平穏の裏側で
往来する人々の雑踏に、一人の少女が混ざりこんだ。
一見すれば迷子にも見える幼げな少女は、まるで存在していないかのように人の合間を抜けていき、聖堂へと入っていくと、祭司のもとへとたどり着く。
「――おや、これは珍しい。一人でお祈りかね、お嬢さん」
「うん、ままにおいのりしてきなさいっていわれたのー」
「それは素晴らしい心がけです。我らが神も何時も以上にお喜びになられておられる。敬虔たる信徒に祝福を」
「うん、ありがと~、しさいのおじちゃん」
そして少女はまた、消える。
(――そ、何時も以じょう、なのですか)
そうして辿り着いた建物の影で声をかける。
「お星しゃまのご様子は?」
そんな影の合間から声が零れる。
「動きはなしかと」
「――そう」
そしてレシアは再び消える。
立ち並ぶ建物の合間を抜け、整備されていない雑多な裏道を歩く。
クラーリスは七国の中で神聖国の支援を表立って受ける唯一の国だ。終わらぬ紛争にかまけていてなお、人々の暮らしぶりは落ち着いている。
足りないものは略奪で補い、満たされない渇望は宗教で埋める。
裕福ではないものの、人々の間に不安や不満はそう多くない。
そんな人々の生活の裏側には闇があった。
「おいっ! どっちに逃げやがったっ!」
「人を回せ、絶対に逃がすなっ! 探せ、探せッ!」
暴力的な声が反響していた。
人の領域を大きく逸脱したレシアの聴覚は全てを正確に捉えていた。
逃げ惑う弱者の足音。それを追う複数の獣。
「あら見て、物騒だわ」
「おいおい獣が逃げ出してるぜ、誰か捕まえろよ」
「誰んとこのものだ? 管理くらいしっかりしろよな」
人の波に逃げ出した少女は裸足の足を傷つけ一心不乱に走り続ける。それを眺める観衆は誰一人として少女を気遣ったりはしない。見下すような侮蔑の視線を、好奇の視線を向けるだけだ。誰一人としてその光景を疑問視していない。宗教という毒酒が思考を奪って、歪な常識を生み出してしまう。
それらを聞いて、少女は再び路地裏に逃げる。できるだけ人の目を避けたかったのだろう。
この場所に住まう人は、少女を人とは見ていない。
肌には薄っすらと毛があり、耳と尻尾が飛び出ているからだ。
「はぁ……はぁ……」
奴隷の逃亡は重すぎる罪だった。
掴まれば死ぬよりも恐ろしいことになる。
だが、それでも少女は逃げ出したのだ。きっとそれは、勇気でもなければ一世一代の博打でもなく、ただただ限界だったからに違いない。
その少女は衣服さえ身に纏ってはいなかった。
華奢な首に、物々しい首輪だけがあった。それだけを身に纏うことが許されていた。
裸身のまま、必死になって走り続ける。
命をかけた逃走劇のその先に、レシアが一人少女の前に立ちはだかった。
「退いてッ!!」
だが、レシアは動かない。
「どけぇえええええええええええええええええっ!」
般若の形相を浮かべながら、躊躇なく繰り出された握り拳をレシアは軽く流して、その体をひょいと持ち上げる。
体格差はかなりのものだが、レシアはまるで重さを感じていないかのように少女を抱き上げていた。
「い、いやぁあああああああああああっ! 放せっ! 放してっ! いやだぁ! いやだぁあああああっ! おねがいっ! おねがいだからぁあああ 放して、放してくださいぃぃいいい」
狂ったように叫ぶ少女の手足に手を回して、お姫様抱っこの形で持ち上げるとその口に手を入れる。
「うぐ、ふぐっ!」
その手を噛み千切ろうと噛み付いてくる少女だったが、レシアの小さな指は強靭な獣人の顎に晒されてなおびくともしない。
「落ち着いてくださいなのですよ、騒げば見つかりますですよ?」
青ざめて、今にも気を失いそうなほど狼狽する少女にレシアはなるべく優しく声をかける。
「むぐぅうううう…………いやぁ、もういやなのぉ、ゆるして……な、なんでもします、なんでもしますから、おうちに、かえして……」
とめどなく涙が零れる。
その涙だけが、最後の抵抗と言わんがばかりにレシアの手に触れていた。
「いいですよ。貴方は十分に頑張りました。今はもう、お眠りなしゃい」
レシアが手を翳すと、騒ぎ出続けていた少女が柔らかな寝息を立てる。
「――ヒナ」
「はいはい、レシア様。また、いつもの悪い癖ですね」
「うるさいのですよ、貴方に任せます」
「了解了解、まあうまくやるんでレシア様は姫様の指令、しっかりこなしてくださいよ」
音もなく、少女たちが消え去り、後には粗暴な人の声だけが残る。
「…………今も、昔も、人は変わらないものなのですね」
レシアは自らの首を撫でながら、虚空に向かってそう吐き出した。
◇
クラーリスに潜入して二日がたった。
ハイリア商会はやはりそれなりに利益を得ているのか、支店とは言ってもかなりの規模の商店をこの街に構えていた。
商品は主にシドニスから運ばれる塩、海産物が中心だが、食料品だけでなく日用品から武具や防具にいたるまで広く商売の手を広めているようだ。
