頂に立つ者
神に創造されたその身は、ただ悪意のみで構築された。
だから、生まれ落ちたその瞬間から他者の死を笑うことは、神の手足として創造された自らの義務である。
記憶として受け継いだのは人の醜き性である。
人がけたたましく笑うその姿だけが、与えられた記憶なのだ。
死を笑う道化師は知っている。
人は他者がいなければ、笑うことができない生き物である、と。
誰かを見て、誰かと比較することでしか笑えない。
隣を見て、自分のほうが優れていると他者を笑う。
高みを見て、嫉妬に狂い、逃げるように誰かを嘲笑う。
何処の世界でも同じである。
脳裏に焼き付けられた負の遺産は、惨たらしい人の営み。
小さな子供が行ういじめから、独裁者の行う無慈悲な虐殺まで、偽りの高みの上で人が笑う姿が魂の根底に焼き付けられた。
(――人は皆、そうである――――)
殺して笑う。
虐げて笑う。
奪い取り笑う。
見下して笑う。
騙して笑う。
同情して笑う。
嫉妬して笑う。
必死になって下を探して、
そんな誰かと見比べて、
誰かよりも優れていると認識できて、初めて人は心から楽しげに笑うのだ。
他人の不幸は蜜の味――それこそが、人の本質であると魂の奥底に刻まれた。
(嗚呼――嗚呼、なんと――なんと、醜い――――)
燐人を騙し、薄っぺらな言葉を投げかけ、心の奥で愉悦を蓄積させる救いようのない供物共を、神に捧げることこそが、この身が存在する理由である。
偽りを取り除き、等しく価値なき死を笑うことこそが、この身がここに存在する理由である。
その、はずなのに――
「諦めろ――――貴様は最初から処刑対象に過ぎないということだ」
それは、こちらを見下してくる。
復讐に囚われるだけの遺物の癖に、こちらを見下してきたあの男と同じ目だ。
全ての価値なき生命を、見下すために与えられたこの身を嘲笑ってくるのだ。
「…………認めない」
そんな存在を認めていいはずがない。
神以外に、自らの上がいていいはずがない。
それは、死を笑う道化師が感じた明確な危機であった。己の存在を脅かす天敵への恐れであった。
それが存在する限り、自らの存在理由を失ってしまうのかもしれない。
「――あたくしは、あなたの存在を認めませんわ」
そして戦闘は、激化の一途を辿っていった。
◇
レイドボスに挑むにあたって、情報とは何よりも大切なものだ。
龍眼で覗き見たステータスを比べて、ナハトが一番に想定したのは、いざという時に逃亡することが可能か否か、である。
敏捷の値とレベルを見て、ほぼ確実に可能だろうとナハトは理解した。
(敵はレベル差を感じていないのか……それとも、意図してその差を認めていないのか――)
レベルとはそれそのものが立ち入れる領域を示している。
単純なステータスは勿論、高レベル帯で得られるスキル、高レベルモンスターの素材や道具は勿論、そこから得られる装備、さらには敵の技能や能力に触れる経験と蓄積される知識、どれもレベルが高ければ高いほど確固たる差になっていく。
例えば、レベルカンストの際に貰える終の技能は代えが効かないほど強力であるし、ゼロ桁到達ボーナスの技能も強力である。究極宝具とまでは言わないまでも、古代級装備を一から作り出そうと思えば、まず間違いなく百四十を超えるモンスターの素材が必要であるし、ドロップとなれば間違いなくボス級モンスターからであろう。それらを膨大な数討伐する必要があれば、自然と未知の技能にも対応できるようになってくる。
無論、レベルの強弱は戦闘にも密接に関わっている。看破が成功し、敏捷や物理耐性が低いことを戦う前から把握できていたし、各属性は苦手なものが少ない万能タイプであることも知ることができた。使える魔法の熟練度は勿論、ヒットポイントの確認、技能の判定にもレベル差は常に付き纏う。
単純には語り切れないほど、レベルの示す意味は大きい。
故に、ナハトはレベル差を重視するし、勝てないまでも負けることは決してない戦闘ができる、と確信を持っていた。
(――まあ、シュテルの前だ。私が逃げ出すわけにはいかないだろうけれど)
どっち道、引く気もなければ、譲る気もない。
ナハトの家族に手を出した者の生を――
「――私が認めるわけにはいかないな」
軽い牽制から、一撃で砦を吹き飛ばすような強力な魔法まで――多種多様な姿を象り、超常の現象が次々と引き起こされていく。
耳を劈く雷鳴が響いたかと思えば、暗き闇が地表に顕現して光を奪う。
