書き換えられてしまうことになる。
敵味方入り乱れる大規模な闘争であり、獲得した領土に重大な意味のあるギルド戦において最も敵に回したくないギルドこそが、《天地開闢》を保有する《虹の架け橋》でもあった。
それに直接的な攻撃力が殆どないと言っても、天候操作の中には敵だけを識別する雷が延々と降り注ぐように仕向けることも可能であった上に、重力を何十倍にも増やし常時超重力場生成状態を仕向けることも可能であった。果ては、流星雨などと言う頭の可笑しいダメージを叩き出す隕石が無限に降る場を生み出すことさえ可能である。
マップの永続的変化を行う際にも、運営に要望を送りつけ、どのようにマップを変化させるか設定が可能だったといういろいろと滅茶苦茶な道具であった。
――その力の全てが、今、枷を砕いたのだ。
振るわれるべきでない極限の力が再びこの世に顕現する。
一度解き放たれた力は、もう戻ることはない。
天に印が刻まれる。
始まりを記す起源の理が無慈悲なまでに刻まれていく。
最初は一文字。次いで、瞬く間に侵食は広がっていった。
空を覆う瞬きは、地を飲み込んでさらなる広がりを見せ、陸地であろうと、海洋であろうと、関係なく、歪な光は世界を覆う。
それはまさしく、この世を変革する究極の力。
何か大切なものが痛々しく壊れてしまった、とそう思えるような鈍い音が響き渡り、目を疑う光景が広がった。
膨大な質量を持つ巨大大陸が、空に浮かび、不可思議に移動するのだ。
外界には一切の影響を及ぼすことなく、果てにあったはずの大陸が浮遊して、その居場所を変遷させた。
大陸との断交を為していた荒れ狂う海は穏やかな流れを取り戻し、空を覆っていた晴れることのない暗き嵐に終焉が齎され、精霊が遊ぶ柔らかな風だけが荒れ果てていたはずの場所に取り残されていた。
移動を終えた大陸は、まるで最初からその場所に存在していた島国であるかのように海を隔て、それでも人類の認識できる南の果てにその姿を現した。
刻一刻と、世界が書き換えられていくそんな中で――深い夜を引き摺って、一人の男が空を歩く。
眼下には今だ眠らぬ人の姿が目に映る。
男は感情の見えぬ深い闇色の双眸で、遥か昔の過去を見る。
(母上――)
色という色を飲み込む双眸が、押し寄せる複雑な感情に苛まれ、揺れる。
その中でも一際大きな憎悪が心を埋め尽くそうと押し寄せてくる。
だが、その都度、注いでくれたかつての温もりが溢れ、感情の濁流がせき止められる。
(きっと、正しい答えなど存在しないのであろうな)
決して声に出してはならない、そんな言葉を心の内で呟いた。
考え、迷い、選択した答えに絶対的な正当などあるはずもない。
だが、そうであっても、正しさを捨てることはできない。
正しさが揺らぐことさえ許されない。
自分が――自分こそが、偉大なる父の意思を受け継いだ魔王であるのだから。
「全世界に告げる――」
その声は、拡声器と呼ばれる道具によって世界中に響いていた。
「我こそが古き偉大なる血脈が王――魔王、ヒビキ・シノハラである。我は魔大陸を統べる魔族の王にして主である。故に、旧大陸に住まう全ての人類に宣告する――」
ヒビキは覚悟と共に言葉を紡ぐ。
「――我々は自らの意思を言葉に乗せ伝える人であり、貴殿ら人類の一員である。国を持ち、人を守り、誇りを抱く、魔族である」
重々しい言葉が世界に届く。
反応など伺えるはずもないが、威圧的な声に緊張を抱く者は多いだろう。
「緊張する必要などない。何処かの誰かが魔族は人ではない、恐ろしい、滅ぼし尽くすべきだ、あるいは既に滅ぼし尽くした、などと詐称しているようだが決してそのような事実はない。我々には言葉を解する知があり、意思を伝える理性がある。我が今こうして、言葉を伝えていることがその証明であろう」
一拍の間を置いて、ヒビキは再び口を開く。
「我々は太古の時代、大陸を追われた魔族である。人魔大戦以前は諸君等と同じ大陸を領有していた。現王国領、エストール、七国、及び神聖国南東部はかつての魔国が存在した土地だ。だが、それらは二千を超える過去の話、今を生きる諸君等には想像もできぬ過去の出来事であり、現在においては諸君等の土地と言えよう。故にその土地の返却を無条件に求めることは我々の意思ではなく、魔大陸こそが現在における我らが領土であることをここに宣言する」
返却を求めない、と言い切ることは現状では難しい。
かつての時代を生きる古き魔族にとって、故郷に思い入れのあるものは少ないとは言えないからだ。
「重ねて言おう。我等は人であり人類である。故に、出来得る限り手を取り合うことこそが理想であると信じている。だからこそ、我等は選神教の教えを許すことはなく、身勝手極まりない人間至上主義な権利の主張も、この世界を共に生きる多種族の排斥も、断じて認めることはない!」
語気に力が増す。
それは抑えように抑えきれなかった感情の濁流であった。
一方的な排斥にも、理不尽な侵略にも、抗うためには戦う他ない。
