逃避の終わりに
磨きぬかれた白磁の廊下が黒に犯されていた。
無機物であるはずの石が、まるで腐敗したかのように異質な悪臭を漂わせ煙を上げる。一歩足を踏み入れようものならば、崩れてしまいそうなほど深く亀裂の入った地面を見れば――そこには、一本の剣が突きたてられていた。
その剣が境界である。
高位神官でも匙を投げるほどまでに黒に染まった侵食は、デュランの目の前で終わりを告げ、境界線上の手前には影響を受けていない正常な廊下が存在していた。
「グッ……」
低い呻き声と共に、黒に包まれた世界に光が差し込む。
全身から噴出すように溢れ、デュランへと襲い掛かった呪詛は荒々しく輝く光の壁に拒絶されていた。
「魔法技――魔障壁」
静かな声が種を明かす。
デュランは決して魔法に明るいとは言えない。だが、襲い来る魔法がどの程度の威力で、脅威度がどれくらいなのか、それだけは感覚でなんとなくだが理解できる。
異質な存在が全方位に向けて放った拡散呪詛は、忌々しい化物の魔法には遠く及ばないが、氷帝の魔術に匹敵するような危機感をデュランに抱かせるほどだった。
(まともに受けていれば危険だったな……)
幾年もかけて腐敗したような床がデュランの予想が的中していたことを示している。咄嗟に反応して魔法技を使わなければ、腐敗していたのはデュランの体であっただろう。
魔法技は魔法が不得手な戦士が、それでもなお強力な魔法に対抗する術を得るために編み出された技なのだ。
魔力と魔力のぶつかり合い。
魔力を帯びた攻撃は、同じく魔力によって迎撃できる、という真理だけを追究し、剣を通して変幻自在に魔力を放出する単純な技が魔障壁の実体である。
だからこそ、そこには有利不利を覆すだけの才能の違いがあった。
魔法使いという職業が存在しているように、良識の範囲であっても形質が変化した魔力は千差万別で強力無比な攻撃となる。そんな攻撃に対して、技に乗せるとはいえ何の工夫もない純然な魔力で対抗しようとするのだ。
それは氷帝の魔法を打ち破り、ナハトの魔法でさえも軽減して見せた、凡そ常人を遥かに超える魔力を持つデュランだからこそできる力技であった。
「……そういう、ことか…………」
小さな背の影が見えた。
暗闇が晴れ、身に纏うローブが剥がれ落ちると、目の前には年端も行かぬ子供がふらふらと立っている。
深い闇の中から現れた小さな体には、全身に黒い紋様が浮かんでいた。それは、さながら彫刻がなされた意思無き人形のように見えてしまう。
だが、今目の前に立ちはだかる少年たちは命なき物などではなく、れっきとした人間であった。
「…………ハイシンシャニ、カミノ――」
それは一瞬にも満たないほんの僅かな時間だった。デュランは意図して、瞑目し、そして開いた。
刹那。
言葉が紡がれるよりもなお早くデュランが一瞬にして肉迫する。
今までのような小手先の技ではない。手加減なく、全力で練り上げた魔力が込められた剣は回避する余地など微塵もなく、かといって攻撃に転じる隙も与えず、デュランの手から少年の体へと、過ぎ去る光のように結ばれた。
――武技――閃剣――
肩口から心臓にかけて、鎧の如く硬質化した黒い体を切裂いた。
その瞬間、無理をさせすぎたデュランの剣が痛々しい音を立てて砕け散る。
手に残ったのは肉の感触。
心の奥底ではネロと同じくらいの子供を手にかけた感傷があった。だが、そんななんとも言えぬ己が心に気をやる暇など存在しない。
「……メイレイ……ハイジョ――」
倒れ伏す仲間にさえ目もくれず、黒塗りの剣を向けてくる憐れな少年にデュランは口を開いた。
「――もういい、眠れ」
折れた剣をデュランは躊躇なく捨てる。
最も一般的であろう武器、剣を主に使っているせいか、剣鬼、などと奇妙な二つ名がデュランにはあるが、しがない農村生まれのデュランには得物に対する拘りなどあるはずもない。それこそ路傍の石や農具であろうと、武器として十全に扱う自信がデュランにはある。
まして、己が肉体など言わずもがなである。
拳を、握る。
強く、強く、握りしめた拳に力を乗せるために、地を蹴り出し、全身を流動させ生み出した力と呪詛を貫くための魔力を同時に練り上げ拳から解き放つ。
「――――地裂崩拳」
刃をすり抜け、的確に心臓に突き刺さるデュランの拳が小さな体に減り込んだ。
時間にすればほんの数瞬。
だが、確かに魔力を通して肉と骨が砕ける感触が伝わった。
時間が止まったかのように、空中へと浮き上がった小さな身体は、力なく崩れ、その命は尽き果てていく。
「………………トウサン……」
まるで縋るように伸ばされた手に、デュランは躊躇いなく手を伸ばし、自らの手の魔力を霧散させ――ほんの少しだけ、重ねた。
「ああ、おやすみ」
機械仕掛けのように無機質な顔に一瞬だけ、表情が生まれ、すぐに力を失うとやがてその目は静かに閉じられた。
「…………反吐が出る……」
直に触れた手の痛みを誤魔化すように、吐き捨てる。
彼らは二人とも人間の子供であった。
にも関わらず、その体には埋め尽くさんばかりの刻印が成され、呪詛が埋め込まれていた。
呪詛は基本的に武器に刻まれるものである。禁魔樹の樹液を初め、呪詛のもととなる劇物は術式を刻む以前に他に影響を与えやすい。そんな物を使って生身の人間に術を施せば、人など容易く壊れてしまうことなど誰にだって分かるはずだ。