見る者が見れば、芸術とまで揶揄されるであろう殺し合い。それらがもう一時間は続いただろうか。
ナハトは良くないなと思いながらも、今この瞬間を楽しげに噛み締める。
(懐かしいな――)
普段はギルインとパーティを組んでいたため、ソロでのボス戦はレヴィ以来なのだ。まして、この世界に来てからはまともに魔法を使う機会さえなかった。
だから、不謹慎に感じながらもどこか懐かしい高揚感を覚えずにはいられない。
最も、それらを感じて浸ったのはほんの数秒だけだ。
ナハトの瞳が急激に冷える。
残されたのは純粋な殺意だけだ。
すぐに意識を切り替え、敵を殺す計画を実行に移す。
「――魔法効果範囲拡大、竜魔法――霧竜の迷宮」
ナハトの魔法が発動すると、一寸先も目に見えぬほどの深い霧が周囲を覆った。認識疎外を含む霧の迷宮が一瞬にして広がったのだ。
「っ――! 上位魔法破壊」
動揺はほんの一瞬。
視界を覆う霧は技能によって破壊される。
だが、その一瞬の時間があれば、ナハトは姿を隠すことができる。
「どこに――」
ナハトは敵の投影技能に対する対策を主に三つほど思い付いていた。
一つは最も単純で効果的な、敵の視界を遮る方法である。視界を遮る意外にも、幻想龍など技能の発動を隠蔽する技能も天敵と言えるだろう。
最も、ナハトは攻撃にほぼほぼ特化しているので、このような妨害系魔法はすぐにかき消されてしまう。
(アネリーさんがいてくれればな楽なんだけどな――)
遥か上空。
雲を隔てた成層圏から魔法を編み、ナハトはそう思考する。
(――いや、駄目だな……あの人がいたらそもそも敵に技能なんて使わせないだろうし、流石に卑怯すぎる……)
ナハトが今やろうとしているのは視界を遮る対策、その延長線である。
即ち、視界に収まらない遥か遠距離からの攻撃であれば、跳ね返される危険はまずない。
「――魔法最大強化――氷撃魔法――永遠の凍結」
技能補助を得た氷雪系最上位魔法の中でも一際強力な永遠の凍結が天空より降りた。
生まれ落ちていく白銀の世界。
大気に含まれる水分のみならず、融点の低い気体が瞬く間に凍結し、生きとし生けるものの生存を否定する終焉が地表へと降り注いだ。
決して覆すことのできぬ絶氷の牢獄に、亀裂が駆け抜ける。
「――弱者を笑う敗者の盾」
想定していたよりもダメージは遥かに小さい。
かなり優秀なダメージ軽減スキルだ。使用できるのはおそらく一度だけだろう。
敵もいよいよ切り札を切ってきていた。
「――見つけましたわ」
怨念のような声と共に魔法が幾つも幾つも迫り来る。
ナハトは空中を舞い、迫る魔法の弾幕を紙一重で避け続ける。
だが、
「――魔法効果範囲拡大――超重力場生成」
「ぐっ――」
流石に、超範囲の重力場を通常の状態で回避しきるのは不可能だ。
自重が何百倍にもなったような感覚と共に、大地に物凄い勢いで引き寄せられる。
「いい加減、死んでくださいませ――!! 重力砲撃っ!」
三度目となる重力砲撃。
敵も全力で殺しに来ている。
体の自由は利かず、初動が遅れたため魔法を唱える隙もない。
(消すか……いや、それはない)
敵の最大火力を消すには龍撃魔法以上のMP消費を覚悟する必要がある。
対応策を思考する間もなく、飛来した重力砲撃がナハトを飲み込んだ。
手ごたえを感じたのか、
「やりましたかっ!?」
なんて歓喜に満ちた声が響いた。
「――――露骨なフラグをありがとう」
ナハトは死を笑う道化師の眼前に現れる。
巻き込まれて消え去ったのは、脱ぎ捨てた表層の身代わりである。
「残念だが、蜥蜴の尻尾切りというやつだ、知らないだろうがな」
「貴方は……いったいどれ程の技能を……」
「さてな」
ナハトは惚けるように言う。
「何、貴様もまあレベル帯に照らせば強力な固体であろう。ヒットポイントや耐久力は勿論だが、豊富な回復技能に防御技能、厄介な固有技能に投影技能、広範囲破壊魔法に加えて、多種多様な攻撃魔法、アネリーさんのような人がいないなら苦戦は必死だ――」
流石は最新のアップデートで追加される予定だったボスキャラだ。
ナハトは素直にそう思う。
「だが、あくまでそれは同レベル帯での話――」
高レベル帯の理不尽な暴力に晒され続けたナハトにとってみれば微温湯だ。警戒すべきは固有技能と重撃魔法くらいであろう。
「貴様では決して届かぬ領域を見せてやろう――」
「戯言を――っ!?」
発していた言葉が止まる。