デュランは与えられた一室に潜伏という形で逗留をしていたのだが、
「おじさ~ん、ネロたいくつ~、お外いこー、あそぼ~よ~」
案の定ネロはすぐにそう言いだした。
いや、ここは二日もよく持ったと褒めてやるべきだろうか。
「大人しくするんじゃなかったのか……」
「だってだって、ネロは外でちゃだめって言うし、もう二日も運動してないし、おじさんがかまってくれないし、ネロ暇なんだもん!」
そうネロは言うが、獣人であるネロにこの街を深く見せたくないというのがデュランの本音である。外を出歩けば騒ぎをこちらから呼び込むことになりかねない。
「クラウディアとでも遊んでろ」
そう言われたクラウディアは読み耽っていた本から視線を上げて、ネロに言う。
「紅茶でも入れてさし上げましょうか?」
ネロとは対照的にクラウディアは声は明るい。今の状況をこの上なく満喫しているのだ。
ハイリア商会が仕入れる豊富な食品にくわえて、貴重な書物も無駄に広いこの部屋にどんどん運び込まれていた。
それらを眺めるクラウディアは中々に楽しげだ。
「ぶぅ、あんな苦いのいらないもん」
「おこちゃまには早かったですわね」
「子供じゃないもん!」
「張り合うな、砂糖を入れればいいだろう。ついでに俺の分もいれてくれ」
「はい、騎士様っ! 喜んで!」
もと王女に給仕させるのには若干の抵抗を覚えるが、クラウディアの手つきは熟練者のものであるし、デュランが入れるよりもよっぽど味がよくなるのだから仕方ない。
「相変わらずいい手際だな」
どこかほっとする香りが立ち昇る。
素直に賞賛するとクラウディアは若干頬を染め、だが嬉しそうに笑う。
「レシアさんに色々と教わりましたの、花嫁修行の一環ですわ」
「…………そうか、いい相手が見つかるといいな」
「騎士様……分かってて言ってますよね……はぁ、つれませんわ……」
露骨に肩を落としながらも、クラウディアは手を動かし、十分に蒸らし終えた紅茶をネロとデュランの前に置いた。
そのカップを手に取ろうとしたとき、デュランのものではない小さな手が割り込んでくる。
「うん、おいしいのでございますです。また腕を上げましたね、これならいつでも姫しゃまのメイドになれますですよ、お師匠様が太鼓判を押してあげますです」
音もださず、扉も開けず、いつの間にか侵入したレシアにネロやクラウディアが目を見張る。
「お前、いつの間に……というか、客人に出されたものを横取りするメイドがいるか、普通」
「ここにいますですよ~」
無性に腹がたつ間延びした声が鬱陶しく響く。
「ひどいですわ、レシアさん! 私が騎士様のためにお入れした紅茶を――」
「――うふふ、なのです。腕が上がったのは認めるのです。ですが、まだまだ青いのでございますですよ、クラウディア」
妙に偉そうにレシアが言う。
「ど、どういう意味でございますか?」
「普通の人に入れる紅ちゃならばこれで十分でしょう、ですが大切な人に入れるとなればそれでは駄目です! 愛する人に差し出すものは他とは明確に違う、特別でなければならないのです」
「特別、ですか?」
ごくり、とクラウディアののどが音を立てた。
「その通り、コツはたった一つだけ、自分の愛情を形にして手渡すのです」
デュランは何故か背筋に寒気を感じた。
「ぐ、具体的には――」
がたん、とテーブルを揺らしてクラウディアは教えを請う。
レシアは待ってましたと言わんがばかりに、大仰に告げた。
「隠し味に一滴の体液をえぶしっ……! 痛いのです! 何をするのですか、デュランしゃま……」
「間違った知識を教え込むな、世間知らずなお姫様が真に受けたらどうするつもりだ」
「心外ですわ! 私は世間知らずでもお姫様でもありませんわ」
「入れるなよ?」
「…………入れませんわ」
何か不自然な間があったのは、もう無視しておこう。
デュランは改めて紅茶に口をつける。
「で、実行はいつになりそうだ?」
「予定通り、三日後の夜でございますです。創始祭の前日に予定通り実行するのです」
「ねぇねぇ、そうしさいってなにー?」
ネロが小首を傾げてそう聞いた。
「選神教が掲げる一年の始まりを告げる日を祝う祭りらしい」
「この世の始まった日を祝うとも言われてますです。最も、一部の人間はこう呼ぶのですよ、英決祭、と――」
そう告げるレシアはスイッチが切り替わるかのように、深い憎しみを目に宿す。
「とまあ、そんなのはどうでもいいのです――当日に向けて、しっかりと英気を養ってくださいなのです――」
そう言って、唐突に現れたレシアは、唐突に消えた。
まるで、深く歪んだ自らの顔を隠したかったようにも思える。
「……英決祭、ですか……いったい何を決断したのでしょうか?」
どこか脅えたようにクラウディアが言う。
「――さてな、だがあいつの顔を見た限りでは、碌なものじゃないんだろうな」