「選神教は侵略と虚偽の塊である。大戦の火を自ら灯しておきながら、その全てを我等魔族に押しつけた。だからこそ、我等は決して偽ることをしない! 我等は偽ることなく、ただ事実を告げよう! 再び火を灯すことを我が名と力を持って宣告してやろう――」
――我々魔国は選神教並びにそれらを掲げる全ての国に対して宣戦布告する――
宣告と共に音は消える。
選神教が自らの教えを取り下げることはないだろうし、選神教に支えられた国家が手のひらを返すこともまたないであろう。
戦う他に選択肢などないのだ。
それほどまでに、選神教と魔族の間には深く淀んだ確執がある。
それはどういう風に誤魔化そうと、決して変わる事のない帰結だった。
世界の平和を願った母。
誰よりも争いを嫌い、誰よりも平和を愛した魔族の母。
きっと、母はこの戦いを望まないのだろう。
(父上、見ていてください。母上、申し訳ありません)
眼下に広がる人の街。
人々が聖地と呼ぶ忌まわしき場所だ。
かつて魔族との共存を訴え続けていた母を謀殺し、決定的に決別を示した選神教の聖地。
この場所だけは、決して――決して許すことができない。
「――消えろ」
たった一言。
言葉が紡がれ、言霊を受け取った《天地開闢》が事象を書き換えていった。
崩れていくのだ。
千年を超える広大な街並みが、砂のように消えていく。
生き物を除く全ての物質がまるで最初から存在していなかったかのように消えていく。
選神教の繁栄と栄華、そしてその布教の始まりを示す聖地が消える。
積み重ねた年月を馬鹿にするかのように、ほんの数秒足らずで、一つの街が地図上から消えた。
「――白き石碑にただ真実のみを刻め。汝は不変にして不壊の記なり」
その場所には何もなく。
これから先も、何一つとして存在することは許されない。
後に取り残された、白く巨大な石碑。
そこには、正しき過去の歴史だけが刻まれていた。
◇
「っ……はぁ……はぁ……ちっ、流石に化け物だな……」
紅き月が照らす異界。
乾ききった大地には、刀身がへし折れた黒い剣が突き刺さっていた。
己が呪詛を染み込ませた特注の黒剣でさえ、ミナリアとの激戦に耐えることはできなかった。
平坦であった大地は見るも無残に破壊され、酷く凹凸の激しい地面が無数に広がる中、イルミーナはその地に膝を屈していた。
「かかっ! 面白いものよのう。腐敗や崩壊の性質を強く持つ魔力を己が身に纏い固定するなど普通では考えられぬ。流石は黒の秘蹟の成功例じゃて――」
ミナリアは楽しそうに笑みを深める。
魔王の声はミナリアの生み出した世界にさえも響き渡っていた。
故に、歓喜が抑えきれず頬が緩む。
「さて、始まりの火は灯された。お主もたった今、明確に我らの敵になった訳じゃ。量産品とは言え成功例にして神聖騎士が長じゃ。後々面倒になる前に、ここで消えて貰うとしようぞ――」
紅き魔力が渦を為し、鮮血が虚空に術理を刻む。
数多顕現した深紅の槍が、空を真っ赤に埋め尽くした。
「はっ……てめーがこんな場所で泥臭く待ってたのはこれだったって訳か。だがな――」
イルミーナの表情に苦悶が浮かぶ。
それほどまでに、目の前に浮かぶ少女は化物染みていた。
少なくとも、今の状態のままで立ち向かえるほど、ミナリアは生温い存在ではない。
「――この俺を、そう易々と殺せると思うなよっ!」
だからこそ、覚悟を決める必要がある。
地獄を歩く、覚悟を決める。
深く淀んだ魔力が吹き上がると共に、音が響いた。同時に真っ暗だった瞳の奥から、冥府の炎が灯火を上げる。
「――黒き怨嗟に我らが意を伝えてやろう――世界を厭忌す我らが再び――――」
だがその言葉が紡がれるより先に異変が起こる。
閉鎖された空間に僅かながら亀裂が走ると共に――
「――すとおおおおおおおおおおおっぷ!! そこまでっ! そこまでだよ、黒ちゃん! それ以上は、ね――駄目、だよ?」
――一人の少女が降り立った。
「ああ゛? 青、なんでてめーがここにいんだぁ!?」
苛立たしげな声に、青、と呼ばれた少女はおどけるように笑ってみせる。
「それはもう大好きな黒ちゃんが心配で心配で――」
「――殺すぞ」
「あはは……冗談が通じないなー、もう。勿論、黒ちゃんたちのお目付け役だよー。《黒》は派手に動かれると何かと困るしねー、あっちこっち監視して、後始末して、手が回らなくて、僕ちゃんはもうつかれたのだー。緊急召集もかかってるしことだしさ…………そこの物騒な人が本気になる前に、帰ろ、ね?」
青が手を差し出してくる。
神聖騎士団の長二人を前にしても、ミナリアは口元に愉悦を浮かべ、静かに佇んでいた。
恐らく、青の実体を見抜いているからこその余裕であるのだろう。
「ちっ……仕方ない」
決断すれば、その行動は一瞬だった。
青の手を取ったその瞬間、ミナリアの世界から気配が消える。
「かかかっ! 今代もまた中々に手強いよのう――だがそれもまた一興じゃ――かかかかかっ」
紅き光を浴びる吸血鬼は、ただ一人、高らかに笑うのだった。