今までにない魔力の高まりに口を噤んで、死を笑う道化師の身体が意思とは関係なく震えた。
「いったい、なんだというのです、貴方はっ――! これではまるで、我が神のよ――」
最早悲鳴に近い叫びだった。
一瞬で、攻守の関係が入れ替わる。魔法を発言しようとするナハトを見て、すぐさま逃亡へと切り替える死を笑う道化師は正しい判断をしたと言える。
最も――
「それもまた、不正解ではあるのだがな――」
ナハトが逃亡を許すはずもない。
「しまっ――!」
紳士の荒縄、というふざけた名前の課金アイテムが効力を発揮する。約二十種類の拘束方式を選択できる拘束具は敵の移動を封殺する。
(亀甲縛りを導入した運営はアホだ、間違いない)
そのせいで女性プレイヤーを狙って紳士の荒縄を使用する迷惑行為が横行したこともある。ナハトはナハトで親衛隊を半殺しにした記憶があった。
ため息混じりに右手を掲げた。
空へと昇った魔力の柱は徐々に渦を巻いて、容を取る。
暗闇の中に燦然として輝く紺碧の光は、まるで宇宙から見下ろす大海のように思える。
「やめっ――」
「龍撃魔法――根源を掌握せし魂魄龍の回帰」
魂を掌りし魂魄龍その名を冠する技能が初めて出現したのはナハトのレベルが百四十に達した時であった。
その際の零桁ボーナスで獲得した魔法こそが、現状におけるナハトの最大火力である根源を掌握せし魂魄龍の回帰であった。
魂を掌り魂魄龍、その裁きの崩壊は――ありとあらゆる生在る物を始まりにしてただ一つの根源へと帰す。
そう解説文には記されていた。
暗く碧い渦は、重力場のように全てを吸い寄せ、そして無に帰す。世界には度々亀裂が走り、その都度崩壊は広がりを増す。
「っあ…………かひゅ――」
全身には皹が走り、仮面はその上部が消し飛んでいた。
焦燥と憎悪が深く入り混じる螺旋の瞳が、ようやく姿を見せていた。
根源へと戻され失われそうになる自我を、その有り余る憎しみだけが辛うじて支えている。
残存HPは残り一割を切っていた。回復技能は打ち止めであり、満身創痍であることは一目両全だ。
「っぁ――あたくしは……みとめないぃいいいいっ!」
狂気の叫びが、失われそうになる声を上げる。
「敗者の小部屋で喚く愚者ゥウウッ! 大噓つきの悪態ツ!」
――だが、雄叫びに反し、技能の発動を告げる燐光は、立ち昇らなかった。
「……えっ!?」
明確に近づく死の気配が、焦燥を加速させる。
「な、何故でございますかっ! 大噓つきの悪態っ! 大噓つきの悪態っ!! 嘘っ! 大噓つきの悪態……! なんでっ……くそっ、くそぅ、クソがっ!」
冷静な思考はそこにはない。
あるのはただ、死に脅える弱者の姿だ。
「届かぬ領域と言ったであろう――高レベルプレイヤーなら不可侵の攻撃くらいは知っておくべきだろうに」
防御も、抵抗も、反射も、投影も、身代りも、妨害も、疎外も、消滅も、無効化も、軽減も、減少も、ありとあらゆる能力を持ってしても、その攻撃を侵害することは許されない。
そう言った特殊な攻撃技能をプレイヤーは不可侵の攻撃と呼んだ。
受けに回った時点でどうしようもない、負けである。
「対抗策は主に二つ、同程度の威力を持つ攻撃をぶつけて相殺するか全てを投げ出して回避するかだ――冥土の土産に教えておいてやろう」
ナハトは一歩ずつ、距離を縮める。
その度に、倒れ伏す死を笑う道化師が必死になって後退する。
「やめろっ、くるなっ……来ないでくださいませっ! 敗者の小部屋で喚く愚者……か、死呪」
最後の抵抗に選んだのは、死を与える呪いであった。
ナハトは薄気味悪く昇る呪いを苛立たしげに踏み砕く。
「うちの娘が世話になったな――お返しだ――私の手で引導を渡してやる」
握りしめた課金アイテムを容赦なく握り潰す。
残存魔力、その全てを詰め込んで、ナハトは裁きの魔法に断罪の意思を伝えた。
「龍撃魔法――龍の吐息」
深き夜は死を笑う道化師を飲み込んで、その魂までも崩壊へと誘う。
肉は崩れ、心は解け、魂が削げ落ちていく。
苦悶の声は響かない。
最早声を上げる器官など何処にも存在してはいない。
それでも己が最後の魔力に意志を込め、その言葉は残された。
「……申し訳、ございません、我らが…………神、よ……」
ナハトは散りゆく灰から静かに視線を外していった。
「これでもう、怖くないよ、シュテル」
画面の向こうにいるであろう愛し子に、ナハトは柔らかい微笑を向けた。




