動き出す者たち
創始祭は選神教を信奉せずとも、一年の始まりを祝う日として人々の間に浸透している大きな祭りでもあった。
神聖国では毎年国を上げて祝い事を行っている。熱心な信教者は聖地を巡礼したり、神都を訪れたりして、新たな一年の始まりを祝う目出度き日に間違いはない。
神聖国もこの祭りに力を入れている。
神都には教皇を初め、神聖騎士団や聖騎士たちが勢揃いし、国を挙げての行事が熱狂を呼んでいる。
その影響は、クラーリスにも確実にあった。幸運なことに七聖の一人であるルドワルド聖がクラーリスにいる。
だからこそ人々は熱に浮かれ、己の幸せを信じて止まない。
その日は、この世で最も幸福な一日になる――――はずであった。
だが、この日の出来事を、きっと世界中の誰もが忘れることはできないだろう。
古き時代の再来を告げる、悪夢の一日が、今、始まろうとしていた。
◇
「うにゅー、ひまー! ミミあそぼー!」
「はい、ネロ様――では、何をいたしましょう?」
「うーん、うんとね、勇者すごろくやろー!」
奇怪なボードゲームを広げるネロが楽しそうに話しかける。
「はい、負けませんよ~」
デュランたちの住まうハイリア商会の一室に、人が一人増えていた。
柔らかそうな垂れ耳を持つ犬獣人は、レシアがどこからともなくつれてきた新人メイドであるらしい。
名前はミミ。
年齢は十五六程度で、ネロやクラウディアの姉といった所だろうか。
最初は酷く警戒、というより脅えていたのだが今では大分二人と馴染んで、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。
「ミミ、王国物語の三巻はどこにございますの?」
「あ、はい、少々お待ちください。すぐにお持ちいたします」
「ミミ~、早く早く~」
「ミミ、早くしてくださいまし」
「は、はい~、ただちに~」
見習いとはいえ、この二人を相手にミミはよく奮闘していた。
ここ数日はデュランの負担も大幅に軽減されているのだ。いるだけでストレスになるどこぞのメイドとは大違いである。
いっそ、あっちを首にしてこっちを召抱えるべきだろう。
「あれ? ネロ様、少しお尻尾の毛並みが乱れていますよ?」
そう言うや否や、ミミはネロに近づくとその尻尾に舌を這わす。
「ふにゃぁあっ!」
ネロが何ともいえない絶叫を上げた。
「じっとしていてくださいませ、すぐに清潔にいたしますので」
そう言って、ミミはネロ尻尾を握ると、丹念に舐め始めた。
「は、はにゃ、りゃめっ! そこは、おじさんの、ふにゃぁあああ」
ネロはくねくねと身を捩じらせ、耳と尻尾をぴんっと立てる。
「おや、耳のほうも少し――獣人は大変ですよね、一人じゃ毛づくろいも中々できませんし」
「わかったから、もうわかったから、にゃめてぇーーー!!」
ネロの毛並みがつやつやになっている。
遊ぶ前に息も絶え絶えなネロはあっさりと撃沈していた。
「……はぁ……はぁ……うにゃぁ…………」
ネロはすっかり大人しくなり、そのおかげでデュランはゆっくりとできそうであった。
「うむ、よくやってくれた」
「へ、あの、あっ、はい」
何故褒められたのか、それすら分かっていないミミは取りあえず返事だけを返してくる。
デュランはそんな少女の頭に手を置いて、撫でてやる。
思っていたとおり、垂れた犬耳は柔らかく、手触りがいい。
「あ、あの……」
「大変だろうがこれからも頼む」
「ぅわ、あの……はい、デュラン様のために頑張ります!」
そう言って、見上げてくる少女の声はどこか熱っぽい。
「おじさんっ!」
「騎士様っ!」
何故か二人に糾弾されるはめになったデュランは、逃げるように沈黙し目を閉じた。
穏やかな昼下がりはゆっくりと流れ、徐々に日が暮れていく。
そして夜になった今、デュランは一人身支度をする。
いつもの大剣を持っていくわけにはいかない。服装はシンプルかつ隠蔽効果のある黒装束。目以外の顔を全て隠し、体のいたるところに武器や魔法具を隠し持つ。
「――ふう」
ここ数日、穏やかに過ごしてきた意識を切り替える。吐き出す呼気が闇に消え、目がゆっくりと細く、鋭くなっていき、意識が研ぎ澄まされていく。
仕事の時間であった。
「行くか」
一人勝手に出て行くつもりだったのだが、
「おじさん!」
「騎士様!」
案の定呼び止められてしまう。
二人の少女はデュランの前にたっていた。
デュランが扉から出てくるのを待ち構えていたらしい。
「どうした?」
「無事に――」
「――帰ってきてくださいね」
言われるまでもない。
高々要人の誘拐など、あの化物を相手にした時に比べれば修羅場にも数えられないだろう。
「ああ、大人しくしていろよ」
「絶対絶対、かえってくるんだよ!」
「ああ、ミミのいう事をよく聞いて、ミナリアの手先共に守ってもらえ」
名残惜しそうに手を握ってくるネロたちだが、何時までもこうしているわけにはいかない。
その手を振り払い、一度だけ頭をポンっと叩くと、デュランは背を向けて、一人夜の街に出て行った。
「もう、よいのでございますですか?」
メイド服を着込むレシアがデュランを迎える。
「一晩空けるだけだ、何の問題もない」
「姫しゃまの言葉じゃないのですが、随分と丸くなったものですね。戦じょうを移ろう鬼が、今では育児に苦心する父親のようでございますです」
「…………無駄口を叩くな」