その実験台に子供を使った挙句、兵として利用する。
思わず罵倒したくもなるが、現状でデュランができることは何もない。
暴れすぎたこともあって、周囲では人の声がちらほらと聞える。
侵入者に過ぎない自分は過度な騒ぎを起こしてしまったこの場所から一刻も早く逃げ出すべきであろう。
「お疲れ様、なのですよ、デュランしゃま」
デュランが動き出そうとしたまさにその時、背後から声がした。
「見ていたなら手伝え――いや、それよりも――」
「――はいなのです、無事終わりましたですよ。それに、今来た所なのです」
ニコニコと笑むレシアからは本心を伺うことはできない。
「誘拐、とのことだったが誰もいないがいいのか?」
「任務はばっちり完了なのです、後のことは配下で十分なので早々に立ち去るのですよ」
デュランは一つ頷くと、すぐさま貴賓館を後にした。
◇
「――あいつらは、いったいなんだ?」
道すがら、つい声に出してレシアに聞く。
「神聖騎士団でございますですよ? つい最近、十年くらい前に新設された黒の騎士団、その末端兵がかれらでございますです」
その言葉にデュランは顔を顰める。
「あれが、か?」
少なくともデュランが垣間見た実験の痕跡は、神聖という言葉から懸け離れ過ぎている。
「あれが、なのです。と言っても『黒』は裏側――きょう皇自ら歴史から抹しょうした悪魔の遺産、その失敗作がデュランしゃまが戦った憐れな子供たちでございますです」
大罪人――メフィス・レイ・ストラス。
神を騙った、として教皇自ら異端審問で裁いたというただ一人の大罪人。
デュランのような根無し草の傭兵でも、その名前だけは知っていた。
「彼の行った実験の成れの果てがあれなのですよ。最も、戦ったデュランしゃまが感じた通り強さだけなら並のB級を凌ぎ、呪詛のせいでA級に迫る戦闘力なのです。数々のじっ験は公にはなっておらず、一部は成功例としてそのまま神聖騎士に起用して、違法なじっ験などなかった、というのが黒の秘蹟に関する神聖国の公式発ぴょうなのです。ご安心を、というのは間違いかもしれませんが選神教は少なくとも人の権利に関しては極めて厳格に保護がなされていますです。二度、悲劇が起こることはないと思いますですよ」
デュランはここに至るまで何百、何千の命をこの手で奪ってきた。
だから、今さら子供を手にかけてしまった、と感傷に浸るつもりはない。依頼を受けたのは自分で、そうすることが最善だと思い進んだのだから、後悔など微塵も存在していない。
だが、感じ入るものがない、とそう言えるほど人をやめたつもりもまたないのだ。
「…………そうか」
重々しくデュランは呟き、ライン大聖堂を抜け出すまで言葉が交わされることはなかった。
深夜ともなれば、街中に出ても人の気配はしなかった。
静かに歩を進めていく中で、デュランは己がすべき事がなくなったことを今さらながら実感していた。
だからこそ、その言葉をレシアに投げかけた。
「――お前は、何のために戦っている?」
いつだったか、憎たらしい化物にそう聞かれた。
なし崩しでかつての生き方をなぞって、この場所にいたデュランは聞いた。
「姫しゃまのために決まっているのです」
今だ答えの出ない難問に、清清しいほど速くレシアは答えた。
全く参考になりそうもないレシアの言葉にデュランは口を噤む。
すると――ただ、とレシアは言葉を続けた。
「ただそれは、夢のためでもあるのでございますよ。かつて魔王様が願い、王妃様が目指した理想の実現のために、レシアは戦うのでございますです」
レシアは器用に後ろを向き、速度を落とすことなく歩きながらデュランを見据える。
「理由なく戦う不思議な鬼さん。貴方しゃまは何のために戦うのでございますですか? 自分のため? 誰かのため? 今の貴方は強さが欲しいのか、それとも誇れる何かが欲しいのか、守りたいものがあるのか、いっそのこと逃げだしたい場所があるのか、それとも帰りたい場所があるのか、守りたい弱さがあるのか、いい加減はっきりしないと見ているほうも鬱陶しいのでございますです。悩むことは若者の特権ですが、いつまでもウジウジするな、なのです」
短いとはいえない付き合いのあるレシアの言葉は間違いなくデュランを気遣うものであった。
だからこそ、ばつが悪そうに顔を歪めるデュランにレシアは続ける。
「依頼は無事完遂です。なのでこれでおしまいなのです。報しゅうは支払いますですし、必ずしも安全とは保しょうできませんが、デュランしゃまが守りたいであろうしょうじょたちもきちんと保護を約束しますです――だけど――」
レシアはゆっくりとデュランに告げた。
デュランが曖昧にして、理由をこじつけては逃げてきた難問の、答えを求めるかのように。
「――だけど、本当にそれでいいのですか、デュランしゃま?」
◇
時計塔が針を刻んだ。
終わりと始まりを告げる、そんな時が刻まれて、
そうして、世界に音が響く。
正常だったはずの世界を、捻じ曲げるかのような鈍い音。
距離も、場所も、意識さえも関係なく、誰もが音を聞かされる。
ゆっくりと。
だが、重々しく。
変化の音が響き渡り、その声が世界に届く。
「全世界に告げる――」
今、この瞬間に、始まりの火が燃え盛る。