二人が駆ける速度は常人のそれを遥かに凌駕している。
実際、この計画自体にはそれなりの人数が動員されているが実行犯はたった二人のみ。少数精鋭のほうが当人たちにとっても動きやすいというのは紛れもない事実であった。
魔族であるレシアの速度に、デュランはあっさりと併走している。
「まあ、別にいいのでございますです。腕は落ちるどころか、上がっているように思えますですし」
「当然だ、俺からこれを取ったら何も残らん」
二つの影がケルン大聖堂へと迫り、気がつけばデュランは外壁に面するほど傍まで近づくことに成功していた。
「手を貸しましょうか?」
レシアは蝙蝠のような羽を広げ、飛び立つことで壁を越える。
ざっと見たところ、四メートル程度という所か。
「いらん」
魔力が極力外に漏れないようデュランは体の内側だけで力を練り上げる。
と、ほぼ同時に跳躍し、四メートルを超える外壁をあっさりと飛び越えてみせる。
「相変わらず人間離れしているのでございますです」
「人間を辞めたやつに言われたくないな」
軽口を叩きながらも足を止めることはない。
「随分と、人が少ないな」
「明日は創始祭でございますです。警備も国中に分かれていますですし、手は幾らあっても足りないのですよ。それに、何人かはこちらの手の者を入れてますので、侵入するまではあっさりできて当然でございますです」
「それはまあ、随分とざるだな」
「この国の警備はそんなものなのですよ。ただ、やはり幾人かは手練れがいますです。七聖様直属の護衛なのです」
「戦闘は避けられんか」
言葉とは裏腹に、デュランの口元には獰猛な笑みが浮かぶ。
「やっと本ちょう子でございますですね。期待していますですよ、デュランしゃま」
◇
デュランたちが動き出すと同時に、もう一つの戦いが、今まさに引き起こされようとしていた。
迫る軍勢はたった一人。
だが、ただ一人にして、その戦力は数万とも数十万とも揶揄される。
最強の騎士が一角。
黒の騎士ことイルミーナは暗殺国家ソーラスの空で獰猛な笑みを浮かべる。
「ここがソーラスか」
イルミーナは当然のように空に浮かぶ。
黒い魔力の羽衣を纏い、剣を携え宙を駆ける。
ソーラスは一見しただけでもめんどくさい作りであった。入り組んでいるだけでなく、様々な所に仕掛けられた奇妙な魔力を感じる。
「んで、肝心の親玉はどこにいんだぁ? 普通に考えりゃあ城だよな」
そう言うや否や、剣を抜く。
そのまま、何かを目標にして大気に一閃。
剣が振りぬかれた一瞬の後、信じ難い光景が目に映る。
城の上部が、滑り落ちていた。
地鳴りのような音と共に、切断された巨大な石くれが土煙を巻き上げ崩れていく。もともとは城であった建造物は容赦なく牙を向いて、人々を押しつぶそうと降り注ごうとするその刹那――血塗られたような赤い柱が空へと昇った。
「かかかっ」
轟音の中、何よりも強く響き渡るのは軽快な笑い声であった。
赤き柱は降り注ぐ土塊を支えるどころか、瞬く間に飲み込んでしまい、まるで城など最初から存在していなかったかのように建物の残骸を消滅させた。
「随分とまあ、派手な挨拶よのう――ここまでの考えなしは些か久しぶりゆえ、実に愉快ぞぇ」
混乱する人々の怒号も、響き渡る悲鳴も、全て押しのけて響くのは、たった一人の少女の声だけであった。
「――はっ……まさかこの程度で出て来てくれるとは思ってもみなかったぜ」
イルミーナは剣に纏わせた魔力を空に浮かぶ少女へと向ける。
実際は城だけでなく、この首都そのものを半壊くらいまで追い込んで見るつもりだったのだが、まさか長年引き篭もりを続けていた七国の魔族がこうも簡単に出て来てくれるとは流石に予想外であった。
「かかかっ、最早隠れる意味もそれほどないでな」
「命乞いか?」
口ではそう言うがイルミーナとて本気ではない。
実際ちょっとした強がりを口にしておかなければ、戦う気すら失いそうになる圧倒的な重圧を感じるのだ。
これが、これこそが本物の魔族と言うやつか。
イルミーナが作られた理由。それを見て、己でも気づかないうちに口元に笑みが浮かぶ。
「かかっ、この街との付き合いは最早千年にも及ぶぞえ。最後に少しくらい肩入れするのもまた一興というものじゃて」
「はっ――その選択、地獄で後悔するんだなぁ!」
裂帛の気合と共に、一息で三度振りぬかれる闇色の斬撃。それら一つ一つは城を両断したよりもなお強大で、
「避けるか? 避けちまうとあんたの国とさよならだぜ?」
尚且つ、この魔族の長が出てきた以上はこの場所を守ろうという意識があるのだろう。
逃げ場所は存在しない。
冷酷に、容赦なく二者択一を迫る攻撃。確実に獲物を仕留めるのに十分な一撃が衝突するその刹那だ。
一瞬、ほんの一瞬、イルミーナの意識が、なにかに揺さぶられた。
「なっ――」
その次の瞬間、目に入る光景はまさしく異常そのものだった。
空に浮かぶ紅い月。
果てなく広がる無限の荒野。
街の上空にいたはずの二人が、何故か、どこにいるのか分からない場所に立たされていた。
「なんじゃ、量産品は領域系技能を知らぬのか」
ミナリアは己が爪を剣撃の数と同数振る。
三つの紅き斬撃と、黒の剣閃がぶつかり合い、凄まじい爆音が辺りに広がった。
「ちっ、お前…………どこまで知ってやがる?」
「かかかっ、聞きたくばこの口、割らせて見るがよいぞぇ」
そう言って、少女は残忍な微笑を口元に浮かべて見せた。




